第61話、シャワー室の壁に

 俺の手からシャワーヘッドが滑り落ちて、床に転がる。

 溢れ出る湯の勢いで、ホースが蛇のようにのたうち回った。

 俺の頬に、飛び散った水滴が降りかかる。

 しかし、俺は飛沫を避けることもできずにそのまま硬直する。

 動けない。

 背中に感じる柔肌の感触、それがどういう状況なのか頭では理解していた。

 それでも、俺は振り向かない。

 否、振り向けない。


「……早希……さん?」


 ただ前の壁を見つめたまま、俺は馬鹿みたいにその名前を口にした。


「ねえ、日比谷くん。私を抱いてよ?」


 早希の囁き声が、そう繰り返す。


「やめてくださいよ。こんなの……こんなの早希さんらしくない」


「私らしさ……ってなによ? 優等生としての私? 模範的でいつも頼りになる私?」


 早希は責めるような激しい口調で、一気にまくしたてた。


「こんな世の中めちゃくちゃになって、私だけ優等生のままでいられるわけないじゃない」


 早希の言葉が、俺の胸を刺す。

 それは、早希の掛け値なしの本音だった。


「……ねえ、日比谷くん? あなた、男の子でしょ? 私もめちゃくちゃにしてよ。お願い、お願いだから私をここで犯して……」


「ダメだ、早希さん。……それはできない」


 俺は、首を横に振る。

 口にすると、ずきりと胸が痛んだ。


「どうしてよ……どうしてなのよ? 私ってそんなに魅力がない? 日比谷くんにとって、私ってただの頼れる部長でしかなかったの?」


「ブラッディ・チェリー。今、蔓延しているゾンビウイルスの名前です。このウイルスは、性交を経験した者にしか感染しません。今、俺と性交渉をしたら早希さんはゾンビになってしまうんですよ。だから……」


 俺は龍崎博士から聞いた話を、そのまま言って聞かせた。

 荒唐無稽な話だ、早希が信じてくれるとも思えなかった。

 だが、素直に話して説得する以外に方法は浮かばなかった。


「そんなこと関係ないの。ゾンビになってもいい。もう、全部たくさんなのよ。日比谷くん、……私とセックスしてよ」


 早希は、それでも迫り続ける。

 自暴自棄にやけくそに捨て鉢になって、俺に自分の身体を放り出しているのだ。

 その行為に、自分の失った存在理由をどうにかして見出そうと、必死に執拗に……。

 しかし、そんなものはただの自傷だ。

 それでは、だれも救われない。

 そんな早希を、絶対に俺は受け入れない。


「……投げ出してんじゃねえよ!」


 俺の一声に、早希の肌がビクンと震えた。


「自分を偽って貶めて、それで簡単に楽になろうとしてるんじゃねえよ! 世の中が世界がどうなろうと知ったことじゃねえだろ? たとえ人類が滅ぼうとも、文明が崩壊しようとも、早希は早希だろ? それは、なにも変わらねえだろうが!」


 気がついたら叫んでいた。

 シャワー室の壁に向かってただひたすらに、早希への気持ちをぶちまけていた。


「お前は早希なんだろ? 俺の知ってる早希はな、ちょっとやそっとじゃ諦めない奴なんだ。地球上の人間が全員ゾンビになったくらいじゃ、へこたれない強い心を持ってるんだよ。

 言っとくが、俺がセックスしたいのはそんな早希なんだよ!」


「……日比谷くん」


「俺は、委員長萌えなんだよ。だから、頼むから普段の早希に戻ってくれよ」


 背中から早希の感触が離れた。

 そして、少しの沈黙が流れる。

 その瞬間、早希がクスリと笑ったような気がした。


「ごめん。服を着てくる……このまま振り向かないで」


 そう囁く早希の声は、普段の落ち着きを取り戻していた。

 背後でドアが閉まる音がして、早希の気配が消えた。

 ようやく、俺はずっと見つめていたシャワー室の壁から視線を外す。

 身体を拭き、服を着て、シャワー室を出ると、部屋の前にはいつも通りのしっかり者の優等生の姿があった。


「ありがとう、日比谷くん。私、大事なことを見失ってた」


 早希はそう言って、俺に微笑んだ。

 しかし、一つ不可欠な要素が足りていない。


「ほらこれ、忘れ物」


 俺は前に拾って渡しそびれていた眼鏡をポケットから出して、早希へと手渡した。


「あっ、私の眼鏡。拾ってくれてたんだ」


 早希の顔に眼鏡が戻る。

 長かったが、これでようやく元通りだ。

 そう思ったそのとき、遠くから甲高い悲鳴が響くのが耳に入った。

 それは、奏と瑠花の叫び声だった。

 二階で何かがあったのだ。

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