第16話、感染経路

「日比谷くん、お願い。今すぐに、私を背中から下ろして」


 早希が真剣な声で、そう繰り返した。


「なんでですか? あっ、そうか……脚が治ったんですか?」


 俺のそんな前向きな返しを、早希は首を振って否定した。


「ううん、違うの。お願い、日比谷くん。私をここに置き去りにして行って」


 わからない。

 俺には、早希の願いの意味が理解できない。


「そんなこと……できるわけないでしょ」


「早く、日比谷くん。私が私でいられるうちに、私を見捨てて! お願い!」


 私でいられるうち、って。

 それって……もしかして、まさか。


「ゾンビってことは、人から人に感染するってことよね? 私、実はさっき、白柳先生と揉み合ったときに身体に傷ができてるの」


「……何が言いたいんですか?」


 俺は、やっと早希が何が言いたいのか理解し始めていた。

 しかし、頭ではわかっても、とうてい感情がそれに追いついていかない。

 とても、早希の言葉をそのまま受け入れることはできなかった。


「私も、他の人たちみたいになるかもしれないの。こうやって話している数秒後には、発症して日比谷くんを襲いはじめるかもしれないのよ? だから……」


「かもしれない、かもしれないって……憶測で、そんなことを言わないでくださいよ」


 俺は耳を閉ざしたくなる。

 早希の言うことの正しさは、しっかり伝わって来るからだ。


「感染経路は今のところ、はっきりとはわからない。それでも、推測はできるの。今まで出会った多くのゾンビたちは、身体にどこかしら損傷があったわ。そして、未だに感染していない日比谷くんと道明寺さんは、どこにも傷を負っていない。そのことから考えると、傷からの接触感染の可能性は相当に強いのよ」


 聞きたくなかった。

 早希のそんな話なんて、耳を塞いでしまいたかった。

 早希は、いつも正しい。

 でも、その正しさは、その無謬むびょう性は、そのまま受け入れられるものではなかった。

 それでは、あまりに悲しすぎる。

 それじゃあ、何のために助けたんだよ。

 なんで……。


「頼むから、日比谷くん。私を見捨てて」


「……嫌です」


 俺は、きっぱりと早希の願いを断った。


「日比谷くん。私は、日比谷くんを襲いたくないの。だからお願い! 私を、救わないで!」


「そんなこと、俺は絶対できません。嫌がられても、俺は早希さんを救います。自己満足でもいいです。正義の味方気取りだと思われても、それでじゅうぶんです」


「日比谷くん、そんな我がままを言わないで」


 早希は、それまで俺が聞いたことがないような強い口調で、そう言い返す。


「言いますよ、我がまま。だって早希さん、あんなに諦めなかったじゃないですか、救われようとしてたじゃないですか。それなのに、救うななんて、そんなのおかしいですよ!」


「……日比谷くん?」


「それに、こんな素敵なおっぱいの感触を、もう味わえないなんて……そんなことは、絶対ゆるせません!」


 それを聞いた瞬間、早希さんは背負われた姿勢のまま俺の背中から身体を離した。


「……おっと!」


 重心が急に移動したために、後ろへよろけそうになる。

 なんとかひっくり返らずに、俺はおんぶの姿勢を維持できた。


「日比谷くん。……一万点、減点」


 顔を赤らめて、早希は小声で呟く。


「ええっ! 今の減点?」


 それ、何の点数?

 しかもいきなり、桁大きくない?


「残りの点数がマイナスになったら、私、日比谷くんのこと嫌いになっちゃいます」


 じゃあ、あと何点残ってるんだよ。

 頼むから、教えてくれよ。


「ごめん、嘘。日比谷くん、ありがとう」


「感染してるとも発症するとも決まってるわけじゃないんですから。本当にヤバくなる直前までは、俺はこうしてますよ」


 俺の言うことを聞くと、早希は俺の背中に顔をうずめて、くすりと笑った。

 なんだかずいぶん久しぶりのような気がする、早希の笑顔だった。


「……おっぱいが目当てなのに」


「ええ、それは否定しません」


「否定しようよ、また千点減点」


 そう言って、早希はまた嬉しそうに笑うのだった。

 そんな会話をしながら、俺たち三人はいつしかキャンプ場の裏手へと行き着いていた。

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