三題噺
星 雪花
第1話 金色の雨は地上に降りそそぐ
昔あるところに、世界を滅ぼそうとした一人の妖精がいた。漆黒の夜空を広げたような羽をもつ妖精は、地上の光をすべて消そうとして、その罪から大きな罰を背負った。
大切な記憶を、引き換えに失ったまま。
*
雲の上にある『妖精の国』では、色んな光を放つ妖精が、さまざまな役目をその身に負っていた。
なかでも虹色の羽をもつ妖精は、誰もその姿を見たことがなかったが、いにしえの伝説とその美しさから、「最後の希望」という名で呼ばれていた。
*
妖精のアルフィンは、いつも不思議に思うことがあった。雲の上では、透き通るような青色がどこまでも遠く続いているけれど、地上界では一体何が広がっているんだろうと。
地上へ行くことは、百年前から禁止されていた。お互いに干渉せず、世界の秩序を守り続けようと。
でも一年に一度だけ、限られた光の妖精だけが地上に降りるのを許される日があった。それは地上を照らす光をロウソクに灯すための大切な儀式で、いつも冬至の夜に行われた。
灯台のロウソクに新しい火が灯ると、その光は地上の隅々を照らして、その日から昼間の光は、ロウソクの芯が短くなるに従って増していくのだ。
その光が指し示すのは、妖精の国ではなく、まだ見ぬ地上の世界。
アルフィンは属性を持たず、妖精のなかでも末端の、地上に雨を降らせる役目だった。専用のジョウロを持って空の合間を飛ぶと、水色の空は雲にのみこまれて、細い糸のような雫が地上に降り始める。
その様子を見ながら、ぼうっとしたのがいけなかったんだろう。ある日アルフィンは、ジョウロを落としてしまった。
そういうことは、稀にあるらしい。妖精の国のジョウロは、地上界にたどり着く前にシャボン玉になって消えてしまうから、たとえ落としてしまっても、新しいのを取りに行くだけでよかった。
——それなのに、アルフィンは雲間へ吸い込まれていくジョウロの影を見て、その先を見てみたくてたまらなくなった。
ずっとずっと、我慢していたのだ。少しくらい地上をのぞいても、バチは当たらない。アルフィンはそう思った。
地上へ降りる禁忌を犯すには、体の一部を燃やさなければいけない。アルフィンは片方の羽のほとんどを、雲間の小さな稲光で燃やしてしまった。痛みは感じなかった。
体は面白いくらい、早く落下した。そしてその先には、どこまでも果てしない地上の世界があった。
だんだん暮れていく空の西の方では、太陽が黄昏の雲のなかへ吸い込まれていく。そのさまにアルフィンは、目を奪われた。
東では群青色の空が薄く広がっていて、すでに辺りは夜気のにおいがした。緑色のこんもりとした丘陵がなだらかに続いていて、その谷間には細く青い水の流れがあった。
アルフィンは、その支流を目指すことにした。落としたジョウロのことは、頭から消えていた。それよりも、一刻も早く、地上の世界を見てみたかったのだ。
——と、不意に、得体の知れない妙な既視感を覚えて、アルフィンは停止した。
(この場所は、見たことがある)
森へ続く細い川の流れをたどるうちに、アルフィンの脳裏に浮かぶ映像があった。
泣き叫ぶ、誰かの悲鳴。
胸の内側から、噴き出す暗黒の光。
それは、アルフィンの記憶の一部だった。
(どうして、僕は知っているんだろう)
アルフィンは混乱する頭を抱えたまま、流れてくるビジョンから目をそらせなかった。
(誰かが、僕の名前を呼んでいる)
——泣き叫んでいる、
(あれは誰だろう)
おぼろげにかすむ記憶をたどるうち、灼けつくような感情がアルフィンの胸を暗く満たし始めた。
(彼女を守りたかったのに、僕は守れなかった。この世界を滅ぼしてしまえばいいと、激昂して、我を失った。
彼女は泣いていた。大きな両目から、真珠のような涙が流れ落ちて——彼女は両方の羽を失った。
僕は許せなかった。どうしても許せなかった。彼女をなぶりものにした代償に、この世界の光を残らず消してしまおうと思ったんだ)
*
気づいたら、アルフィンは森の奥にある、岩の窪みの前に立っていた。奥から湿った、かびくさいにおいがする。と、そのなかへ目をやって、アルフィンは痺れたようにその場から動けなくなった。
——
岩の窪みにある牢のなかで、鎖に繋がれている。まるで罪人のように。
名前を思いだせない。彼女の涙を、こんなにも覚えているのに。
「アルフィン……?」
虚ろな眼差しを、彼女は
彼女はすでに、羽のない妖精だった。そして困惑するように首を振って、涙のにじむ声でつぶやいた。
「どうしてここに来たの。絶対に来てはいけなかったのに」
「なんで、君は、ここに……」
その瞬間、胸の底を突きあげる感情があった。
——ひとりきりで、こんな場所にいたのか。
一体誰が、どうして、何のために。
彼女を苦しめるものが、たとえ神と呼ばれるものだとしても、僕を怒らせたことを存分に悔いるがいい。
その激情に揺り動かされるように、アルフィンの体は突如、変容した。片翼の背中から、新しい羽が皮膚を食い破って、それは夜空を溶かしたような漆黒の色だった。
「やめて、アルフィン。私は平気だから。今日が最後の日なの。同じことの繰り返しになる」
悲痛な叫び声。
僕は思いだした。彼女は虹色の羽をもつ、希少な妖精だった。まだ地上界との交流があった頃、妖精としてこの世に生まれた日に、僕は初めての地上を彼女と見に行った。
そして、たまたま降りたったこの森で、人間に捕まった。人間の体は大きく、歪んでいて、そして野蛮だった。彼女は羽をむしりとられて、その上で陵辱された。
僕は他の人間に押さえつけられて、残酷な光景を見ていることしかできず——耐えきれなくて、ついには慟哭した。
その感情は胸に穴を開け、次の瞬間暗黒が噴き出して、僕を闇の妖精に変えてしまったのだ。
彼女を襲った人間が許せなかった。こんな世界は滅ぼすべきだと思った。そして地上の果てにある、人間界の光を闇の力ですべて消してしまった。
世界は完全な暗黒のなかに包まれ、異常事態を知った光の妖精は、地上を照らすためのロウソクを生みだした。
冬至の夜に、それは灯される。
その日から、地上の昼間の時間は、ロウソクの長さで変わってしまったのだ。
なくしていた記憶。
僕は記憶を、封じられていた。
「私がここにいたのは、自分で自分に科した罰だったの。あなたを闇に落としてしまったから」
彼女はうるんだ目をむけて、つぶやいた。
「人間はあの日を境に、私たちを狩らないと約束してくれた。今日がちょうど、百年目の夜」
そう言って彼女は微笑む。
「ありがとう。最後に、会いにきてくれて。やっと私は、ここから出ていける」
彼女の体が、少しずつ光り始める。
僕はやっと、彼女の失われた名前を思いだした。
「セイレーネ」
最後の希望。その光で、世界を救うという。
彼女は百年もの間、この牢獄に繋がれ続けていたのだ。
僕は——泣いていた。
信じられなかった。やっと会えたのに。彼女はいにしえに伝わる、誰も見たことのない光の妖精だった。
彼女は光になって消えてしまう。
妖精の寿命は、百年と決まっていた。
「嘘だろう。どうして、どうして、僕は死ねないんだ。君といつまでも一緒にいたいのに」
「それはあなたが、死ねない呪いを背負っているからよ」
セイレーネは、哀しそうに言った。
「世界を滅ぼそうとした罪を重く見た妖精の長は、一番辛い罰をあなたに与えてしまった。
あなたは、何度も何度も生まれ変わる。次の百年も。その次の百年も。たとえ私を忘れてしまっても」
光が強くなる。
行かないでくれ、と僕は叫びたかった。でも、何も声にならないまま——彼女の体は鮮烈な光になって、牢を抜けると空へ駆けのぼった。
光は夜空の中心に吸い込まれたかと思えば、それは星になって、辺りに降りそそいだ。流星群のように。
いくつかの光は縦横無尽に走り、地上の湖や、山の連なりや、川の清らかな水面や、他のあらゆる場所へ弧を描き、金色の筋となって流れてゆく。
そのひとつが僕の頰にあたって、涙がほんの少しだけ温められた。無数の光のなかに、彼女はいた。
*
——そして、世界へのどこまでも優しい、祈りの雨のような奔流を眺めているうちに、アルフィンは少しずつ記憶をなくしていった。
その流星のような筋が消えてなくなる頃、アルフィンはたくさんの瞬く光の余韻のなかで、なぜ泣いていたかも分からなかった。
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