第82話、剣道少女
「おお……、我が妻よ」
イヴの肩に手を置いたまま、教祖が唸るように呟く。
「い、痛い……触らないで!」
イヴはそう叫んでもがくも、いっこうにその手を離そうとはしなかった。
その腕には、相当の力が入っているようだ。
教祖の指が完全に、イヴの服の上からめり込んでいた。
その様子を目にして、私、日比谷遊は深く深呼吸を始める。
走って乱れた呼吸を整えるためだ。
「ねえ、早希お姉さん。その腰に下がってるモノを借りるね」
やっと呼吸を落ち着けると、傍らの早希に声をかけた。
「えっと、これのことかしら?」
そう言って手渡してきたのは、50センチほどの長さの警棒だ。
手にすると、なかなかの重さがある。
婦警の制服はコスプレだが、この警棒はレプリカではないようだ。
ちゃんとした正規の護身用具、それが剣道経験者の手にかかれば、れっきとした凶器へと様変わりする。
その気になれば、人間の骨も簡単に折ってしまえそうだ。
私は、それを正中線上にまっすぐ構えた。
その刹那、私のツインテールが宙を流れるように揺れる。
「このーっロリコンッ!」
鋭い声を発しながら、目にも止まらぬ速さで私は突きを繰り出した。
あの教祖とかいう男の眉間めがけて、一切の躊躇なくまっしぐらに。
周りの白服たちはとっさに庇おうと動くが、私の瞬間の動きを目で追えてすらいない。
突き出された警棒は、教祖の頭蓋骨をかち割る寸前で、ピタリと止まった。
「ほら、嫌がってるでしょ。離しなさいよ、このロリコンオヤジ」
私は寸止めした警棒をそのまま維持しながら、出来るだけ迫力の出る口調で言った。
教祖はすぐには状況が理解できないのか、私を唖然とし見つめていたが、自分の顔の先にあるものに気づくと、掴んだ手を引っ込めた。
「ま、待て……それを下ろせ」
「あんたが離れるまで、下ろさないわよ!」
私の一喝に、教祖はしぶしぶといった様子で後ずさりする。
それを見て、ようやく私は構えを解いた。
「……す、すごい。遊ちゃんかっこいい」
早希が感嘆の声を上げる。
「剣道をやってるだけよ。素手の相手に刃を向けるのは気が進まなかったけど、この場合は仕方ないわね」
「チッ……小娘が邪魔をしおって」
白服たちに取り囲まれた教祖は、名残惜しそうにイヴを見つめると言った。
「今は分が悪い、退いてやろう。だが、そのイヴという娘は必ず私が貰い受けるぞ。そのイヴこそが、我が夢を叶えるために必要なのだ」
捨て台詞を吐くと、白服たちを引き連れて廊下の奥へと足早に立ち去った。
「イヴちゃん、大丈夫だった?」
早希がすぐさま床にしゃがみ込んだイヴに駆け寄って、声をかけた 。
「うん、大丈夫」
イヴは放心したように頷く。
そして、教祖の消えた廊下の先を見つめてこう言うのだった。
「今のおじさん……死んでいた」
「えっ、どういうこと?」
聞き返す早希に答えて、イヴの口から出たのは思いもよらない言葉だった。
「あのおじさん、生きていなかったのよ。たぶん、もうゾンビになってる……」
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