第46話、ヤドカリ
背後から漂う気配に、思わずアタシはその場で振り返った。
瞬間、真夏だというのに全身に鳥肌が立つ。
……見なければ良かった。
そのあまりの異形に、一瞬にしてアタシは怖気づいてしまった。
そのまま、吸い寄せられるように視線を外せなくなる。
それは一見、ヤドカリに見えた。
貝殻のようなモノを被っているからだ。
真っ先に目につくのは、巨大な金属の殻。
そこから、いくつもの水死体のように青白い腕が生えている。
その手は長さも太さもばらばらで、両手が揃っていないものもあった。
異様なヤドカリは、乱雑に生えた手を不器用に動かして、地面を這うようにこちらに近づいてくる。
アタシは、ヤドカリが被っている殻の正体をようやく理解した。
……自動車だった。
元は真っ白に塗装されたセダンのような形の車体だったものを、引き剥がして身に被っているのだ。
すっかりフレームは歪んで、表面にも口にするのもおぞましいような汚れが付着してしまい、本来の車種は想像もつかない。
それでも、よく見るとナンバープレートが残っているのがわかった。
ヤドカリは日の光をものともせずに、白昼の山道を車体を揺らして動いている。
どうやら、殻が日除けになって、それために他のゾンビのように日光を怖れることがないらしい。
土埃を巻き上げ、奇怪な唸り声を発しながら、ヤドカリはアタシへと向かってくる。
「マジかよ……」
目の前の信じ難い光景に、唖然としたアタシはそう呟いた。
無数に生えた複数の腕がかえって邪魔し合っているのか、ヤドカリの動きはさほど素早いものではない。
短距離の経験のあるアタシには、苦もなく逃げ切れそうだった。
ようやく自由を取り戻した足で地面を蹴ると、アタシは風を切って走り出す。
ヤドカリは重い殻を背負ったまま、こちらを追いかけ始める。
しかし、やはり動きは鈍い。
案の定、アタシとの間にはみるみる距離が開いていく。
「……なんだ、コイツ。見た目ヤベーけど、実は大したことないじゃん」
アタシには、走りながらそんな声を漏らす余裕すらあった。
このまま簡単に逃げ切れる。
そう確信した、そのときだった。
いきなり、アタシの視界の天地が反転した。
「う、うわっ!」
アスファルトに打ち付けた身体に激しい痛みを感じ、アタシは悲鳴を漏らした。
どうやら、転倒したらしい。
見ると、アタシの靴の踵がポッキリと折れていた。
畜生……ついさっき、奏に指摘されたことじゃんか。
アタシの胸を、後悔の気持ちが絞めあげる。
あのとき、奏の話を聞いていればこんなことにはならなかったのだ。
それを意固地になったアタシは、差し出された手を振り払ってしまった。
……その挙句がこのザマだ。
「ああ、バカだな。……アタシって」
ポツリとそう呟くアタシに向かって、気味の悪い唸り声は徐々に近づいてくる。
起き上がろうと試みるが、転倒時に足首を痛めたのか思うように立つことができない。
息が上がって、胸が苦しくなる。
絶望が、にじり寄ってくる。
異様な黒い影が、アタシの目の前へと歩みを進めて、そこで立ち止まった。
「日比谷! 早希! 冷! 近くにいるならお願い、助けて!」
声を振り絞って叫ぶ。
周囲に響いたみんなの名前は、ただ虚しく山林にこだまするだけだった。
無数の異様な腕がこちらへ、伸びてくる。
まるで仲間へと誘うかのように。
「……奏、ごめんね」
消え入りそうな謝罪が、唇からこぼれる。
その刹那、道路の向こうから爆音をあげて、なにかが飛び出してきたのだった。
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