第38話、味噌汁と焼き鮭

「あれ? 奏は、まだ寝てるのか?」


 奏の姿が見当たらないことに気づいて、やっと騒動から解放された俺は瑠花に聞いた。


「あ? 千倉ならとっくに起きてる。アイツ、朝食の準備をするって厨房へ行ったぞ」


 そんな瑠花の言葉に、俺は動転した。

 奏が朝食の準備だって?

 ……これは、大変なことになった。

 すぐにでも止めなければ、一大事を引き起こしかねない。


「どうしたんだよ? そんな血相を変えて」


 瑠花は俺の反応に、不思議な顔をする。


「お前は、あいつの料理の腕を知らないからそうしていられるんだよ! 今まさに、大量殺戮兵器が生み出されようとしてるんだ!」


 俺は厨房へと全速力で走り出した。


 ロビーでは、イヴが食卓についていた。

 テーブルの上には、味噌汁、ご飯、焼き鮭という純和風の朝食が並んでいる。

 味噌汁に箸を浸し一口目を啜る寸前のイヴに、俺は後ろから声をかけた。


「おい、待てイヴ! 早まるな! それに口をつけるんじゃない!」


 途端に、イヴは咳き込んで苦しみ始める。

 ……畜生、遅かったか!

 このままでは、奏を殺人犯にしてしまう!


「いいか、イヴ! それを吐き出すんだ!」


「……もう、お兄ちゃんが急に大声出すからせちゃったじゃないの! 意地悪!」


 イヴは、非難のこもった目で言う。

 どうやら、本当に噎せていただけのようだ。


「でも、この朝食には劇物が……」


「そんなの入ってるわけないじゃないの。お姉ちゃんがせっかく作ってくれたんだから」


 俺に抗議しながら、イヴはパクパクと食事を始めてしまう。

 首を捻りながら俺は、目の前の味噌汁の入ったお椀に口をつけた。


「……お兄ちゃん、それ間接キス」


 すかさず、イヴは文句をつける。

 それを黙殺して、俺は一口含んだ。


「あ……美味しい」


 味噌と出汁の風味がじゅうぶんに効いた、シンプルだが確かな味付けの味噌汁だった。

 まさか、あれだけの味音痴の奏がこんな朝食を作れるはずが……。


「あ、起きてきたんだ。おはよう」


 そのとき、厨房からエプロン姿の奏が姿を見せた。


「朝ごはんなら、学の分もちゃんと作ってるからイヴちゃんのを取らないでよ」


 奏は、新妻のような調子でこちらに言う。

 その姿を見て、俺はハッと気づいた。


「……お前、カインだろ? 奏はどうしたんだ?」


 イヴに聞こえないように、俺は奏の耳元でそう囁く。


「なぜ、わかった?」


 途端に、奏の顔から表情が消えて、あの氷のような目付きへと変貌する。


「奏はこんなまともな朝食なんて作れねえんだよ! おい、なんでお前がずっと出てきてるんだ?」


「それが……私もわからないんだ。いつもなら、用事が去ったら私はすぐに奏に切り替わるはずなんだ。それなのに今回は、あれから奏はずっと眠ったままなんだよ」


 カインの顔に、困惑の色が浮かぶ。

 どうやら、嘘はついていないようだ。


「奏が、眠ったままだって? どういうことだよ。そもそも、お前のそれって多重人格ってことだよな?」


「ああ、そうだ。私と奏は、同じ一つの身体を共有しているんだ」


 奏が持つもう一つの人格、カイン。

 それが表に出たままになっているらしい。


「それで、奏はどうなるんだ? まさか、このままずっと……」


「それはないと思う。あくまで、日常担当は奏なんだ。ただショックの大きい出来事が重なって、奏の部分が弱まっているんだと思う」


 そう語るカインの表情からは、ひどい不安が窺える。


「じゃあ、そのうち元に戻るんだな?」


「たぶん。とにかく、しばらくは様子を見るしかなさそうだ。私はできるだけ奏として振る舞うから、お前もそれに合わせてくれ」


 奏の別人格は、俺にそう頼んだ。

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