第45話、ラカンパネラ
奏が聴きに来てくれるようになって、アタシのピアノへの情熱はさらに高まっていった。
だれかに聴かせるために演奏をするという、アタシにそれまで欠けていた視点が補われたからだろう。
そもそも、音楽とは演者ひとりでは完成しないものなのだ。
奏に聴かせるために、アタシは日に日にどんどん難しい譜面に挑戦していくようになった。
演奏技術も、それまでお遊びで弾いていたときよりも格段に進歩していく。
とはいっても、奏がアタシの練習に協力してくれたというわけではなかった。
彼女は、ただそこにいるだけだ。
ただピアノに向かうアタシの後ろで、黙って耳を傾けているだけなのだ。
しかし、それがアタシには居心地良くて、かえって練習は
「……クリスマスパーティ、瑠花はピアノ演奏しないの?」
ある冬の日のことだった。
かじかむ指をカイロで暖めてピアノの前に座るアタシに、奏がそう声をかけた。
アタシの中学では、毎年クリスマスに校内でパーティを開いていた。
数年前に学園祭が単位の都合で廃止になって、その埋め合わせとして始まったらしい。
「今年の演奏者、まだ決まってないんだって」
パーティの催しのうちに小さなコンサートがあり、学生の中で腕に自身のある者が毎年ステージに立っていたのだ。
「なんで、アタシが……。だいたいみんなの前で弾いたことなんて全然ないし」
「でも、こんな上手なんだから聴いてもらわないともったいないよ! 絶対、みんな喜ぶと思うよ」
渋るアタシを、奏はそうやって執拗に説得するのだった。
奏のその純粋な気持ちを、アタシはどうしても裏切ることができなかった。
単純に言うと、アタシはその気にさせられてしまったのだ。
リストのラカンパネラ。
私が選んだその曲は、難しい曲の多いリストの中でもとりわけ難易度の高い、プロのピアニストでも苦手とするほどの難曲だった。
ラカンパネラとは鐘の音を意味する。
クリスマスにはぴったりだろうと思っての選曲だったのだが、見事に撃沈した。
アタシにはどうやっても、弾きこなすことができなかったのだ。
小学校時代に習ったきりで、ほとんど独学だけの自分のレベルの低さを実感した。
すっかり自信を失ったアタシは、真新しい譜面を投げ出し
「大丈夫だよ。瑠花はきっと弾けるようになる。才能あるもの」
そう言って励ます奏の声が、アタシにはひどく無責任に聞こえた。
……アタシの才能?
そんなもの大したものじゃないだろ!
他の子たちはちゃんとしたピアノ教室へ通ってレッスンを受け、家でもきっとピアノを自由に弾ける環境にある。
それに比べて、アタシはこうして隠れてコソコソ練習している有様だ。
そんなことも理解できない奏に、むしょうに腹が立った。
アタシは楽譜を奏の足元に叩きつけて、そのまま帰ってしまおうと立ち上がった。
クリスマスコンサートなど、アタシにはとうてい場違いだったのだ。
しかし、それでも奏はアタシの後ろに立ったままこう言うだった。
「他の子は関係ないよ。私のために弾いてよ。クリスマスコンサート、私は一番前で聴くから私のためだけに演奏して」
「……わかった。約束だよ?」
こうして、アタシはその日以来、来る日も来る日も暇さえあればピアノに向かい続けた。
そして、いつしか難曲をものにしていた。
ただ奏に聴かせる、それだけのために。
しかし、クリスマスパーティの当日、そこに奏の姿はなかった。
……裏切られたと思った。
煮え湯を飲まされたアタシは、それ以来二度とピアノを触ることはなかった。
かわりに、陸上部に入部して短距離の選手としてそこそこの活躍をした。
奏はというと、学校からも姿を消してしまって、再び会うことのないまま中学を卒業したのだった。
山道をあてもなく彷徨いながら、瑠花は中学時代のことばかり考えていた。
一歩進むたびに、奏の顔が頭に浮かんでは消えていく。
そして、高校になって再会した奏は一切アタシのことを覚えていなかった。
当然のように、あの時の約束のことも。
しかし、今日の奏は様子が違った。
まるで中学の頃の奏のような雰囲気だった。
それにアイツは覚えていると言ったのだ。
あの時、アタシが弾いたリストのラカンパネラを……。
そのとき、目の前の上空に何か白い煙が上がるのが見えた。
たぶん、日比谷たちが目印として花火か何かを打ち上げているのだ。
方向がわかればあとは歩くだけだ、さっさと合流しよう。
そう思った瞬間、アタシの背後から低い唸り声が聞こえてきた。
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