第43話、セピアの記憶

 アタシが通っていた中学校には、新校舎と近々取り壊される予定の旧校舎があった。

 授業時間の終わりを告げるチャイムが聞こえると、アタシは真っ先に旧校舎へと向かうのが日課になっていた。

 だれにも見つからないようにこっそりと、旧校舎へと続く古い木造の廊下を歩く。

 もっとも、放課後の旧校舎などに用事がある生徒なぞおらず、見つかる心配はほとんどなかったのだが。

 階段下の踊り場で、アタシはお目当ての物を見つけて目を輝かせる。

 捨て猫のように、人気のない旧校舎の片隅でアタシを待っていたのは……一台のグランドピアノだ。

 駆け寄ったアタシは、黒く艶めいたピアノの屋根に優しく手をかけて開けると、真っ白な鍵盤に指を這わせた。

 まるで恋人にでもするように、熱っぽい手つきだ。

 そして、指を下ろすとそれに合わせて内部のハンマーが弦を打ち、ポロンと音がこぼれ落ちてくる。

 けっして新しいとはいえないピアノだったが、だれが管理しているのか調律はいつも完璧だった。

 思いついたまま、アタシは十八番おはこのレパートリーを何曲か弾き始める。

 仔犬のワルツ、トルコ行進曲……。

 小学校の中学年くらいまで、アタシはピアノの教室に通っていた。

 それらの曲は、その頃に何度も繰り返し練習して覚えたものだった。

 しかし、それから両親の離婚があって、習い事などしている余裕はなくなり、ピアノはやめてしまったのだ。

 それでも、アタシはピアノを弾くことに未練を残したままだったが、とても個人でピアノを買えるような経済状況ではなかった。

 そこで、ある日偶然見つけたこの旧校舎のピアノを、人目を忍んで連日弾きに来ていたのだった。

 最後の和音を弾き終わりペダルから足を離した瞬間、無人だと思っていた背後からパラパラと拍手が起こった。

 そんなことは、今まで一度だってなかったのに……。

 アタシは、慌てて後ろを振り返る。

 そこにいたのは、一人の女子生徒だった。

 見覚えがある、たしか同学年の子だ。

 アタシは素早くピアノの屋根を閉めると、椅子から立ち上がった。


「あれ、弾くのやめちゃうんだ?」


 立ち去ろうとするアタシに、少女が声をかける。


「勝手に弾いてるから、だれかに見つかると困るんだよ。 アンタ、チクんないでよね?」


「まさか! ねえ、もっと聞かせてよ」


 目の前の少女は、無邪気にそう言う。

 アタシはどうも断わり切れなくて、もう一度、ピアノの前に座り直した。

 少し気取って、覚えたてのサティのジムノペディをさわりだけ弾く。

 すると、後ろから大げさな歓声が上がった。

 アタシにとって、だれか観客がいる環境でピアノを弾くことは、ほとんどはじめての経験だった。

 照れくさいような、誇らしいような、こそばゆい快感が胸の中に湧き上がる。


「私、千倉奏。ねえ、ここにまた聞きに来てもいい?」


 その少女の言葉に、アタシは自然と頷いていた。


「アタシ、道明寺瑠花……」


 そして、次の日、授業を終えて旧校舎に来てみると、すでに奏はピアノの前で待っていたのだった。

 それ以来、アタシは奏に演奏を聞かせるのが新たな日課になった。


 ……鈍い頭痛が、アタシを襲う。

 瞬間、セピア色だった視界が色を取り戻し、山奥の木々と青空が目に飛び込んでくる。

 どうやら、中学時代の夢を見ていたらしい。

 アタシは起き上がると服についた泥汚れを落とし、同時にさっきの記憶も締め出した。

 ゾンビの群れから逃れるときに、足を踏み外し谷へと滑落してしまったらしい。

 どこも怪我はしていないようだ。

 自分の身体を眺めて、無事を確認する。

 すっかりはぐれてしまったのか、日比谷たちの気配はどこにもない。

 幸いなことに、ゾンビたちの姿も見当たらなかった。

 通り雨が止むのと同時に、陽の光がさして、元の暗がりに帰ってしまったようだ。

 ……しかし、これからどうしようか?

 自分が今どこにいるのかも、皆目見当がつかなかった。

 今の状況は、完全に迷子なのだ。

 アタシは首を捻ると、木々の生い茂る山道を、あてもなく歩き始めた。

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