ある舞台役者の平凡な失恋の話
長いこと顔を合わせていなかった恋人の手をしっかりと掴んで、クリスは声を上げた。
「マリベル、マリー。説明してくれるかい? 私を避けていただろう」
クリスが長らく舞台役者として忙しい日々を過ごしているのはともかくとして、明らかに最近のマリベルの様子はおかしかった。
「クリス、ごめんなさい。胸が張り裂けそうで、あなたの顔を見たくなかったの」
「何があったの、かわいいひと」
マリベルはクリスの伸ばした手をそっと避けた。
「お願い、優しい言葉をかけないで。私、あなたを裏切ったの。地元に帰って結婚するのよ」
「それは……相手は、私ではないのだろうね」
「両親が決めた人…きっと、いい人よ」
「私よりもかい?」
「やめてクリス、あなた以上の人なんていない。今もこれからもきっと、あなたより好きになれる人なんていないわ」
「だったら私といてくれないか。御両親には私が話すから」
「だめ、だめよ。両親がわかってくれるはずがない。古い考えの人たちなの。でも大事な両親よ。悲しませたくないの。それに…」
言い淀むマリベルの心を変えようと、クリスは語りかける。
「すぐにはわかってくれないかもしれない。だけどきっといつかは」
「お願い、やめて。私、このままじゃあなたをもっと傷つけることを言うわ」
「きみの心がまだ私にあるのなら、乗り越えられないことはないよ。どんな困難からもきみを守るから」
「夢みたいなこと言わないで!あなたにもできないことがあるわ! クリス、私ね。私、子供が欲しいの」
クリスはがんと殴られたような衝撃を受けて、しばらく押し黙り、痛々しい沈黙のあと、ようやく声を絞り出した。
「…きみは、私がいればそれでいいと言ったのに」
人生で一番情けない声だった。
クリスは、王子様のようなハンサムさで売っている女性人気の高い舞台役者だが、正真正銘の女だ。マリベルのことを愛していても、子供を望むことはできない。
「だから嫌だったの、優しいあなたにこんなことを言いたくなかった。人は変わるのよクリス。昔とは考えが変わったの」
「養子では駄目なのかい?」
「自分で、自分の子供を産みたいのよ。他人の子を愛せるかわからないもの。それに子供に私たちのこと、どう説明するの? 仕事が忙しくてほとんど家にも帰っていないのに、子供が育てられる? 私に1人で養子を育てろって言うの? 自分の子ならきっとまだ頑張れるわ。私のために男になってくれるの? ああクリス、あなたが本当に男の人だったら良かったのに」
マリベルの喋り方は、ほとんど癇癪をおこしたようだった。
クリスは深い溜息を吐いて、恋人の姿を見つめた。
「きみは、本当に変わったんだね。世間を恐れるようになったし、男の人なんて大嫌いだっただろう」
「もう私たち少女じゃないのよ、夢見る時間は終わったの。あとは現実と向き合うだけ」
「マリー…」
「許してクリス、あなたは私の夢そのものだったけれど。もう、決めたの。私も、あなたから夢を奪いたくないわ」
「夢は、もう消えてしまった?」
「いいえ…いいえ、今も。だけどわかって。私といれば、そうなる。あなたは道を閉ざされるの。あなたに似合うのは舞台で、私は違うの」
クリスはうつむいて、自嘲のように弱音を吐く。
「私も、変わるべきなのかな」
反対にマリベルは弾かれたように顔を上げ、泣きそうな声でかぶりを振る。
「だめ、だめ! そんなこと言わないで。さっきはひどいことを言ってごめんなさい。私にこんなことを言う資格はないけど、あなたは変わらないでいてほしいの…」
「ずいぶんと、残酷なことを言うんだね」
クリスの弱々しい苦笑を見て、マリベルの目に溜まった涙が一斉に流れ落ちる。
「ごめんなさいクリス。ごめんなさい。私はひどい女だわ」
「いいんだ、泣かないでマリー。私だってひどいんだから。きみの願いを全て叶えると言ったのに、約束を果たせなかった。それに、私はきみのために戦うことはできても、きみのために生き方を変えることはできない」
マリベルの涙をハンカチでおさえながら、クリスは微笑みかける。
「だからマリー、私はこれからも夢を見て、夢を見せ続ける。それに、ここまでやってこられたのは君のおかげでもあるから……ありがとう。いままできみの恋人でいられて幸せだった」
クリスはマリベルに、かすめるように触れるだけの別れのキスをして、それから額に、新しい門出を祈る祝福のキスをした。
マリベルは泣きながらも、まるで知らない女性のような顔で微笑んだ。
「さようならクリス。あなたは最高の恋人よ」
「さようならマリー。どうか幸せになって」
これは、クリスがトップスターになる少し前の話。
恋に関する掌編集 モギハラ @mogihara
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