第32話、生存者

 巨大な肉塊の側面を、俺は全力で蹴り上げる。

 俺の足に、たしかな手ごたえがあった。

 ってあれ、足に手ごたえってなんかおかしくないか? こんな場合なんて言うんだろ。

 そんな場違いなことを考えているうちに、蹴られた肉ボールは、あさっての方向へ転がっていく。

 予期せぬ衝撃に対応できず、軌道修正がうまくいかないらしい。

 俺はすかさず、尻の拳銃を抜く。

 しかし、銃口を向ける前に、肉塊はそのまま転がって、俺の視界から消えてしまった。


「ちっ、逃がしたか……」


 とどめをさせればそれに越したことはなかったが、かといって、追いかけるつもりはない。

 それよりも、目的は生存者の救出が優先だ。

 あの意味不明なミートボールに、構っている暇はなかった。

 間髪入れず、生存者の隠れている掃除用具入れを探して、俺は走り出す。


 目当ての掃除用具入れは、それからすぐに見つけることができた。

 宿泊施設のひとつの廊下の隅に、それはひっそりと置いてあった。

 見ると、その用具入れは小刻みに揺れを繰り返している。

 短く三回、長く三回、そしてまた短く三回の救難信号を出し続けているのだ。

 どうやら、中の人物は無事であるらしい。

 俺は、安堵に胸を撫で下ろした。

 あの肉塊が全て平らげてしまったのか、周囲にゾンビの姿はない。

 すぐさま駆け寄ると、除用具入れの扉に手をかけた。


「おい、大丈夫か? 怪我はないか?」


「ボ……ボクは、美味しくないよ! た、食べないで!」


 中にいたのは、ショートカットの似合うボーイッシュな雰囲気の子だった。

 どこかで見たような覚えがある。

 いったいいつ会ったのだろう、すぐには思い出せなかった。

 泣き腫らした真っ赤な目で俺を見つめて、怯えた表情を顔に浮かべていた。


「食わねえよ。俺は、ゾンビじゃない。助けに来たんだよ」


 それを聞いた途端、やっと緊張がとけたのか、その子の全身に震えが走った。


「……ああ。ボク、助かったんだ。まさか、助けが来るなんて思わなかった。……この中で、死んじゃうと思ってたよ」


 だれに言うでもなく口に出すと、その子は震える身体を自分で抱きしめた。


「ずっと、その中に隠れていたのかよ。大変だったな」


 見たところ、掃除用具入れの中にさほどの隙間はなく、小柄な体躯をしているとはいえ、よほど狭苦しい思いをしたことだろう。


「うん、あいつらに追われて、身を隠して、それからずっと……。何度も出て逃げ出そうと思ったけど、チャンスがなかったんだ」


 やっと震えがおさまったその顔が、普段の表情を取り戻していく。


「俺は、日比谷学。俺の他にも何人か生き残りがいて、今は別のところに隠れている。君の名前は?」


「ボクは園山冷そのやまれい。助けてくれてありがとう」


 そう言って、青ざめた白い手を俺の前へと差し出す。

 俺が首を傾げると、冷は俺を掴んで上下に揺さぶった。


「握手、握手。ほら、シェイクハンドだよ。これから、よろしく」


 俺の手を握る冷の目に、なぜか熱っぽい色が浮かんでいる。

 冷の手のひらはひんやりとしていて、とても柔らかかった。

 その時、俺はふいに冷を以前にどこで見たのか思い出した。

 今日の昼間のことだ。

 俺はキャンプ場の周囲を散策していて、部員同士の情事に遭遇したのだった。

 覗きをするつもりはなく、ろくに視線をやらずにすぐにその場を離れたのだが、その時の光景はしっかり記憶に残っていた。

 横たわる一人と、それに覆い被さるもう一人。

 その一方が、今目の前で俺の手を握っている園山冷だった。

 俺は思わず、冷の顔をまじまじと見つめてしまう。

 すると、冷は大きな瞳で、こちらを不思議そうに見つめ返した。

 あのときに、あの二人は完全に本番行為におよんでいたのは間違いない。

 俺は、はっきりと確信する。

 つまり……この園山冷は、非処女である、ということなのだった。

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