第9話、深夜零時

 腕時計の針は、零時十分前を指していた。

 ちょうど良い頃だと、俺は部屋を抜け出す。

 夜風が、身にみるように冷たい。

 風邪をひかないように、しっかり上着を着込んでいた。

 恋文を貰った時はすっかり浮かれていた気分が、今ではむしろひどく落ち着いている。

 誰にも見つからないように、足早に駐車場を目指して歩いていく。

 やけに静まりかえった空間に、自分の呼吸の音だけが響く。

 昼間には部員で賑やかだったキャンプ場が、人の姿が消えると妙な雰囲気を漂わせている。


 その時、誰かの足音が聞こえて、俺はその場に身を隠す。

 通り過ぎて行く人影を、俺はこっそり影から覗いた。

 目に映ったのは、おかっぱ頭の小柄な少女。

 それは、千倉奏だった。

 奏は、夢遊病者のような足取りで、ふらふらとキャンプ場を横切っていく。

 いったい、どこに向かっているのだろう?

 もしかしたら、ただ単に喉が乾いて自販機でも探しているのかもしれない。

 しかし、そうでないのだとしたら……。

 俺は頭を振って、思考を締め出した。

 今は、奏のことよりも、自分のことだ。

 遅れないように、駐車場へ急ぐとしよう。


 駐車場には、まだ誰の姿もなかった。

 街灯にぶつかる虫たちの音だけが、不気味に響いている。

 あの手紙の差し出し主は、誰なのだろう。

 そんなことを考えて、時間を潰す。

 握りしめた手の中にあるのは、ドラックストアで事前に買っておいたコンドームだ。

 しかも、付け方は前もって練習済み。

 一箱分を費やして、試行錯誤したのだ。

 準備は万全だ。

 気を引き締め、丹田に力をこめる。


 しかし、しばらく待っても相手はなかなか姿を現さなかった。

 一分おきに確認してる腕時計は、すでに十五分を示している。

 嫌な不安が、徐々に沸き上がってくる。

 もしかしたら、ただの悪戯だったのでは。

 永遠に来るはずのない恋文の相手を待ち続ける俺を、影から観察して笑っているのではないか。

 ネガティヴな考えが次々に浮かんでいく。

 駄目だ……考えるな。

 今の俺は、待つことしかできないのだから。


 しばらくして、やっと人影が駐車場の端から姿を現した。

 やけに足を引き摺るように、ふらふらとした歩き方をしている。

 どうしたのだろう?

 思わず、俺はまじまじとその姿を見つめる。

 現れた人影は、同じクラスの佐伯さえき真理子まりこさんだった。

 それに気づいて、俺の胸は高鳴った。

 佐伯さんは、学校のマドンナと言っていい存在だった。

 容姿端麗でスタイルも抜群で、雑誌の読者モデルをやったこともあるらしく、密かにファンクラブができているという噂もあるほどだ。

 そんな佐伯さんが、俺を真夜中に呼び出してくれるなんて。

 もしかしたら、俺は自分で思っているより、女受けするルックスなのかもしれない。

 ゴクリと、俺は口の中の唾を飲み込んだ。


 佐伯さんは、駐車場をまっすぐ俺の方へと向かって来る。

 その瞬間、俺は妙な異臭を感じた。

 ……なんだろう?

 生臭い不快な匂いだ。

 嗅いだことがある気もするが、何なのか思い出せない。

 いや、今はそんなことはどうでもいい。

 あの佐伯さんが、目の前にいるのだ。

 佐伯さんが、近づくたびに辺りの異臭は強くなっていく。

 ……何かが、おかしい。

 いや、脱童貞のチャンスだ、変なことは考えるな。

 佐伯さんは、妙にギクシャクした動きでこちらに向かって来る。

 まるで、ゼンマイの切れかかった玩具のような不自然な動きだ。

 ……変だ、やっぱりおかしい。

 真夜中に誘ってくるというのは、やっぱりそういうことだろう?

 さようなら、俺の童貞。

 楽しみだなあ、どんな感じなんだろう。

 佐伯さんが、動くたびに何かが辺りに飛び散っていく。

 そして噎せかえるような、悪臭。

 赤黒い粘り気のある染みが、佐伯さんの通った跡に広がる。

 おかしいおかしいおかしい……、絶対に何かが間違っている。

 ……コイツ、本当に佐伯さんか?


 佐伯さんが、俺の目の前までやって来て、そのまま手を広げて抱きついた。

 女の細腕にものすごい力がかかっている。

 一瞬の出来事に、俺は反応できなかった。

 佐伯さんの腕に締め上げられて、まったく身動きが取れない。

 俺の手の平からコンドームが落ちる。

 落下したコンドームは、地面に無残に転がった。

 佐伯さんの真っ赤な唇が、開く。

 そこから、血の混じった吐瀉物が溢れ出して、向かい合っている俺の顔面に降り注いだ。


 そこではじめて、俺は悲鳴を上げた。

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