第7話、カレー事件

「あっ、マナマナ! 良いところに来たね」


 キャンプ場へと戻った俺を目敏く見つけて、奏が声をかけてきた。

 エプロン姿が妙に似合っていて、思わず頬が緩んでしまう。


「ねえ、これどうかな? 自信作なんだけど」


「えっ? 何、味見?」


 おたまを手にとった奏は、湯気を立てる鍋を数回かき混ぜると小皿に一口分移して、俺に渡した。

 茶色の液体からスパイシーな食欲をそそる匂いが立ちのぼる。

 どうやらカレーらしい。


「あっ、じゃあ。いただきます」


 俺は躊躇なく、その物体を口へと運ぶ。

 そして次の瞬間、俺の日常が崩壊した。

 十数年の短い生涯の中での大切な場面が、脳内で次から次へと再生されていく。

 ああ、母さん……父さん……、遊……今まで俺を育ててくれてありがとう。

 なるほど、これが走馬燈か。


「ねえ、どう? 美味しい?」


 奏の無邪気な声が、俺を三途の川の対岸へと引き戻した。


「なんか、すごい安らかな顔してたけど、そんなに美味しかったかな? かな?」


「ちげえよ! 臨死体験してんだよ! おい、これお前自分で味見したか?」


 俺が鍋を指さして言うと、奏は曖昧な表情を浮かべて頭をかく。


「う、うん……まあ」


 絶対、嘘だ。

 こんな殺人カレーを生み出すほどの味覚音痴がこの世に存在するとは考えたくない。

 これを食卓に並べたら、未曾有の大量殺戮が起こってしまう。


「あっ、何すんの!」


 鍋を抱えて持ち上げる俺を、奏は不思議そうに見つめる。


「バイオテロを事前に防ごうとしてるんだよ! この非人道的な物質は、ハーグ陸戦条約に反するから没収する!」


 俺はブーブー言う奏を振り払って、鍋の中身を処分しにキャンプ場を出た。

 さて、この毒物をどう処理したらいいのか。

 誰かが見つけて口にしたら大変だ。

 これは滅びの山の噴火口にでも投じて、未来永劫葬り去らなければならない。


 そんなことを考えながら、鍋を抱えてキャンプ場の裏手を彷徨さまよっていた俺の足がふいに止まる。

 ずっと見えていた鬱蒼うっそうとした森が突然、そこで視界から消えたからだ。

 かわりに、すっかり荒れ果てたペンションのような建物が何軒か並んでいる。

 見たところ、玄関の戸はほとんど釘打ちされていて現在は使われていない様子だ。

 これらが別荘として使われていたのは、だいぶ昔のことだろう。

 その中で、一際目立つ洋館のような外観の山荘に、俺の目は吸い寄せられる。


 そして、俺は彼女に出会った。


 彼女は、朽ちた山荘のベンチに腰を掛けて、こちらをじっと見つめていた。

 日本人離れした整った顔つきの、白いワンピースを着た少女だった。

 世界と隔絶したような、非現実的な雰囲気を放っていて、いったい何歳くらいなのかよく分からない。


「それ、食べ物?」


 少女は、俺の持っている鍋を見て、たどたどしい口調でそう聞いた。


「食べ物と言えば、食べ物だけど……」


 答えると、少女の腹がぐぅーっと鳴った。

 どうやら、お腹を空かせているらしい。


「あ、ダメだ。これは、あげれない」


「そう……いじわる」


 少女が、恨めしい顔でこちらを見つめる。

 俗に言うジト目というやつだが、現実でやられると萌えるより先に、ふつうに傷付く。


「うーん、どうしたものかなあ……」


 奏のカレーもどきの被害者を増やすワケにはいかない。

 俺は、かわりにポケットに入っていた携帯食を少女に手渡した。

 カロリーメイトブロック、フルーツ味だ。

 少女は受け取ったそばから、モグモグとリスのようにそれを口に運んで、あっという間に食べてしまった。


「ありがとう。お兄ちゃん」


 少女は素直にそう礼を言うと、山荘の中へと姿を消した。

 彼女は、ここに住んでいるのだろうか。

 もしかしたら、この山荘の管理者の子なのかもしれない。

 首を捻りながら、しばらくの間、俺は少女の去っていった山荘を見つめていた。

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