第1章 魔王の花嫁

第1話 太陽と月の兄弟

 私は泣いた。

 それはもう、身体の中にある水分を全て出し切ってしまいそうな程、大泣きした。


 そんな私に、お父様が言う。


「勇者御一行ごいっこうは魔王の前に敗れ、この世界はもうじき魔王の手に落ちてしまうだろう」


 伝説上の存在とされていた魔王が突如としてその姿を現し、それを討ち果たさんとする勇者様が見付かった。

 彼らはこの世界の希望そのものだった。

 世界各国から集まった戦士、魔導師、治癒術師──そんな勇者様達ですら、悪しき魔王には手も足も出なかったという。

 魔王討伐の旅に出た勇者様の一行は、勇者様が生まれ育ったという村に無残な姿で帰還した。

 その訃報を受けた数日後に、勇者様の村は魔族達の手によって焼かれ、村人達までもが葬むられてしまった。

 けれども、何故か魔王は私達人類に取引を持ち掛けてきたのだ。

 勇者を葬り、後は各国への侵略さえ済ませてしまえばそれで終わり。

 それなのにだ。


 ある日、城に魔王の使いがやって来た。

 迎え討とうとする騎士達を簡単に手に掛け、けれども国王であるお父様や、姫である私には一切手を出そうとはしなかった。

 使者はお父様と護衛の騎士を部屋に残し、私をそこから追い出した。

 きっとお父様は殺されてしまうのだと思った。けれど、それは違う。

 魔王は、本当に取引をするつもりだったのだ。


 お父様は取引の話を終えた魔族を真っ青な顔で見送っていたと、後に侍女から聞いた。

 それからすぐ、お父様は発言力のある貴族や将軍らを交えた会議を始める。

 何の話かは私に一切知らされないまま、三日の時が流れた。

 そしてつい先程、お父様は私の部屋にやって来たのだ。


「本当に済まない、シャルミア。けれどこれは、お前にしか成しえぬ事なのだ」

「お父様……?」


 こんなに憔悴しょうすいしきったお父様を見るのは初めてだった。

 だからこれから切り出される話題は、きっととんでもないものなのだろうと予想していた。

 ……けれども実際は、私の予想よりも遥はるかに最悪なものだった。


「魔王の使者は……お前を魔王の嫁に差し出せば、このリュミエール王国だけは見逃してやると持ち掛けて来た」


 ──絶句した。

 十年前にお母様を亡くしてからも、ずっと私を大切に育ててくれたお父様。


「私はお前を手放したくはない……! だが……だがなシャルミアよ。魔王は明日までにお前を差し出さねば、まずはこの国から侵略を開始すると言っているのだ」

「…………っ!」


 勇者様は亡くなった。

 希望は潰ついえた。

 けれどもそこに降って湧わいた、この国のみは救済される道。

 それを選ばない人間がどこに居ようか。

 勇気ある若者達は死に、残された非力な王族に出来る、国を護る為の唯一の手段がここにある。


「必ずお前を迎えに行く。それまでの辛抱だ。どうかそれまで待っていてはくれまいか……!」


 一体誰が迎えに来てくれるというの?

 勇者様ですら敵かなわなかったのに。

 それでも私に拒否権なんてあるはずがない。

 私が拒んだとしたら、自分もろとも、リュミエール王国は滅ぼされてしまうのだから。



「……姫様、支度が整いました」


 翌朝、まだ日も昇りきらないうちに身支度を済まされた。

 湯浴ゆあみをし、身体を磨き、髪を弄いじられて、お化粧も施ほどこされた。

 今は亡きお母様と同じ、夜の闇を宿した黒い髪。色素の薄い夜明けの紫の瞳。

 花嫁を意識しているのだろうか。真っ白なドレスに身を包んだ私は、これからどんな目に遭あうかも分からない地へ送り出される。

 ──ああ、お母様。こんな形でお嫁に行く私を、貴女はどう思っているのでしょうか。



 夜の内に枯れ果てた涙は、いつの間にか心の奥で重く鈍(にぶ)い痛みを放つ棘(とげ)に成り変わっていた。

 お父様は見送りには来なかった。

 当然だろう。愛娘の命と引き換えに救われようとしているのだから、私に会わせる顔が無いのだろう。

 本来なら婚姻のパレードで乗るはずだった豪華な馬車に押し込まれ、魔王との取引の場所に連れて行かれるらしい。

 お嫁に行くのは間違い無い。

 けれどもパレードとはとても呼べない、重苦しい空気の城下の大通りが窓から見えた。

 侍女も、馬車の御者ぎょしゃも騎士達も、生気の無い民達も……お父様も。

 皆みんな、私一人が犠牲になる事で救われるらしい。


 嘘かもしれないし、本当かもしれない。

 それでも、それに縋すがるしか方法が無かったのだ。

 一晩泣き明かした私は、この時既に全てを諦あきらめていた。

 いつかは政略結婚として、望まぬ相手と添い遂とげねばならないのは知っていた。

 お姫様なんていうのは、政治の道具に過ぎないのだから。


 何も考えたくなくて、私は眠った。

 その間に取引場所に到着したらしく、別の馬車に乗っていた宰相さいしょうの声で目が覚めた。


「シャルミア様、お目覚め下さい。魔王の使者殿がお見えでございます」


 目覚めなんて永遠に来なければ良かったのに。

 宰相に促(うな)がされて馬車を降りると、そこは人気の無い森の中だった。

 ここがどこかは分からない。

 私の脚では逃げ切れない、足場が悪く薄暗い場所を選んだのだろうか。

 どの道、どれだけ走りやすい所であろうと無理な話なのだろうけれど。


「グヒヒ……まさか本当に来るとはなぁ、リュミエールの姫様よ」


 薄気味悪い声がしたかと思えば、ぐにゃりと空間が歪ゆがんだ。

 その歪みの中から滲み出るようにして、豚の頭をした魔族──オークが現れた。

 オークは比較的有名で、実物を見た事が無くても名前とその特徴だけはよく知られている魔物の一種だ。

 しかし、目の前のオークは聞いていた話とは明らかに違っている。

 人間程の大きさだというオークのはずが、それを倍にした背丈だったのだ。

 その身体を覆う鎧の装飾からして、身分の高い魔物なのだと窺うかがえる。


「あ、貴方が先日交渉にいらした……」

「オグルバだ。アンタが宰相殿か?」

「え、ええ……」


 宰相は声を震わせ、冷や汗を流しながら受け答えた。


「本当に姫様を差し出してくるとは、人間共も酷いモンだな。ああ、可哀想に」


 可哀想だなんて、これっぽっちも思っていないでしょうに。

 からかうような、楽しんでいるような声色でオグルバは続ける。


「だが、これで姫様がこちらに来ればリュミエールだけは見逃してやろう。それは魔王様が約束して下さっているからな」

「……それが真実であるなら、私はそれで構かまいません」

「ひ、姫様……!」


 ちらりと隣の宰相に目をやる。

 絶望しきった私とは違い、僅かな希望の糸に縋る目だ。

 一つ呼吸し、私はオークの男に向き直る。


「私を、魔王の元へ……連れて行って下さい。それこそが、リュミエールの姫である私の務めです」


 そう言うと、オークはその豚鼻をフゴフゴと鳴らして笑い出した。


「ハッハッハァ! そりゃあ立派なお姫様だ。ああ、すぐに陛下の元へお連れして差し上げるとも!」


 不愉快な笑い声だ。

 オークは私の肩を掴んで、機嫌良く言い放つ。


「リュミエールの姫君、確かに頂戴した! 貴殿きでんらの国には、魔王陛下の御慈悲による安寧がもたらされようぞ!」

「……っ!」


 その瞬間、視界の全てが大きく歪んだ。

 オークによる転移魔法だろう。気分が悪い。

 掴まれた肩が気持ち悪くてぞわぞわする。

 早く転移が終われと祈るように固く目蓋まぶたを閉じていると、頭上でオークの声がした。


「リュミエールの姫をお連れ致しました、魔王陛下」


 その声に目を開けると、そこはさっきまで立っていた森ではなかった。

 宰相が居ない。私だけここに連れて来られたらしい。

 目の前にはブクブクと泡立つ巨大な真っ黒の塊かたまりが一つ、私を見下ろすように鎮座している。

 ここは古びた城のように見えた。これが魔王の城なのだろうか。

 とすると、目の前のこの黒い塊が……魔王?

 今にも天井にまで届いてしまいそうな高さの巨体が、その不気味な外見に似合った悪臭を放っている。腐った食べ物でも掻かき集めたかのような、ツンと鼻にしみる臭いだった。


『ガボァ……ゴボッ……』

「ええ、左様にございますとも。今も奴らは地下牢にしっかりと繋がれております。そう簡単に逃げ出せはしないでしょう」


 泡が弾ける音とは違う、異様な音だった。

 私がそれを魔王の声だと理解したのは、オークがそれに返事をしたからだ。

 地下牢と言っていたけれど、私以外に誰かがここに……?


「既に姫君には、婚礼の衣装をお召めし頂いております」

『ガボボッ……グボッ……ゴゴッ……』

「ええ、すぐにでも婚礼の儀に取りかかれますぞ。……さあ姫よ、この指輪を付けるのです」


 オークは私に小箱に入った指輪を差し出した。

 黒い石が嵌め込まれたそれは、明らかに異質な魔力を纏まとっている。

 何かの呪いの類たぐいだろうか。これに触れてはいけないと、私の本能が警鐘を鳴らしていた。

 なかなか指輪を受け取らない私に痺しびれを切らしたのか、オークは小さく舌打ちをする。


「……早く付けろ。さもなくば、ここでお前共々皆殺しにされるぞ」

「…………っ」


 小声で囁ささやいたオーク。

 それでも私はどうしても指輪に触れる気になれない。

 手を伸ばしたくても、身体が言う事をきかなかった。

 すると、彼は無理矢理私の腕を掴んだではないか。


「早く……! 死にたいのか……!?」

「い、嫌ぁっ!」


 その時、私達の背後から豪快な爆発音がした。

 驚きながら振り返ると、どうやら誰かが扉を吹き飛ばしたようだった。壊れた扉の残骸が転がっている。


「その指輪、触れなくて正解だったよプリンセス」


 男性の声だ。

 爆発によって引き起こされた煙の奥に、人影が見えた。

 それも、一人ではない。


「それには強力な呪いが掛かってやがる。解呪かいじゅはあんま期待出来ねぇから、流石さすがは『現魔王』の呪いといったところかねぇ?」


 煙が落ち着くと、ようやくその姿がはっきりと目視出来た。

 一人は銀色の長髪に青い瞳で、もう一人は金髪に赤い瞳の男性だった。

 その二人とはかなり距離が離れているけれど、ここからでも彼らがよく顔の整った男性だというのは分かる。

 着ている鎧はそれぞれ違うが、どちらも上質で身動きのしやすいものだと感じた。

 しかし、どちらの男性にも見覚えが無い。勇者様のお仲間では無さそうだけれど……


「父上……と呼ぶのも穢らわしい、本物の化け物に成り下がったね。どうやら本気で狂い果ててしまったらしい」

「こんなモンと同じ血が半分も流れてるってのは、気に入らねぇ事この上ねぇが……そうでなきゃ、俺達は今この場に居られなかったからな」

「貴様らぁ! どうやってあの地下牢から抜け出した!?」


 激昂げっこうするオークに、銀髪の彼が冷静に告げる。


「簡単な話さ。神が僕らに味方した……それだけの事だとも。ねぇ、アレク?」

「おうよヴァル! アイツら頼まれた事、きっちりやり遂とげてやろうじゃねえか!」


 魔王を前に、二人に焦あせりや緊張の色は無かった。

 まるで普段の何気ないやりとりのように、自然な会話だと感じる。

 それだけの自信を持つ実力者なのか、それとも無謀むぼうなだけの若者か……

 でも今、彼らはこの魔王を『父上』と呼んでいた。

 という事は……あの二人も、魔族なの?

 それも、こんなドロドロの怪物の子供……?


『ガガボガッ……グブボッ……!』

「ハハッ、何言ってんのか分かんねぇや」

「最後に見た時は、まだ辛うじて原形が残っていたというのにね……」

「アンタがリュミエールのお姫さんか? 待ってろ、すぐ助けてやっからな!」

「させるか、この出来損できそこない共めがぁぁ!!」


 オークは背負っていた巨大な斧おのを高く掲かかげながら、二人に向かって駆かけ出した。

 金髪の男性は赤い光の中から剣を召喚(しょうかん)し、オークを迎え撃つ。


「やれるもんならやってみやがれ!」

「グオオォォォォッ!!」


 男性は振り下ろされる斧をいとも容易たやすく弾く。

 すると、


「さあプリンセス。彼が時間を稼いでいる今が好機だ」


 いつの間にか私の背後から声がして、ふわっとした軽い浮遊感があったかと思うと、気が付けばさっきの剣を持った彼の後方に移動していた。

 今のも転移魔法だったのだろうか?

 私が離れたのに気が付いた魔王が、その溶けた身体をズルリと垂らしながら、少しずつこちらに迫り始めている。


「ま、魔王が……!」

「心配はいらないよ。アレク、姫は無事保護した! 準備は良いかい?」

「ああ、問題ねぇ! っぜりゃあ!!」

「ぐっほぁ!!」


 アレクと呼ばれた金髪の彼が、炎の魔法でオークを吹き飛ばした。


「君は少し下がっていてくれたまえ。少々威力のある魔法を使うからね」

「は、はい……」


 優しく声を掛けられ、私は素直に後方へと下がる。

 既にそう遠くない距離にまで魔王は迫ってきていた。

 二人は私を庇かばうように立ち塞ふさがり、銀髪のヴァルと呼ばれていた彼も、青い光を放った剣を喚よび出した。

 彼らは一度、揃って私の方に振り向いた。


「君の事は、僕達が護まもる」

「だからそこで見ててくれ。すぐに片付けてやっからよ」


 微笑を浮かべた二人は、この緊迫した状況下であるのに、何故かとてつもない安心感があった。

 それと同時に、彼らはなんて美しいのだろうと──そう思わずにはいられなかった。

 二人はすぐに前に向き直り、違いに背中を合わせるようにして、魔王とオークに剣先を向けた。


「太陽の剣、神のほむら……我、汝に裁さばきを与える代行者なり」


 アレク様の剣が、燃え上がるような赤いオーラを纏う。


「月の剣、女神のなみだ……我、汝に裁きを与える代行者なり」


 ヴァル様の剣もまた、静かに渦うずを巻く青いオーラを纏わせた。


「「我ら、聖女を守護せし力を、今解き放たん!!」」


 二人の剣は、荒れ狂う二色の光線を魔王達へと浴びせた。

 降り注ぐ滝のような、激しい光の流れが絶え間なく注がれ続けていく。


『グガッ……ボガバベァァァァァッ!!』

「グアァァァァァァァ!!」


 広間は眩しい光に呑み込まれ──


 そして、そのあまりの強さに手で顔を覆っていた私は、目を開いて思わず呟いた。


「……倒……した……の、ですか……?」


 広間からは、あの悪臭を放つ巨大な怪物も、醜いオークの姿も消えていた。

 ここに居るのは、私と二人の男性……アレク様とヴァル様だけだ。


「姫さんも見てただろ?」

「倒したよ。僕達が、今ここで」

「そんな事……勇者様達でも倒せなかったのに、どうして……」


 二人は呆然ぼうぜんとする私に歩み寄り、それぞれが私の手を取ってこう言った。


「アイツは『リュミエール王国を救う代わりに、姫さんを魔王の嫁に寄越よこせ』と言ってきた。そういう契約だったよな?」

「え、ええ……そう聞いています」

「それなら僕らがあれを倒し、新たな魔王となって国を救えば、君は僕らのお嫁さんになるという事だろう?」


 ……今、何と仰いました?

 困惑する私に、彼らは続けて言う。


「魔王との契約は普通の契約とは訳が違う。絶対に守らなきゃならねぇ」

「もし魔王でもその契約を破れば死んでしまう。それ程までに、あの化け物は君を欲していたんだよ」

「そんな契約をしてまで私を必要とする理由が分かりません! そもそも、貴方達は何者なのですか? 新たな魔王になるだとか……。助けて頂いた事には感謝しますが、私には何が何だか……」

「あの化け物が君を求めていた理由は……残念だけれど僕らにも分からない。でも、僕らが魔王を倒せた訳はきちんと説明するよ。けれど、ここはまだ敵の本拠地だ。場所を変えるよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る