規律
リスクはリスク、払わなければならない物は、気付かぬうちに払われていく。
「何? リリが堕天しただと。ほう、分かった。これから先の動きは、わざわざ言う必要はないよな。ああ、その通りにしてくれ。『死神』を送るのに加えて、一応ニクスにも、堕天の事実を伝えておけ。おう、その通り。手が空いているのなら、そっちも始末せよと。では、頼んだぞ。」
連絡役の伝令を聞いたそれは、玉座とも表現したる、いわゆる社長席に深く腰を沈めた。そもそも天界に性別などないことから彼でも彼女でもないそれは、さして先程の悲報を気に留めてはいないようだった。ただ一度、組んでいた手を無造作に動かしながら、独り言のように言った。
「リリが、なのか。あの子は期待していたのだが。まあとにかく、またも天界は、大切な仲間を失ってしまったわけだ。」
そしてそれは、何か思い出したように不意に立ち上がった。全身ガラス細工でできていあるような美しい輪郭に、金色の鎧をまとっているそれは、明らかに通常の天使とは異なった。それはまさに、神々しい。
「どうしましたか、天使長。主要階級集会は、まだお早いのでは?」
天使長に声をかけたそれは、いつからいたのか水晶の玉座の脇にいたそれには、
「補佐役、いつの間にそこに?」
と、言わせてしまうほど、気配がなかった。
「いえ、私のことはいいのです。それより、天使長がお気にかけているのは、やはりオブスキュアの消息についてですか?」
「ああ、そのこともある。」
「それなら、いまだ手掛かり掴めず、と堕天専門天使団から。天界の一部の者は、オブは堕天したと申していますが、それでも、、。オブの最後の任務は、『聖女』(A)の処理でしたが、そこに『魔物』も鉢合わせたとの噂も、、。確かに、任務は達成されましたが、その時に。」
天使長は、明らかに気を悪くしたようだった。それを感じ取り、一歩体を引いてみせる。
「いえ、あくまで噂の話ではありますが。」
「そうだな、噂はそこまでである。でもな、私は良く感が当たるのだが、この後すぐに、下界に降りることになる気がするぞ。」
そう言って、天使長はゆっくりと歩き出した。音楽ホールのような壮大な空間に、隅々までいきわたるほどの光を放ちながら。
「私も、お供します。」
そう言って、補佐役は静かに背後に付くのだった。
喩え昨日、命懸けの戦いがあったとしても、日常はさほど変わらない。いつも通り、学校に行く支度をしながら、律は当たり前か、と思った。
「今もどこかで、誰かが命がけの戦いをしているのだ。けれど、僕たちの日常は大きく影響を受けてこなかった。それと、同じだろ。不思議なことだが、見方によっては僕たちの思う日常も、一つの戦いなのだから。」
その意味は、命の儚さを知ったあの時から、より理解できるようになったものだ。
「律、あなたそんなに傷だらけで、本当に学校に行くの?」
母は最近、怒るというよりも心配することのほうが、多くなっていた。どちらが良いのか、どちらもないのが一番か。
「見てるだけでも、痛々しいんだけど。そういえば最近、あなた変なことに巻き込まれてない? まさか、怖い先輩が街にいて、目をつけられたとか?」
「いやいや、そんな人に僕が絡まれるわけなくない?」
「そうね、あなたに限って、、。けれどもし、そう言った状況になったら、必ず逃げるのよ。こっちから何もしなければ、相手も興味をなくすから。」
その状況はとっくに過ぎ去っており、もはや手遅れであることなんざ、母には言えない。ましてや、『天使』などという、異次元存在との戦いに巻き込まれているなど。
「おいおい律、傷だらけじゃねえか。どうした、暗殺にでもあったか、ルーズベルト大統領。」
「あはは、何言ってんだよ、原田。」
そう、笑って流したが、内心ドキッとした。原田は、良く勘が当たる人間だ。
「痛そうだな、本当にナイフで切り付けられたみたいだ。ま、俺には関係ないけれど。」
影野は本当に関係なさそうに言った。そしてただ、顔を縦に振る木下と、のんびり登校した今朝。
しかしまだ、終わりではない、むしろ第2ラウンドのほうが、難航するように思えた。自称神とリリが言っていたことを照らし合わせると、2人目のほうが手ごわいらしかった。
「もう片方の天使ニクスは、私とは格が違うわ。私より、経験が豊富なベテランだから、きっとトリッキーな戦法を仕掛けてくる。それに、下界のことを人間以上に知り尽くしているから、ほとんど人間で見抜けない。」
昨日の戦いの帰りに、リリが教えてくれたこと。それを今、律は慎重に思い出していた。
「それで、誰に変身しているの? 一緒にいたから、教えてくれると助かる。」
「変身ではなく、誕生よ。我々天使は、いや彼ら天使は、、。変身するのではなく存在自体を、根本的に創り出せるのよ。それが、もういないの。」
未だリリには、元天使として譲れないものがあるらしかった。
「もう、いないって? まさか、第3者に既に?」
「違う、そうではなくて。もう既に、別の何者かになっていて、私が知っているそいつは、もうこの世界にいないの。だから、力になれないの、ごめんなさい。」
そんなことよりも、と律は続ける。確かに手掛かりがないことは残念だが、問題は別にもある。
「リリは、、リリは大丈夫なの? そいつには、リリってバレているんでしょ。」
「ああ、そのことなら大丈夫よ。彼は喩え指令を受けても、あなたの処理を優先するわ。そういう性格なのと、ある程度親しいから。それに、私の処理は『死神』と呼ばれる専門集団が担当に回るの。」
いろいろと複雑な気持ちになった。自分がまだまだ危険な状況にいることと、リリに対する罪悪感みたいなものが、どうしても拭いきれなかった。
「まあ、私もそこまでやわではないし、、。いざとなったら、あの剣を使うわ。」
リリのお力は健在らしく、その事実は心強いものだった。
「まあ、あなたは強いから大丈夫よ。さすが、A-ってとこね。」
何でもない、とリリは急いで取り消した。
回想が長くなってしまった。
「起立ーっ、気を付け、礼。」
無意識的に礼をしていて、着席の衝撃で目が覚めた。
「はいじゃあ今日は、教科書13ページを開いて。」
狩野先生の眠たげな一声から、気付けば4時間目が始まっていた。4時間目の国語、昼休みというオアシスの前に立ちはだかるそれは、はっきり言って地獄だった。
「はいじゃあここ、律が読んで。」
今回は、意識がはっきりとしていた。前回の失敗を生かし、あらゆる攻撃を想定してのことだった。
「はい、13ページですね。」
注意深く教室中を見渡しながら、ゆっくりと席を立つ。注意深く慎重に、そんな彼には、『灯台下暗し』ということわざを、掛けてやりたいものである。
「痛ったい、、。」
そう言って、立ったまま少したじろいた。そして教室中を見回すが、何周かした視線は最後に手元に至った。確かに痛みは、机の側面を掴んでいた右腕から感じたもので、机の棘にでも引っ掛かってでもしたのだろう。
「大丈夫ですか、律くん。手を押さえているようですが。軽い切り傷なら、保健室に行ってらっしゃいよ。」
「いえ、ご心配なく、、。」
そう言いながら、傷を見せるために挙げた手を、律は不意に止めた。そしてそのまま、しばし茫然と立っていた。
その意味は、律を含め3人しか分からず、クラスメイト達は律の行動に、受けを狙っているとでも感じていただろう。
「やっぱり、保健室に行ってきます。」
そう言って律は、足早に教室を出ていった。
「行ってらっしゃい。」
そう、先生は言った。
保健室のベッドに座り、律は右手にできた切り傷を眺めていた。そしてその傷が、熟れたトマトの様に、段々と深く開いていくところを。
「そういうこと、だったのか。さすがリリの言う通り、トリッキーだった、読めなかった。あんなに慎重にしていたはずなのに、やはり視覚だと限界があったか。」
今も尚、授業は進行しているのだろう。律に何が起こったのか、ほとんど分からないまま。そして確かに、これから先も分からない。なぜなら、その凶器はバグを切るためにあるのだから、バグを切るためにバグ以外には見えないのだから。
「『傷つけられた』ということが重要なのよ。」
彼女の言葉の意味を、律は改めて理解する。傷つければいい、傷つけさえすれば、剣としてではなくとも良い。
律があの時、右手の先に見た物は、光だった。昨日苦しめられた、あの光の破片だった。救済の剣、イミュニティーの待ち針サイズの破片。それが机の側面に、ガムテープで張り付けられていた。
「ちくしょう、まさか罠を張っているなんて。さあ、どうしたものだろうか。」
敵の罠に引っ掛かりはしたものの、今も傷が開いていってはいるものの。律はとりあえず、敵の正体までは掴んでいた。むしろ敵は、もうバレても構わないのかもしれないが。
「律くん、体調大丈夫? 吐き気とかがあったら、改めて先生に言うのよ。」
養護教員の石井先生は、漫画で見るような美人先生である。そんな先生が、敵である可能性も考慮して、律は構えておかないといけないのだから無情である。
「はい、いったんは落ち着いていますから、ここで様子を見させてください。」
こんなセリフを言っていると、なんだか仮病でベッドに逃げてきたようだが、実際はそれで足りる説明である。
しかしあのまま、教室に居たとして。血だらけになった律を見て皆は、何と言おうか。
「律くん大丈夫?」
いやいや、大丈夫なわけないでしょ。そこからの、昨日のような激闘は、教室でできた物じゃない。
「多分、誘いに乗った形になっている。」
多分先生も、生徒までを巻き込みたくないのだ。だから、保健室という空間に、対象を誘い込んだ。
「確実に、昼休みで片づける気だ。こちらも、何か練らなければならない。」
そうは思うものの、果たして自分に何ができるだろうか。思い浮かべても成功イメージはなかなか掴めず、むしろバッタバッタと、律たちが死んでいくのだった。
「では私は、一旦ここを出るから、気分が悪くなるなどしたら、すぐ横の職員室に声をかけてね。」
そう言って、石井先生は保健室は出ていった。もしかしたら、ここまでが先生の、狩野先生の作戦だったのかもしれない。
「さて、生きるか死ぬかの戦いだぞ。」
そう言ってから、保健室でそんなことを呟いている自分が、可笑しくて笑った。独りベッドに横たわる律は
コンコンっと、ドアがノックされる音がした。
「失礼します、律くんいるかな? こんなこと言うけれど、君はここにいるはずだな。あの傷も随分と増えているはずだし、第一君も、被害を押さえたいと思っているはずだ。」
ガラっと、ドアが開けられた。
「さあ、これより、ランクA-『神器』の処理を行う。迅速で適切な対応を目標とする。」
狩野先生改めニクスは、楽しそうに笑った。
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