第21話、絶望、そして鬼

 電話ボックスの中で受話器を握りしめながら、俺は呆然と立ち尽くしていた。

 財布の中の10円玉はもう底をついた。

 結局、だれとも連絡をとることはかなわなかった。

 虚しくコール音が続くばかりで、だれも電話に出ることはないのだ。


「……これって、いったいどういうことだよ! なんでだよ! なんで、だれも出ないだよ!」


 俺は思わず、叫んでいた。

 乱暴に投げ出した受話器が、コードにぶら下がってゆらゆらと揺れる。


「……学、怒鳴らないで。落ち着いて」


 電話ボックスの外に立つ奏が、ガラス越しに俺へと声をかけた。

 やけに冷静な口調だった。

 それが、俺の苛立ちをかえって悪化させる。


「おい、奏。お前はこれがどういうことか、わかってんのか? いいか、今まで俺たちはパニックが起こってるのは、この山の中のキャンプ場だけだと思っていた。……でも、そうじゃない、ってことなんだよ! これは……」


 だれも電話を取らない。

 だれも電話に出られないってことは、つまり、外の世界もここと同じような状態なのかもしれない、ということだ。

 その考えに至った瞬間、感じたこともないような絶望が俺を襲った。

 取り返しのつかない、もはや、どうしようもないことが起きているのだ。

 ……世の中が、世界が、日常が、終わってしまった。


「あ……あああ……、こんなことってあるかよ……。ゾンビによる人類の終末ってやつなのか? さすがにそんなの……古すぎるだろうが! 21世紀にもなって、そんな古典映画のリバイバルみたいなこと、やってんじゃねえよ!」


 俺の口から、嗚咽が漏れる。

 あ、そうだ……アイツは、遊は……俺のたった一人の妹はどうしているのだろうか?

 さっき俺の自宅に電話した時には、だれも出なかった。

 避難しているのならいいが、そうじゃないのなら今頃は……。


「頼む……。頼むから無事でいてくれよ!」


 うなだれてそう繰り返す俺の頭に、何か柔らかいものが触れた。

 顔を上げると、奏が俺の頭を手のひらで包んで撫でているのだった。

 まるで、幼い子どもをあやすように。

 たしかに、その感触と奏の体温で、俺の感情は静まっていった。


「ありがとう、奏。もう大丈夫。落ち着いた」


「学、声を出さないで。お客さんがこの近くに来ている」


 奏の唇が俺の耳元に近付いて、ほとんど声を出さないでそう呟いた。

 なんだか、奏ではないような口調だった。

 まるで知らない人のような……。

 驚いて奏の顔を見つめたその時、臭気が俺の鼻まで臭ってきた。

 あのゾンビのような、しかし、それよりもずっと強い臭いだった。

 腐敗したような、腐乱したような、腐蝕したような、腐朽したような。

 頽廃の、堕落の、汚濁の、糜爛の……胸の中が焦げつくような臭いだ。


「……来た」


 奏はそう囁くと、電話ボックスのガラスの向こうを指で示す。

 そこに、奴がいた。

 そいつは、人間の形をしていなかった。

 二メートルはあろうかという長身。

 隆起した筋肉と、脈打つ枝分かれした血管。

 瘤のような小さな顔には何の感情も浮かんでいない。

 ただ煌々こうこうと、二つの眼だけが光っている。

 ……鬼。

 俺は、一目見てそう思った。

 昔話とかに出てくる、鬼そのものだ。

 その鬼が、電話ボックスから数メートルのところに立ちはだかっている。


「なんだ……アレ……」


 俺がそう口に出した、その刹那だった。

 さっきの場所から、鬼が消えていた。

 そして目の前、ガラス越しにわずか数センチのところに奴の顔面が迫っていた。

 眼光に、俺の目が吸い寄せられる。

 次の瞬間、激しい衝撃が俺の全身を襲う。

 あの鬼は、電話ボックスに身体ごとタックルを喰らわせたのだ。


「ああああああああああぁぁぁ!」


 俺は、声の限りに悲鳴を上げていた。

 それから先は、もう何がなんだかわからなくなってしまった。

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