第29話、SOS信号
目の前の龍崎茂と名乗る黒猫の語った話を、俺は正直なところ、そのまま飲み込むことができずにいた。
童貞と処女には、感染しないゾンビウイルスだって?
あまりに、荒唐無稽な話だ。
「それで、お前はいったい何者なんだ? なんで猫の姿をしているんだよ」
コイツを、本当に信用していいのか。
それさえ今の俺には、判断しかねた。
「ああ、私のこの姿かね? 答えは単純だ。人間だった頃の龍崎茂の記憶を、外付けでこの子猫の脳に植え付けているのだ。それが、私だ」
ということは、俺の前にいるのは、人間としての記憶を持った猫ということになるのか。
しかし、それなら身体は、猫そのもののはずだ。
猫の口や舌で、こんなに流暢に話すことができるのだろうか。
「勿論、猫が人間のように話せるわけがないだろう。この声は、合成音声に過ぎない。見たまえ、この首輪にスピーカーがついているだろう。それで、俺の筋肉の運動で指示を与え、音声を流しているという仕組みだよ」
なるほど、それなら矛盾点はない。
「それで、本物の龍崎茂。お前のオリジナルは、どうしているんだ?」
「残念だが、すでにこの世にはない。だが、そのことは今の俺にとっては何ら問題ではない」
クロネコは、きっぱりとそう断言した。
「でも、お前の娘は」
「……娘? ああ、イヴのことか。ふん……あの小娘は、俺の子などではないぞ」
イヴはお父さんと言っていたが、血の繋がった父娘ではないらしい。
「じゃあ、イヴは何者なんだ?」
「アレは、そのままの意味だ。……原初の女。人類の母。それがイヴだ。」
イヴのことになった途端に、話が抽象的になってついていけなくなる。
俺は詳しく聞こうと口を開いた瞬間、壁の液晶画面が目に入って、出かかった言葉を飲み込んだ。
「おい、ちょっと待ってくれ」
「どうした、少年?」
「この画面に流れてる映像って、リアルタイムだよな?」
食い入るように見つめたまま、俺は聞いた。
「……そうだが?」
「生存者がいるんだよ。あのキャンプ場に。ほらここに映っている」
「まさか……見間違いだろう」
クロネコはそう言って取り合わないが、俺は生存者の存在を確信していた。
映っているのは、部屋の隅に置かれた掃除用具入れだ。
それが、時折小さく揺れているのだ。
短く三回揺れた後に、長めの間隔で三回揺れて、また短く三回を繰り返している。
「モールス信号だよ。SOSだ、だれかが助けを求めているんだ」
掃除用具入れの周りには、不気味な人影が数人分、ゆっくりと徘徊している。
そのために、出口を絶たれ逃げ出すことができないのだろう。
「まさか、助けに戻るつもりか? 正気の沙汰じゃないぞ!」
「でも、童貞の俺ならどんなにゾンビと接触しても感染しないんだろ?」
あの動きの鈍いゾンビなら、俺でもじゅうぶん切り抜けることができる。
「しかし、お前では異形種には太刀打ちできまい。朝まで待つべきだ!」
「……異形種?」
「お前もここに来る途中で会っただろう。稀にウイルスとの相性がよい感染者がおるのだ。その場合、ウイルスが感染者の身体を異形化させる。異形種は、たいてい強力な身体能力を有しているんだ。生身の人間では敵わんよ」
ああ、あの奏が投げ飛ばした鬼のことか。
たしかに、アレはさすがにヤバいと思ったな。
「止めても無駄だ。俺は助けに行くよ。こいつは、いつゾンビに見つかるとも知れない状況で必死に助けを求めてるんだ。……見捨てることは、俺にはできない」
俺は、そう言うと書斎の出口へと向かって歩き出した。
「ふん……若いな、少年。自分がどんなことでもできるとでも思ってる面だな。お前は、自分がどんなに小さく無力で弱い存在なのか、全く理解していない!」
「ああ、そうだ。だれかを救うために何かできるなら、俺はその何かをどんなことだって、やってやるさ! ……それが、悪いか?」
俺がそう言って睨みつけると、クロネコは奇妙な音を出し始めた。
まるで、機械が壊れたかのような無機質に連続する音だった。
「……気に入ったぞ、少年。若さゆえの無知は罪とは言えないからな、いいだろう!」
ようやく、わかった。
この猫は笑っているのだ、笑う機能の存在しない合成音声で。
「お前に、
俺は言われるままに、引き出しを開けた。
出てきたのは、『淫乱若妻、昼下がりの情事』……エロ本だった。
「あ、そっちじゃなくて……そう、その隣の、そこの引き出し」
めっちゃ盛り上がってたのに、テンション駄々下がりだよ! このスケベ猫!
気を取り直して、俺はその隣の引き出しを開けた。
中から出てきたのは、不格好な真っ黒い一丁の拳銃だった。
「ブローニング・ハイパワー。それなら、たとえ異形種であっても動きを止められるだろう」
クロネコがそう説明する。
俺は黒い拳銃を、持ち上げた。
ずっしりと重いその物体は、後戻りのできない覚悟の重さがした。
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