第56話、向けられた銃口

 早希は、引き金にかけた指に力を込める。

 その動作は、ひとりの人生を終わらせるにはあまりにもか弱い動きだった。

 早希は目を瞑って、撃ち出される銃弾を待った。

 しかし、何も起きない。

 引き金にかかった早希の指は、そこからピクリとも動かないままだった。

 早希は不思議そうな表情を浮かべて、構えた状態の拳銃を見つめた。

 直前の動作でちゃんと安全装置を外して、撃鉄を起こしている。

 それなのに、なぜ発砲されないのか理解できない様子だった。

 俺は、ようやく一呼吸ついた。

 引き金が動かないのは、俺がとっさに拳銃のマガジンを外したためだ。

 現在の実用的な拳銃の多くは、たとえマガジンを外していても、薬室に銃弾が残っていれば発砲することは可能だ。

 今も早希の手の中の拳銃には、たしかに1発の弾丸が装填されている。

 しかし、ブローニングハイパワーには、マガジンセーフティという特殊な機構が存在するのだ。

 それは、マガジンが脱落した状態だと自動的に引き金にセーフティがかかるという他には見られない構造だった。

 そのため、早希が引き金を引いても、マガジンの脱落した状態では撃発することは不可能だったのだ。

 今日では、利便性の悪さからめったに見ることのないその安全装置が、早希の生命を救ったのだった。

 結果的に、竜崎博士の持っていたこの銃が骨董品クラスの型遅れの代物だったことが功を奏したというわけだ。

 いくら、優等生の早希とはいえ、そんな銃の知識までは持ち合わせてはいなかったのだ。


「早希、そんなもの捨てるんだ!」


 俺は早希へ駆け寄って、その肩を抱いた。

 ぶらりと下ろした早希の手から、拳銃が地面にぽろりと転がる。

 手をかけた早希の肩は、激しく震えていた。

 思っていたよりずっと小さく脆そうな鎖骨の感触に、俺は戸惑う。

 早希は虚ろな視線を俺に投げかけると、その場に突っ伏して泣きじゃくりはじめた。

 まるで、幼児のような泣き方だった。

 普段の、優等生として毅然と振る舞う早希からはまったく想像できない、一切なりふり構わない姿だ。


「早希……、早希……」


 俺はすっかり乱れた早希のつむじへと、その名前を何度も繰り返し投げかけた。

 ひとつの慰めの言葉も思い浮かばない。

 早希は、今この瞬間に、すべての希望を失ったのだ。

 未来を、思い描いていた将来を、これから叶えるだろう多くの夢を、世界の崩壊というかたちで早希は永遠に失ってしまった。

 それを俺なんかに、いったいどんな言葉をかけることができるのか。

 どんな慰めも気休めにさえならないだろう。


「早希……、早希、しっかり……」


 そこから、言葉が続かない。

 しっかり……何をしろと言うのか。

 この荒廃した世界で何をして生きろ、と?

 目の前の早希は、いつまでも癇癪を起こした子どものように泣き続ける。

 いつか涙も枯れて、否が応でも泣き止むだろうが、それまでは俺にはどうすることも出来なかった。

 視線を落とした俺は、足元に落ちているものに気づく。

 それは、早希の掛けていた大きなレンズの金縁眼鏡だった。

 まるで早希を構成する大事な一部が投げ捨てられているみたいで、俺はそれを拾い上げると大切なものを扱うようにそっと握りしめた。

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