愚者の幸福
持つ者は幸福である。持たざる不幸を知っているならば。
持たざる者は幸福である。持つ幸福を知らない限りは。
『塔に刻まれた碑文』より
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「テア様、つかぬことをお聞きしてもいいですか」
集中力が切れたのでしょうか、書き物をしていたテア様の手が止まったのを見計らって、私は声をかけました。テア様の秘書になってからもうだいぶ時が経ちますから、こういう時なら、他愛ない質問でも答えてくださることが多いと知っているのです。
「…言ってみろ」
やった、許可が下りました。
「テア様の名前の『セディク』って、昔の言葉で賢者って意味なんですよね」
「古代クーリャ語だ…何だ、また職名の話が聞きたいのか?」
「いえ、賢者がセディクなら、賢者の秘書はどう言うのか、と思いまして」
「ああ、そういうことか。残念だろうが、賢者の秘書、という意味の職名は無い」
話は終わりだ、というような口調で、テア様はすぐ書類に視線を戻しました。
「何故ですか。だって、神殿では水汲み係にすら職名があったと前に仰っていたじゃないですか!賢者の秘書なんて、なかなか無い身分でしょう。職名が無いのはおかしいのでは?」
一度にまくしたてすぎてしまったでしょうか。テア様が目を丸くして再び顔を上げました。言葉もなく見つめられるとなんだか居心地が悪くなって、答えを待つために閉じていた口を再び開きました。
「何ですか、どういう意味の沈黙ですか」
「いや…お前が、そこまで自分の立場を分かっているとは思わなくてな」
「聞き捨てなりませんね。優秀な秘書に向かって言う言葉ではありませんよ」
「ほう、お前は優秀だったのか」
知らなかったなといつも通りに嘯くテア様の目は明らかに私をからかっています。私が何か言い返すのを期待しているんですね。敢えてのせられてみせるのも、秘書の甲斐性というものです。 騎士同士が、稽古の合間に少しふざけて軽く剣先を鳴らし合って、互いの調子を確かめる行為に近いかもしれません。騎士の用語では『鳴らし』と言うと、子供の頃読んだ騎士物語に書いてありました…つまり、私が負けず嫌いだからではなく、これはそういう儀式なのです。
それに、この話題に関してはとっておきのネタがあるんですから、今日は私が優勢なはず。
「そうですね…例えば、以前、三日間ほどシュカ様の秘書を勤めさせていただいたのですが、『素晴らしい秘書だ』と仰ってくださいました」
「シュカ!?あのシュカ・ゾイエが!?」
狙い通り、テア様が少し驚いた声を上げました。シュカ様とは、現在の祀書長のことです。テア様と同じく偉大な法術士なのですが、すぐ外に出たがるテア様と違って、滅多なことでは自室と祀書室のある神殿の一角から絶対に出ないという決意を固めている…やはり、少し変わったお方です。
「そうです、あのシュカ様が、です!お分かりになったでしょう、私が優秀な秘書だということが」
さあ、たまには私を褒めてくださっていいのですよ、是非とも一目おいてください、とばかりに背筋を伸ばしてみますが、テア様は顎に手を当てて、
「いや、待てよ…奴は珍獣が好きだからな…」
失礼な!
「待てよ、じゃないでしょう!待つのはテア様です。そして珍獣もテア様の方です」
「いや、やはり待つのはお前だ。どさくさに紛れてとんでもない不敬を口にしたな?」
「だって、世界にひとりの賢者様ですよ?珍獣中の珍獣じゃないですか!」
「その賢者を珍獣扱いする珍獣も世界に一人だけだ」
「いいえ、賢者様は一人しかいませんが、賢者様を珍獣扱いする人間なら私一人ということはないはずです」
「口先ばかり達者な秘書め。いつからそうなった?以前はもう少し素直じゃなかったか」
「テア様が素直じゃないのでうつりました。秘書は神官に似ると言うでしょう」
「お前が似たのはあの時守じゃないのか」
あの時守というのは、レヴィのことですね!
脳裏に鮮やかに浮かぶ友の姿を己と重ね、思わず私は首を傾げてしまいました。
「あの、私ってあんなに綺麗で優しいですか?」
聞き返すと、テア様は腕をだらりと垂らし、一気に脱力した様子で背もたれによりかかりました。
「……お前は奴への評価を根本的に間違っている。奴の本質が見えていない」
テア様、やっぱりレヴィのことが苦手なんですね。なんだかんだ言いつつも尊敬すべき上司と大事な友人の仲が芳しくないのは板ばさみのようで気が落ち着きません。
元々、テア様は私より前からレヴィと知り合いのようですが、私がテア様の秘書になる前から、テア様はレヴィを苦手に思っていて、レヴィはテア様にちょっかいを出しているようです。
以前テア様に「きっと、好きな子をいじめたくなるようなものですよ」と言ってみたらすこぶる嫌そうな顔をされてしまったので、ここは何も言わないのが正解でしょう。 二人の仲については、レヴィからもその根源を知ることはできていませんし…二人共にはぐらかされているようで、気になりはするのですが…。
そもそも、テア様ほどの高位であれば、一介の時守官であるはずのレヴィを神殿から追い出すくらいは簡単にできるはずなんです。勿論賢者に神殿の人事権はありませんが、なんと言っても賢者ですから、裏から手を回すなりすれば、圧力をかけることも容易でしょう。それでもテア様はレヴィからの悪戯も、本来ならとんでもない不敬にあたるような非難も甘んじて…いえ、悪戯への抵抗はしているようですが…受け入れているようなのです。
テア様はレヴィに弱みでも握られているのでしょうか。私の知らない過去に、二人の間に何が…。
「…というか、それはいつだ」
「いつ?私が知りたいです」
「何?」
思わず自分の思考に対する言葉として問い返してしまいましたが、考えを読み取る術の類を使われた感覚はありませんでしたし、多分私の考えていたことではないでしょう。思い切り怪訝な顔をしたテア様に慌てて聞きなおします。
「すみません、何のことですか?」
「その、シュカ・ゾイエの秘書をしたのはいつのことだと言っている」
「…ああ、その話ですか!もう終わったかと」
「私が納得していない限りは終わっていない。洗いざらい話せ」
何です、その尋問みたいな口調は。
「テア様の秘書に選ばれる前ですよ。秘書候補生の時に、実習の一環としてここに来たことがあるんです。」
「それは知っているが、シュカ・ゾイエのもとでとは聞いていないな」
「テア様とは会いませんでしたからね。私もその時はまさか賢者の秘書になるとは思っていませんでした」
祀書室とここでは場所も離れていますから、すれ違いもしなかったかもしれませんね。シュカ様は、その…ああいう方ですし、神殿の中を本格的に歩き回ったのは一日目の最初ぐらいでした。
「…と言いますか、祀書室とここは何故こんなに離れているんでしょうか」
「祀書室にある書の内容は全てここにある。問題は無い」
ここ、と言ってテア様が指した指の先にはテア様のこめかみがあります。一度言ってみたいですね、「書は全て頭の中だ」なんて。頭の中に図書館があったら、いつでも好きな本を思い浮かべるだけで読み返せるでしょうか…じゃなくて。
「テア様は良くても私には問題です」
私にも秘書として、調べ物をしなくてはならないことがありますし、いちいちその度テア様をわずらわせるわけにはいきません。重い書類を持っての往復は結構な重労働です。
テア様、もしかしてシュカ様のことが苦手だったりするのでしょうか…。いえ、レヴィのことも苦手なようだし、スヴァさんのことも、以前の事件があるとはいえ、あまり良く思っていないようですし…むしろテア様が親しげになさっているのは私の知る限り酒屋のワグリーズ夫妻と、クレブ様と…お師匠様、オルシャさんでしょうか。折角ですし、皆さんが仲良くしてくれたらと思うのですが、なかなか難しいようです。
「…お前は祀書室に勤めたかったのか。クレブ殿に役替えを申し出てもいいんだぞ」
テア様、とても分かりやすく拗ねていらっしゃいます。察しのあまりよくない私にも分かる拗ねっぷりです。天の智と謳われる賢者様がこんな風に拗ねるのは、なんだかおかしくなってしまいますが、表情に出してはいけない場面です。ここは耐えねば。
「いえ。なんだかんだ、ご縁があって良かったと思っています。全てを知るテア様と一緒の方が、祀書室に勤めるより、きっと色んなことを知ることができますし」
「何だ、結局お前は知識欲で天秤にかけるのか。忠誠心が足りないな」
素直に褒めるとこうですから、全く困った賢者様ですね。こうなったら本日二度目の鳴らしです。
「テア様って、私にそういうものをお求めでした?初耳です」
「つくづく食えない秘書だ。むしろそれぐらい生意気な方が、欺いて抜け出す時に罪悪感が無くていいか」
「では、そう簡単に欺かれないよう、精進しますね」
挑戦的に微笑んでみせると、テア様も意味ありげに口の端を上げて見せました。
「さて、お前に見破れるかな」
「あ、魔術や法術を使うのは卑怯ですよ!」
「正道は常に勝つ者が定義できる」
「それは悪魔の論理ですよ。騎士訓をご存知無いのですか…」
そんな、いつものやり取りを日課のようにこなし、私たちは重要なる各々の職務に戻りました。テア様がぽつりとそれを呟くように仰ったのは、赤い日が町並みの中に没しかけた頃でした。
「…お前の知りたがっていた職名だが」
唐突でしたので少々面食らいましたが、仕事が終わって暇ができたので、私の質問に答える気になってくださったのでしょう。書類を持って外へ出ようとしていた私は、すぐテア様の執務机に駆け寄りました。
「教えてくださるんですか?」
「先程言った通り、賢者の秘書、という意味の職名は無い」
改めてそれを言い聞かせたかったわけではないはずなので、私はテア様の言葉の続きを待ちました。たっぷり五秒ほどの間をおいて、やはり続きの言葉が口にされました。
「…だが、かつて賢者の最もすぐ近くで、殆ど今の秘書の役目を持っていた者に与えられた職名がある」
「それです!教えてください、テア様」
「セディーカ」
殆ど私の言葉の末尾に被せるようにして、その名は呼ばれました。
テア様は物思いをする時の顔で、ぽつりと呟くように、会えない誰かを呼ぶように言ったのです。
「…綺麗な響きですね。」
テア様の雰囲気からただならぬものを感じた私は、テア様にならって、私もセディーカ、と言ってみます。
「私だと、エアル・セディーカ・レアルになるんですね」
試しにそう言うと、テア様は困った顔をして私をたしなめました。
「だめだ、あくまで昔の職名だから、お前が使うのはおかしい。エアル・レアルで十分だ」
「でも、私の位置にいた人の職名なんでしょう?」
「昔の話だ。今は違う。とにかくだめだ。許さん」
確かに私の名前は言いやすい、覚えやすいと気に入っていただけますし、私自身も気に入っています。とはいえ、高貴な印象のあるテア様のような長い名前に、一般庶民としての軽薄な憧れも、多少はあるのです。騎士物語の騎士たちも皆、正式な名前の中には職名や家の名、守護精霊の名が入っていました。
…そもそも、そんなに重要な意味があって言っているわけではないんです!ただの好奇心とはしゃぎたい気持ちなのに、テア様がそんなにムキになるのは何故なんでしょう。
とうとう私もムキになって、あり得ない仮定の話を始めてしまいます。
「数百年前に私とテア様がいたら、私はエアル・セディーカ・レアルだったはずです」
「違う、数百年前にお前はいなかった。勿論『テア』もだ。だが、賢者も、セディーカもいた。そして、『私』は幾年前のセディーカのことも知っている…覚えている」
テア様はそう言ってから、どこか遠くを見る顔をしました…ああ、またです、『俺』ではなく『私』のテア様。こういう時のテア様は、テア様であって、テア様ではありません。遠い昔に賢者をしていた誰…百年前ですと、確かイリャス・セディク・オーレドス様でしょうか。穏やかで聡明な方であったと伝えられていますが、テア様からそのご記憶に関するお話は聞いたことがありません。
そもそも、テア様は私が歴代の賢者様や、その周りのことを聞こうとすると嫌がるので、たまにこうして自分から話してくださる時を待つしかありません。テア様は何でも知っていても、ご自分に関することは殆ど教えてくださらない。
少し疎外感を覚えながらも、セディーカという名がテア様にとって…賢者にとってこだわりのあるものだということは感じることができましたから、これ以上ここで話題にするのは得策ではないかもしれません…別のところで話題にしましょう。
「…とにかく、他でその名を口にするなよ」
私の目論見を先回りして潰すように、緘口令が布かれてしまいました。目に見えてがっかりした顔をしたら、人差し指で軽く額を小突かれてしまいました。
「古い職名など、今更持ち出すと妙に思われるぞ。そうしたら、お前にそれを教えた俺もろとも、いい笑い者だ………分かったな?」
「…分かりました」
上司の名誉は守るべし。念を押すテア様の目を真っ直ぐに見ながら、私は厳かに頷きました。
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ああ、クリミヤの神々よ、お許し下さい。私は嘘を吐くこと、約束を違えることが罪であることを知る者です。知りながら犯す罪の、なんと恐ろしいことでしょう。
「レヴィ、入ってもいいですか」
勿論、他の神官様や秘書仲間には言いませんし、テア様から聞いたことも言いません。でも……古代語や神殿の歴史に通じているレヴィなら、セディーカと呼ばれた秘書や、古い職名のことも知っているはずです。それに、レヴィは私が愚かなことを言っても、笑ったりは…いえ、少し…だいぶ笑ったりもしますが、少なくとも私の味方です。
そうほくそ笑み……いえいえ、罪深さに胸を痛めながら、私はいつも通り、塔の上にある時守官の部屋の扉を叩きました。
「お疲れ様、エアル」
扉を開けてにっこりと出迎えてくれたレヴィに招かれ、部屋の中央に据えられた卓の両脇にある椅子に座ります。椅子自体は豪奢なレヴィに似合わない質素なものですが、異国風の大胆な色柄が刺繍された、中綿入りの敷布がかけられ、座り心地はなかなかのものです。
同じく異国風の模様が入った器に薄桃色をしたお茶が注がれると、かぐわしい香が立ち昇って、一日の疲れが癒されていきます。あとで茶葉の銘柄を教えてもらおうと決意した時、向かいの席についたレヴィが、器を私の方へ滑らせるように押し出しながら言いました。
「…さて。私に、何か聞きたいことがあるようだけど」
「どうして分かるんですか、レヴィ」
器を受け取りながら、私は目を丸くします。
「扉を開けた時から、両の眼が未知への探究心で輝いていたからね。すぐに分かったよ」
美しい友人はくつくつ笑い、片目を瞑ってみせました。
「うんうん、私は何も教えてくれない賢者殿とは違うからね。喜んでお答えするよ」
「…笑わないでくださいね」
テア様に笑われるぞと言われていたので、一応念を押します。もし大声で笑われて笑い声が神殿じゅうに響き渡りでもしたら、約束を違えたことがテア様にばれてしまうかもしれません。
「セディーカという職名、例えば私が使ったらやはり、変なものでしょうか」
言い終わらないうちに、柔和に微笑んでいたレヴィの端麗な両眉の間に、いくつもの皺が寄りました。予想外の反応に、つい美人の険しい顔は凄みがあるなぁ、なんて全く外れたことを考えてしまいます。
「…そうだねぇ」
のん気に意識を飛ばしたのも一瞬、すうっと細められた紫の瞳に射抜かれ、思わず息を呑みます。
「君がその名を使うようなことがあれば……きっと、塔から身を投げてしまうだろうね」
言葉こそ冗談のようでしたが、口調は不穏な気配をまとっていました。
「ど、どうしたんですかレヴィ…」
「ねえ、エアル。君はセディーカの意味が分かっているの?」
「……昔、賢者の秘書にあたる役目をしていた人の職名じゃないんですか?」
恐る恐る聞いてみると、レヴィは少し安心したように肩の力を抜いて、器に手を添えました。目元にはやや険しさを残しながらも、いつもの雰囲気を取り戻して私を見ます。
「ああ、それはね。合っているけど真実の全てではないよ」
「もしかして、他の意味が?」
いつものまわりくどい言い方と意味ありげな笑顔に、私も少しほっとしながら、言葉の続きを促します。レヴィは勿論だとも、と肯定し、お茶を一口飲んで言いました。
「セディーカっていうのはつまり、賢者の伴侶のことだ」
「……はんりょ…伴侶って…えっ?」
あまりにもあっさりと告げられた真実に私は少々面食らってしまいました。テア様、そんなことは一言も言わなかったじゃないですか!
「昔は高位の神官の補佐はその伴侶がしていたんだよ。今の秘書学院が『神官の花嫁修業院』なんて言われるのも、そういう事情があってのことだ」
確かに若い女性であることが多い秘書官は、出会いの少ない神官の結婚相手候補としての意味合いが強いということは知っていますが…。
ああ、他の神官の方に言ったりしなくて良かった。私がもう少しお調子者だったら、話したのがレヴィでなければ、あらぬ噂が神殿に…と考えると恐ろしい気持ちになりました。それはもう、色んな視線に晒されてしまいます!しかも相手が、好奇の視線に対して不寛容を貫く、あのテア様です。噂をする人全てを地中に埋めかねません。ついでに私も埋められかねません。むしろ真っ先に噂の元凶たる口と頭の軽い秘書を沈めにかかることでしょう。
「それにしても、エアルは歴史に疎いねえ」
「一通りは学んだはずなんですが……」
おかしいなあ、と首をひねって記憶を遡ること数秒。その理由に思い至り、思い切り渋い顔をしてしまいました。できれば思い出したくない類の記憶だったからです。
神殿の歴史に触れたのは、秘書官候補生として王都で学んでいた頃です。当時、田舎から出てきてすぐで、あまりお上品と言えない振る舞いの多かった私は、神殿の歴史を担当していた教官と相性が悪く……それはもう、とにかく相性が悪く。教官にも神殿の歴史そのものにも拒否反応を示し、口頭試問の前に要点だけ詰め込んでは忘れることを繰り返していました。神官が憎ければ法衣まで憎いものです。もしかしたら…いいえ、多分、神殿の職名のこともその頃学んだのでしょう。そう考えると、まるで初めて聞くことのようにテア様に色々聞いて、いちいち感心していたことが猛烈に恥ずかしくなってきました。
先程は沈められるなどと散々なことを言いましたが、以前も先程も、テア様は嫌な顔をせず教えてくれて、しかも私の勉強不足を指摘することもありませんでした。更に、賢者の秘書である私であれば知っていて当然のことを、さも珍しいことのように持ち出して失笑を買うことを防いでくれたのです。これは、その温情に報いて、きちんと勉強し直さなければいけません。
頬杖をついて私の百面相を見守っていたレヴィが、私の厳かな決意の顔を見てやっと口を開きました。
「さて、理由には思い当たったかな」
「…ええ、まぁ……」
気まずさから、微妙に視線を逸らしてから、私はこみ上げてきた恥ずかしさに、あぁとかうぅとか、そういう類のうめき声を上げて、卓上に突っ伏してしまいました。レヴィは私の奇行を予見していたのか、突っ伏す直前に器をひょいと持ち上げてどけてくれました。
「ああ、レヴィ、私、恐ろしいことを言ってしまいました。どうか忘れてください」
「その通りだよ。誰の前でも、二度と口に出さないでおきなさい」
それはもう、金輪際。私はクリミヤの神々と父母とレヴィとテア様に胸の内で固く誓いを立てて、ぶんぶんと首を縦に振りましたが、勢いよく首を振りすぎて、少々脳が揺れているような感覚がします。またもや失敗です。重々しく一度だけ頷くべきでした。
「そもそも賢者殿の伴侶だなんて、不幸と言う他ないからね」
「またそんなことを言って」
いつもの軽口を言うレヴィを、私もいつものようにたしなめます。
「確かに、我侭でひねくれていてすぐ人を試すようなことをしますが、テア様は尊敬すべき方ですよ」
レヴィは素晴らしい友人ですが、目の前で上司のことを悪く言われて黙っているのは秘書失格です。ここは、しっかりとテア様の良さを伝えなければと、いつもより口調にも熱が入ります。決して、セディーカのことをレヴィに聞いてしまった後ろ暗さとは関係ありません。関係ないのです。
「君はいい秘書だね。是非、いい秘書であり続けてほしいと思うよ」
「やめてください、未熟さを晒したばかりです」
「未熟でも、優秀でもいい。君がただの『秘書』でいてくれさえすれば」
「レヴィ…?」
なんだか、引っかかる言い方をするレヴィの真意を量ろうと、私は真っ直ぐ視線を合わせました。読心術は使えませんが、少しでも煙に巻かれないように、はぐらかされないように。
レヴィは私の視線から逃れることなく、私を見つめ返して言いました。
「賢者殿は悪い人間ではない。賢者であることを除けば、ただの悩める青年だ。でも、そんな前提は無意味なんだよ。だって、残念ながら彼はただの悩める青年ではないし、賢者の伴侶は、不幸になるべくしてなるもの。そして賢者もそうだ」
賢者も、賢者の伴侶も不幸になるべくしてなる、とはどういう意味でしょうか。
「どうしてですか。確かに自由に職を選べないだとか、お仕事がたくさんあるだとか、時に命を狙われることだってあるけれど、高位の方は皆多かれ少なかれそういうものでしょう。それでも、記憶という他の人にない素晴らしい才があって、人々を救うことだってできて、そんな人とその伴侶がどうして必ず不幸だなんて言えるんですか」
「君はあれを才と言うんだね。私は呪いだと思っている」
「呪いだなんて…誰が呪うと言うんですか」
「さてね。古い友人かな」
レヴィは肩をすくめてとぼけてみせました。
「賢者殿も多分、そう思っているよ。全てを記憶し、前世のことすら忘れない。つらい記憶も負の感情も、人は忘れることができるから生きていけるのに、賢者は全て覚えておかねばならない」
「…つらいことを忘れられない人はたくさんいます。それに、楽しい記憶も忘れないということでしょう?なら、楽しいことをつらいこと以上に重ねていけば…」
「ねえ、エアル。忘れられないって、思うよりずっとつらいことだよ。愛する人の死を、友の裏切りを、自らの罪を、つい先程のことのように覚えているのは」
幼子をたしなめるような声色に、はっとして体が強張りました。私はついさっき、思い出したくないことを思い出して、忘れたままでいたかったと考えたばかりです。他の人からしたら笑い話の記憶さえ、本人にとっては気持ちの重くなることだから無意識に封じ込めるものです。それが、テア様にはできない。
「忘れるという幸福を知らなければ、少なくともひどく不幸ではなかったかもしれない。でも、賢者もつい千年ほど前までは、忘れることを知る人間だったんだよ。彼に聞いてみたまえ、忘れるということがどんなに甘美な幸福であるか」
「そんなこと…そんなこと聞けるはずないじゃないですか」
己の失言に気づいた私はつい、レヴィにあたるように声を荒げてしまいました。これは、よくありません。わかっています。しかし、弁解の間もなく、レヴィはたたみかけるように言いました。
「そうだね。千の言葉にされようと、彼の苦しみは彼にしか分からない。君に共有できるものではないし、共有する必要も無い。賢者ひとりが背負うしかないことだ」
どうしてそんな、ひどい言い方を。反省もつかの間、非難の言葉をレヴィに向けてしまいそうになります。いつも、優しすぎるほど優しいレヴィに、こんなに突き放すような言い方をされて混乱しているのでしょうか。レヴィの表情も、よく見えません。
「私は、違います、そんなのは」
言葉の続きが出ずに、それでも何か言わなければと唇の内側を噛んだ、その時。
「……あぁ、いけない」
向かいに座っていたレヴィがそう呟くやいなや、早歩きで私の傍を横切り、扉を開けて勢いよく部屋を出て行ってしまいました。
本格的に不興を買ってしまったのでしょうか。優しいレヴィのことだから、私があまりに不甲斐なくて、強い言葉をぶつけてしまいそうだから出て行ったのかも。そんなことをぼんやりと考えた束の間、木造りの扉の上の方が、鈍い音を響かせ、扉全体が震えました。向こう側から、硬いものをぶつけたように。
一体何ごとかと目を白黒させていると、扉が開いて、部屋の主が戻ってきました。
「やあ、失礼したね」
額から、血を流しながら。
**************
「怖い思いをさせてすまなかった」
「いいです!いいですから、それより頭の怪我を治させてください!血が…」
くらくらしながらも、必死で言い募ります。怖い思いとは、こういう事態を言うのではないのでしょうか。本当に何がどうしてこうなるのか分かりません。扉に頭をぶつけるという原因と、頭から血が出るという結果はとても分かりやすいのですが、行動そのものが意味不明です!
「血の気が多いと損をするからね。少しくらい出しておいた方が丁度いい」
「いいわけがありません!ただでさえ白いのに、死人のような血色になってしまいますよ」
問題がそちらでないことは冷静になれば分かるのですが、私も多少、気が動転しているようです。とにかくレヴィを座らせ、左手に意識を集中して、額に治癒の術を施します。
「ごめんよ、エアル。君のことが心配で、つい、嫌な言い方をしてしまった。君を傷つけることで君の目を閉ざそうだなんて、愚かなことを考えた」
「…いえ、レヴィが私のために厳しく言ってくれたこと、分かっていますから」
強がり半分、本音半分です。レヴィに言われたことを全て、処理しきれたわけではありません。ただ、私を傷つけたことにひどく傷ついている様子の友人に、他になんと言えるでしょうか。レヴィが何を知っていて、何を考えているかは分かりませんが、あんな言い方をさせてしまった私にも原因があるはずなんです。
「ごめんなさい。私はいつも考えが足りなくて、レヴィのような思慮深い人を、もどかしい気持ちにさせてしまうかもしれません」
「足りなかったのは私の方だよ。どうか許しておくれ」
「許すだなんて。私がレヴィをどれだけ好きで、どれだけ感謝しているか、レヴィは知らないんでしょうね」
冗談めかして笑ってみせると、レヴィはほうっと息を吐いて、目を閉じました。
「…あたたかいね。今後はちょくちょく怪我をしてみようかな」
「いいですか、私にできるのは治りを早める程度ですし、失った血を戻すこともできないんですから、無茶はやめてください」
「…んん」
鼻から気が抜けたような返事を返されました。
「や・め・て・く・だ・さ・い!」
前髪をかき上げていた右手の爪を傷の無い箇所に軽く食い込ませると、レヴィは肩を揺らして笑いました。そしてもう一度、あたたかいねぇ、と呟きました。
**************
「…ということがありまして」
「貴様、そこに座れ」
翌日、懐の深いテア様に思い切って懺悔をしてみたところ、危惧したとおり、盛大に怒られてしまいました。勿論、忠告と命令を無視してのことですから、多少の処分は覚悟していました。ところが、口頭で長々と怒られ、「いいと言われるまで物理的にテア様を見下ろさない」という罰を下されるにとどまりました。
お陰で、しばらくの間テア様が座った時はしゃがんだ状態で移動しなければいけませんでしたが、罰が解かれたのは僅か一日後でした。
その翌日、学を深めるべく、私は祀書室へ行ってみましたが、セディーカに関連する資料は殆ど見当たりませんでした。であれば、知っている方に訊ねるしかありません。
「テア様、過去のセディーカってどんな人達だったんでしょう。祀書室には資料がありませんが」
「お前、まだ言っているのか。妙にこだわるな」
予想通り、うんざりした顔をされてしまいましたが、私は引き下がりません。
「伴侶とはいえ、秘書でもあったんでしょう。と言うことは、私の先輩です。秘書として知る義務があります!賢者の秘書が無学では困るでしょう」
テア様にはこう言っていますが、本当はレヴィの言った「セディーカは不幸になる」という言葉が気になっているんです。過去の賢者とセディーカ達に何があったのかを知りたい。彼らに起こった不幸は、テア様と、テア様が将来、大切に思う方にも降りかかるでしょう。その時私に何ができるか分かりませんが、秘書として知っておきたいと思ったんです。
しかし、テア様の返事はやはり、つれないものでした。
「歴史から学ぶのは大事だが、昔の細かなことにこだわる必要は無い。職名も、セディーカもそうだ」
「テア様は、職名がお嫌いなんですか?」
「少なくとも、セディクという職名に特別な思い入れは無いな」
「…やっぱり、エルという職名には特別な思い入れがあるんですね」
「なんだと?」
硬い声音で問い返されましたが、ここで怯むわけにはいきません。
「テア様のお名前って、元はテア・フェンラート様ですよね。エルは、旅士の職名でしょう?」
あの後、お詫びにとレヴィから聞いた話によれば、旅士もまた、古く、重要でありながら数の少ない特別な職業ですから、職名がそのまま使われているそうです。職名は形式によっては区切らず、そのまま家の名前につけて呼ぶものもありますから、オルシャさんに「エルドール」と名乗られた時、職名が入っているのだと気づきませんでしたが…。
ですから、オルシャさんがオルシアン・エル・ドールで、テア様がテア・セディク・エル・フェンラート。キーシュさんも一人前になったら、キーシュ・エル・デリスと名乗るようになるはずです。
テア様は昔、旅士になることが夢だったものの、賢者の力を見いだされ、泣く泣くその夢を諦めたことがあります。レヴィの話では、旅士の職名を残したまま賢者になることができたのは、神殿側のせめてもの温情であり、テア様を懐柔するためでもあったそうです。
この話を持ち出すのは卑怯と思いましたが、折角秘書が古きを学び新しきを知る意欲を見せたのに、「取るに足らない過去の遺物」で片付けようとするならばいたし方ありません。
「…………誰に聞いた」
案の定、痛いところをつかれたテア様は形のいい眉をひそめ、不穏な気配を漂わせています。
「さあ?」
「………奴め…」
すいっと目を逸らしましたが、一瞬で察しがついてしまったようです。
「エアル、時守と親しくするのは勝手だがな、あれに俺のことを聞くのをやめろ。聞いたとしても信じるな」
「それは、テア様が教えてくださらないから」
口を尖らせると、テア様は机に肘をつき、私に剣呑な眼差しを向けました。
「ほう、俺のせいか」
「私は秘書なのに、レヴィの方がテア様のことを知っているんですよ。そう仰るなら、もっと昔の賢者様のこと、ご自分のことを話してください」
「まさかあれに嫉妬しているのか?」
こちらが真剣に言っているのに、なんてことを仰るんですか!何もかも承知したように不敵な笑みを見せる上司に、私は憤慨して目の端を吊り上げました。
「あのですね、私は秘書として…」
「わかったわかった、秘書の沽券に関わると言うんだろう。だが、あれが俺の過去を知っているのはただ単に、神殿の古株だからであって立場とは関係がない」
「ですが、テア様」
「そこそこ仕事ができて、多少生意気であれば秘書としては十分だ。無理に知ろうとしなくていい」
「褒められているのか、けなされているのか分かりません」
「手放しで褒めてもらいたいなら、祀書長の秘書にでもなれ」
追わんぞ、などと言われて、手を振られてしまいました。ますます口を尖らせたくなりましたが、考えてみればそうですね。テア様は、どうしても賢者の歴代秘書やセディーカたちと比較してしまうでしょうから、そうそう手放しに褒めることもできないでしょう。今はそこそこ仕事ができると認めてもらえただけでも喜ぶべきです。
「いいえ、私は賢者様の秘書官ですから」
「勝手にしろ」
きっぱりと否定すると、テア様はふいと顔を背けてしまいました。机の上を指先でこすっているのは、どんな時の癖でしたっけ。
「……テア様。私、テア様から色んなお話を聞くのが大好きなんですよ」
「なんだ、それが理由か?」
「勿論、それだけじゃありませんよ。ただ、私はテア様に幸せをもらっているから、とても幸福ってことです。テア様は今、幸福ですか?」
「……生きていれば、不幸に思えることも、幸福に思えることもあるさ。完全なる不幸も、完全なる幸福も無い以上、どちらかと定義することに意味は…」
「わかりました」
「おい、話の途中だぞ」
二択を想定して訊ねたのに、質問自体を否定されそうになったので短く切らせていただきました。大丈夫、言いたいことはだいたい分かりました。そして、テア様のげんなりした顔を見るのが、なかなか癖になってきたかもしれません。
「つまりは、限りなく不幸に思うことを減らして、幸福に思うことを増やせば、殆ど幸福になれるってことでしょう?どんと任せてください」
レヴィと話した時は押し負けてしまいましたが、たとえ忘れられないという不幸があったとしても、覚えておけるという幸福も同時にある、それは確かなことだと思うのです。つらいことは楽しいことを増やして、自分の中に占める割合を減らすのが一番です。
「あのなあ、レヴィに何を吹き込まれたか知らないが、お前に心配されずとも俺は…」
「秘書として、テア様を不幸から遠ざけるのも使命と心得ました」
「頼んでいない」
「頼まれずとも動くのが優秀さだと以前言われましたが」
「…………」
意気揚々と答えると、テア様が黙って席を立ち、ゆらりと近づいてきました。
「…俺の不幸を、ひとつ教えてやろうか」
広げた両手を前に突き出され、圧力を感じて思わず後ずさります。
「な、なんでしょうか」
「人の話をろくに聞かない秘書がいることだ、阿呆者めが!」
思い切り乱暴に髪をかき回され、私は悲鳴を上げました。
「ひどいです!」
「うるさい、せいぜい俺の鬱憤を晴らさせて俺からもらった幸福とやらを返せ」
「賢者様ともあろうものが、秘書に手を出すなんて」
「野生児が、どこで覚えたそんな台詞」
頭の両端の髪の毛を頭上で結ぼうとするテア様から逃れ、私は脱兎の如く逃げ出し、神殿の廊下を走ったことで通りがかった秘書長に怒られてしまいました。
……前途多難ですが、私がいるからにはきっと、テア様を不幸にはさせませんから。
**************
後日私は再び、お菓子を持ってレヴィの部屋を訪れました。レヴィはまだ薄く痣の残る頭で歓迎してくれました。
「私、テア様を幸せにすることにしましたので」
席につき、至極真面目に宣言してみると、レヴィは体を折るようにして笑いました。
「秘書としてですよ」
念のためそう言い添えましたが、単に私の言い方が笑いのツボにはまってしまっただけのようです。しばらくの間、くすくすと肩を揺らしていましたが、お茶を一口飲んで息を吐きました。
「はぁ、面白かった。いいねぇ、妬けることだ。それ、賢者殿には言ったの?」
「鬱陶しがられてしまいました……」
「罪深いねぇ」
乙女からの告白を、と続けられたので、しっかりと否定しました…と言いますか、また笑いの発作が起きそうです。
「テア様と何もかも違って、無知な私がテア様を不幸から遠ざけるのは、なかなか大変なことだと想うんです」
「そうかもしれないね」
紙包みに入った焼き菓子をひとつ、指先で弄びながらレヴィが答えました。
「…だから、レヴィに頼みたいことが」
私は机越しに、向かいに座ったレヴィの頭を両手で挟んで、視線をぴったり合わせました。ああ、やはり美人です……ではなく。レヴィは少し驚いた顔をしながらも、不快感は見せずにしっかり視線で答えて、私の言葉を待ってくれています。お菓子も、指の間に挟まったままです。
「もしも私が道を誤ったら、また、遠慮せずに言ってほしいんです」
「また扉に頭をぶつけてしまうかも」
笑いを含む声で囁かれてしまったので、私も冗談めかして返します。
「その時は扉にではなく、私に頭突きをしてください。田舎にいた頃は石頭と呼ばれましたから、遠慮せず」
「聞くだけで恐ろしいね。扉より硬そうだ」
薄い痣の残る額めがけて、軽く頭突きをしてやりました。
或る賢者の日常 モギハラ @mogihara
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