絵空の壁 2

 窓の外に広がる曇天を見ながら、私はぽつりと言いました。

「あの魔術師さん、今、何してるんでしょうね。お金はどうしているんでしょう」

 この話題を出すとテア様が不機嫌になるのを知りつつも、言わずにいられませんでした。あれから数日が経ちましたが、あの壁の絵は黒い絵の具が横切ったままで、あの魔術師にも会えていません。

「…あれは、ハスヴァル・フランマーレ。クザンの貴族、フランマーレ公の息子だ…もっとも、師に魔術の才を見抜かれて魔術師になり、家を捨てたようだが」

「そういえば、カレなんたらとかいう人の名前を言ってましたね」

 どことなく感じた気品のようなものは、そういうことでしたか。フードのずれを直しながら呑気に返事をすると、テア様はそれを横目で見ながら溜息を吐きました。

「…そのカレジアス・ルエルタだが、調べてみたが、フォルデルカに渡った後、知人の安否を尋ねてクザンに戻り、件の魔術師狩りで行方不明になっている…ルエルタ殿ほどの魔術師が、そう簡単にやられるとは思っていないが」

「…それも、言っていましたね」

 彼があそこまで怒った理由。きっと、敬愛する師が法術士によって襲われた、ひょっとしたら殺されてしまったかもしれないという悲しみと不安によるものでしょう。そして、師をクザンに残してきてしまった自分への怒りもあった筈です。

「…まあ、あの身なりでは、金銭面は心配することは無い。問題は、法術士への恨みから、何かしないかだ」

「それはありません」

 きっぱりと首を振ると、テア様は眉をひそめました。

「……何故、そんなことが言える?」

「だってあの人、怒りにまかせて攻撃したのを後悔している様子でした」

 テア様はあの時、骸蛇に攻撃を受けながらも、守護魔法と封術しか使っていませんでした。それは、「神殿の法術士」として彼を攻撃すれば、フォルデルカの法術士すべてへの不信感、恨みを買う恐れがあったから…それに気づいたのでしょう。あの人は、すぐに骸蛇を退かせました。その後の表情には、戦意の無い相手を一方的に攻撃した後ろめたさが見えたんです。 「だから、多分大丈夫です…」

「…ならいいんだがな…ところでお前、大丈夫か。何だか様子がおかしいようだが」

 私の額に手を伸ばそうとしてやめた様子のテア様は、自分の手首を掴んで少し心配そうに尋ねました。私は可能な限り元気そうにに笑って答えます。

「ちょっと、風邪を引いてしまったみたいで…」

「無理はするなよ」

「はい‥あ、次はこちらの書類をお願いします」

「……ん、これは頼んでおいた資料が要るな。そろそろ届いているだろう…自分でとりに行くから、お前は少し休んでいろ」

 いつもはこんな雑務、私の仕事なのですが…テア様は私を気遣ってくれているのです。微熱くらいなら自分で行くのですが……今は……。

「…はい、お言葉に…甘えて」

 テア様が部屋を出ると同時に、私はよろよろと壁によりかかりました。日々強くなっていく苦痛をあまり顔に出さないのは至難の技でした。実は、先日傷ついた左肩のかすり傷、いつまでたっても塞がらず、むしろ広がっているような気がするんです。何度、治癒魔法で直そうとしても何故か魔力が集中できず、すぐに散ってしまう。物凄い大怪我というなら分かりますが、この程度のかすり傷でこんなことになるなんて思っても見ませんでした。とりあえず消毒し、包帯を巻いて経過を見ようとしたのですが、じくじくという痛みは止まらず、むしろ段々と増しています。どんどん広がる痛みの範囲に、今、包帯の下が一体どんな状態になっているのか、怖くて見ることができずに居ます。

「…やっぱり、何か、ついてたのかな…」

 骸蛇の尾の先に、遅効性の毒でもついていたのでしょう。治癒専門の神官にお願いしようかとも思いましたが、それではテア様の耳にも入ってしまいます。そうすれば、嘘をついたことがばれてしまいますし、多分テア様は御自身を許せなくなってしまう。テア様を守る事は私の仕事ですが、魔術・法術を含めた戦闘力なら、テア様の方が上です。テア様に勝てる秘書などそもそもいないのですが、テア様の手をわずらわせなくて済むようにかかる火の粉を掃うのが私の役目。だから私の力不足で私が怪我をし、仮に死んでしまったとしても、それはテア様が気に病むべきことではないのです。それでも、先日の魔術師に、骸蛇を暴れさせるような言葉をかけた自分が悪かったのだと気に病んでしまうでしょう。そうしたらもう、私に守らせてくれなくなるかもしれません。背を預けてくれなくなるどころか、もしかしたらテア様の担当から外されてしまうかも…そしてあの魔術師、ハスヴァルさんに怒りを向ければきっと彼も、ただでは済まないでしょう。そう思うとますます、この不穏な傷は内々のうちに処理しなければ。

「かといって…このまま放っておいたら」

 この痛みではこれ以上隠しておくことは不可能ですし、そのうち立ち上がることさえできなくなるでしょう。早めに解毒処理をしてもらわなければいけません。神殿の医官を頼らずとも、幸い、私には心強い味方がひとり居ます。テア様並みに色んなことに詳しい無二の友人が。


「…次の鐘が鳴ったら、レヴィのところに行かないと…」

「呼んだ?」

「きゃああっ!?」

 寄りかかっていた壁のすぐ隣にある窓から、よく知る人物が顔を出していました。こんなに乙女らしい悲鳴を上げたのは久しぶりです。人間、驚くと甲高い声が出るものですね。

「ななな、なんで、こんなところに!ここ、3階ですよ!」

「だって、愛すべき友が呼んでいるんだもの。来ないわけにはいかないよ」

 性別年齢不詳の美しい人。気後れしそうになりますが、いたって気さくで明るい、私の友人、レヴィ。紫紺の髪は複雑に纏められていて、湖のような瞳が悪戯っぽい光をたたえています。

「…レヴィ、もしかしてあなた、浮いてます?」

「浮いてます浮いてます。流石私の友だね。よく見破った!実は怪しげな魔術師から買った浮遊薬を試してみたんだよ」

 にっこりと笑いながら、レヴィは窓に手を掛けて身軽に部屋の中へ飛び込みました。浮遊薬とは珍しいですね。飲むと風の精霊に好かれる香りに包まれ、彼らが集まってくるので、魔法力が無くともその助けを借りてふわふわ浮くことができるのです。

「相変わらず、私の予想を超えるのが好きですね」

「うん。人をからかうことに次いで好きなことだ。ところでエアル、どういう用で私のところへ来てくれるつもりだったのかな?」

「えーと、あの…その件についてなんですが…」

 言おうとしたときにまた強い痛みの波が襲ってきて、私は思わず顔をしかめました。傷口が脈打つのが感じられ、全身から汗が吹き出ます。苦痛に耐え切れず肩を押さえると、すぐ異変に気付いたレヴィが、険しい表情をつくりました。

「…エアル!肩が痛いんだね?見せなさい…」

 すぐに私の手をどかし、襟元をずらして肩を見たレヴィの表情が、一気に恐ろしいものに変わるのを見て、私は身が総毛立つのを感じました。

「これは…エアル、この傷をどこで負った。誰がやった?私が八つ裂きにしに行ってあげよう」

 レヴィ、本当にやりそうで怖いです。

「待ってください、どうしたんですかいきなり」

「呑気で無害な君に、呪いなんてものをかけた非情な畜生は、すぐにでも地獄に落としてあげないといけない」

 呪い?

「ちょっと待って、レヴィ。毒では?呪いってなんですか」

 なんだかとっても不穏な響きの言葉に、私は思わず身を乗り出しました。

「じわじわと弱らせる、タチの悪い呪いだよ。呪いに込められた意志がごく弱かったから気付かなかったんだね。かけたのは相当の術士だろう…このままにしておいては危険だよ。すぐにでも呪いを掛けた主を潰しに行かなければ」

「……どうしよう、あの人、もしかしたらもうこの街に居ないかもしれません」

 あんなことがあった後です。大きな神殿があるここから離れていてもおかしくない、ということに気付いて私は青ざめました。

「捕まえるよ、エアル。大丈夫、呪いの糸を辿れば必ず主にたどり着く」

 レヴィが私の手を掴んで窓に足をかけたとき。

「呪い…今、呪いと言ったか?」

 入口で資料をぼとりと手から落としたのは、一番このことを隠しておきたかったその人です。

 ああもう、どうしてこういう間合いで現れるんですか、テア様!

「やはりお前、昨日何か傷を受けていたんだな?何故言わなかった。どこだ、見せてみろ!!」

「賢者殿、落ち着きなさい。エアルは君が自分を責めるだろうと気を使っていたのだよ。そんなことも分からないのか愚図」

「……!!」

 賢者様に愚図と言う言葉をかけるのはきっとこの大陸でもレヴィだけでしょう。その遠慮の無い言葉に、テア様は自分を恥じるように顔色を変えると、口を噤みました。ああ、失敗してしまった。隠すなら最後まで隠し通さなければ意味が無いんです。でなければ、余計に辛い思いをさせてしまうというのに。

「行くぞ。もとは俺の失態だ、俺が片付ける。フランマーレを倒してでも呪いを解かせてやる」

「私もついて行かせてもらうよ。友が心配だからね」

「お前は時守の責務があるだろう」

「今日は出かけるような気がしていたから、私がいなくても鐘が鳴るようにしておいたんだよ、賢者殿」

「…ありがとう…ございま…」

 す、が出る前にまた痛みの波が襲ってきて、テア様とレヴィは顔を見合わせると両側から私を支え、迷わず窓から飛び降りました。テア様は風を発生させて落下を遅め、レヴィは浮遊薬の効果でふわりと地面に降り立ちました。

「すまない、俺の責任だ」

 いえ、そんなことはありません、と言いたいんですが…今はちょっと無理みたいです。全身がだるくて口を動かすのも辛い。じわじわ弱らせる呪いがてきめんに効いてしまっています。

「そうだね、君のせいだ」

 レヴィはこういうとき、テア様に厳しいです。普段はテア様で遊ぶのがレヴィの楽しみなので、テア様はレヴィが苦手なようです。

「護衛であるエアルが賢者を守るのも、その結果傷つくのも予想できることだ。その当然の傷を、君が大袈裟に思い悩むせいで逆に言えなくなっているんだよ」

「……すまない、と言ってはいけないのか。たとえ誰であっても、俺のせいで傷を負うのは我慢できない」

 そういう、優しいテア様だから…傷ついてでも守るに値する人だと思うから。私はいつでも迷わずあなたの盾になれるのだと言ったら、きっとそんなことはするな、と言われてしまいますね。

 レヴィは葛藤を目に浮かべるテア様を見て、やれやれとばかりに口の端を引き上げました。

「仕方ない賢者殿だね。さあ、さっさと腐れ魔術師を葬りに行くよ」

 誰も葬ってなんて言ってません。

「あの人、傷つけないで下さいね…」

 言っても、レヴィは聞こえないふりをしました……逆に自分より魔術師さんが心配になってきたんですが。口元を引きつらせたとき、なんだか呼吸が楽になってきていることに気づいてふと顔をあげると、私の肩にあてられたテア様の手が、淡い光を発していました。癒しの術は、ただでさえ疲れるのに、それをずっと掛け続けてくれていた…。

「…嘘…ついて、ごめんなさ」

「言うな。言わなくていい…よく、守ってくれた」

「私も、テア様に、傷ついてほしくありませんから…一緒ですね」

 だから、そんな苦しげに笑わないでください。

 笑顔を向けると余計に辛そうな顔をされそうで、どんな表情をしていいのかわかりません。軽く俯いたとき、門の方角からの、口論のようなやりとりが耳に入りました。

「―いいから通せと言っているだろう!!」

「怪しい者は通さん!まずはそれを取って見せろ。お前、異国の者か!?」

 昨日、聞いた声。フードを目深に被った黒衣の人物は、昼日中の神殿の門の前に居るにはあまりにもそぐわない。私は勿論、テア様たちも、その人物との思いも寄らない邂逅に驚いて、立ち尽くしていました。だって、神殿が嫌いだとあんなに言っていたのに、何故こんなところに。

「私が妙なことをしたら捕らえるなりなんなりすればいい!魔術師は神殿に入るなと、そういうことか!!」

 あまりにも頑なな門番の態度に、痺れを切らしたように吐き捨てました。

「…魔術師?お前、魔術師なのか、神殿に入って、何のつもりだ!!」

 その言葉に門番の態度は一変。声色に恐怖の念が混じっています。神殿に異国人、しかも魔術師が入ろうとするなんて状況は、彼の頭に不吉な想像しかもたらさないでしょう。

「…何かするつもりだったらどうする」

 剣呑な声色の裏には、やはりここでも同じか、というような、一種の諦め…悲しみが見えました。しかし、その声色をその通りにしか受け取れなかった門番は、槍を構えて数歩後ずさり、恐怖の表情で叫ぼうとしました。

「……だっ…誰か…!!」

「待て」

 でも、すぐにテア様が一喝。門番も、そして黒衣の人物も、その場に硬直しました。固まっている二人の前に、私達は歩み出ました。

「悪意があるならばこの門に着く前の敷居の結界に引っかかる筈だ。その者に悪意は無い」

「…け、賢者様…」

 門番は突然のテア様の登場に驚きながら、黒衣の人物と、テア様と、レヴィ、そして二人に支えられて立つ私にせわしなく視線をうつしました。一見、異様な組み合わせです。 「その魔術師が用があるのは私だ。外で話すからお前はこのまま警備を続けてほしい」

「…は…い」

 テア様の再度の声掛けに、まだ少し納得がいかないような顔をしながらも、大人しく定位置に戻りましたが、まだ興味ありげにこちらを伺っています。

「…ここを離れるか」

「エアル、行くよ」

 二人に支えられながら歩いて、門から大分遠ざかり、町の郊外に出ました。歩く間も、私はほぼ二人に抱えられるような形だったのでなんだか恥ずかしい気がしました。

「…で、一体どうする気だ?ハスヴァル・フランマーレ」

「…わざとでは、無かった。去った後で、骸蛇の尾から呪いの糸が伸びていることに、気付いた…それで、辿って来たが…」

 ああ、やっぱり。だって、なんだか呪われてるって実感、なかったですし。神殿が嫌いだと言っていたのに、安全だなんて保障は無いのに、わざわざここまで来たんです。それなのにどうして、この傷に悪意があったなんて思えますか。無理な話でしょう。やっぱり、私の直感に間違いはなかった。自然と口元が綻びます。

「…呪いの糸が繋がっている。お前が、呪いを受けたのか」

 影がさしたので顔を上げると、宙をのびる私には見えない糸を、フードの下の蒼い目が辿りました。

「蛇の尾が掠ってしまって…」

「どうしてくれるのかな?人畜無害で呑気極まりない私の友にこんな仕打ちをして」

 ああ、レヴィが後ろで怒っている気配がします。多分、素晴らしい笑顔を浮かべているのでしょう。勿論、声音は笑っているとは言えませんが。一瞬の沈黙の後、ハスヴァルは静かにフードを取って、こちらを真っ直ぐ見つめ、頭を垂れました。

「…呪いを、解かせてくれ」

 ごくごく静かな声音でしたが、碧空を思わせる澄んだ空色の瞳は深い後悔の色に染まっていて、そこに映った私の姿は、自分でも驚くほど弱弱しく見えました。何か返事をしようと思っても、ありがとうと言うのも違う気がするし、何を言えばいいのか。

「…是非、早めにお願いします」

 私を支えながら傍に立つテア様の顔を見上げると、とても疲れた様子でした。流石に、あまり得意でない癒しの術を延々と掛け続ければ、辛いのは当たり前です。

「妙な真似をしたら、今度こそ地中に沈めてそのまま墓にする」

「素敵な墓標を作ってあげるよ」

 だから、怖いですって。目が本気なんですが、どちらかというと今はこちらの方が危険に見えるのは私の気のせいでしょうか。

「大丈夫ですよ、二人とも。ですよね?えーと…ハスヴァルさん」

「師の名に懸けて誓う」

 真剣な眼差しのハスヴァルさんを見て、一応は納得したのか、テア様とレヴィは目配せすると私を石段に座らせ、1歩退いたところに立ちました。でも二人とも、まだ完全には信用していないようで、ハスヴァルさんの動きをじっと見守っています。癒しの術の供給が止まったので、じわじわと痛みがぶり返してきて、私は顔を顰めました。心臓の鼓動にあわせて脈打ち、侵食されるような痛みは、慣れるようなものではありません。その様子を見たハスヴァルさんはすぐに駆け寄って私の前に膝を着き、肩の傷に手を添えました。少し独自の魔術言語らしきものを呟き、締めの詠唱を口にします。

「骸蛇の幻毒よ、宿主から去れ」

 詠唱は結構あっさりしているんですね、なんて感心している間に、傷から何か…うぅ、あまり気持ちよい光景ではありませんが、黒いものが球のように浮き上がって、体から離れていくのが見えます。魔術師がさっと手を振ると、一瞬のうちに灰のようになって消え、全ての感覚がゆっくりと戻ってきました。解呪を間近で見たのは初めてですが、結構呆気ないものですね。

「…体が軽くなりました」

 後ろに向けて小さく笑みをつくってみせると、レヴィはにっこりと笑顔。テア様はほっとしたように溜息をつきました。魔術師の方に視線を戻すと、苦しげに表情を歪めて言いました。

「…済まない。私は、治癒術は使えない」

 ああ、そういえば傷は消えなかったみたいですけど、これくらいの傷、さっきと比べたら全然痛くありません。大丈夫ですよ、と言おうとした矢先、テア様が再びこちらに来ました。

「どけ」

 既にテア様、賢者としての体裁を守る気は無いようですね。このまま険悪にならなければいいんですが…なんて心配をしているうちに、詠唱を終えたテア様が両手に淡い光を纏わせて私の両傷にかざすと、見る見るうちに傷は塞がりました。スヴァさんを勢いよくどかさなくても、普通の治癒なら自分でもできるのですが…塞がった傷を見てホッとした様子のテア様を見たら、お任せして良かったと感じました。

「ありがとうございます。これで、完全復活ですよ」

 二人に笑顔を向けますが、ハスヴァルさんは俯いてしまいました。

「神官も法術士も嫌いだが、この国の者に恨みは無かった筈だった…怒りと嘆きが、私を狂わせた。許せとは言わないが、悪いことをした」

 しかし侘びの仕方がわからないんだ、と言われ、謝罪の意がひしひしと伝わってくるのを感じました。テア様やレヴィも多少驚いているようですが、じっと黙って私の言葉を待っています。

「…絵を」

 口をついて出た言葉に、訝しげな顔をされましたが構わず続けます。

「絵を、塗りつぶしたのは、何故ですか?綺麗な絵だったのに」

 全く思っても見なかったことを言われたようで、多少面食らった様子でこちらをじっと見つめる蒼い瞳には、困惑がはっきりと伺えます。ハスヴァルさんは口を開きかけて俯くと言う動作を繰り返した後、ゆっくりとした調子で話しはじめました。

「青い空が描きたくなって、丁度いい壁があったから描いた。だがその後ですぐに…見せる者すら、今の私には居ないと」

 ああ、きっと、大切な人達を国に残して来たんでしょう。暗い光の灯った蒼い瞳からは、悲しみ、怒り、そして色濃い絶望がうかがえます。絵を描くことの理由には、きっと、それを見てくれる誰かの存在もある筈です。家を捨てたというハスヴァルさんにとっては恐らく唯一の家族同然の存在であっただろう師を奪われ、その絶望はどれほどのものだったのかなんて、私には推し量れるものではありません。

「だから、潰した。青い空など最早、この身には似合わない」

 あの絵に描かれた青空は、見るものの心を澄ませます。でも、どうしようもなく不安の中にいる人には、逆に恨めしく見えてしまうものだったのかもしれません。

「小さな路地や、人の通らない行き止まりに綺麗な絵を描いていたのは、あなたですよね…私、あの絵がとても好きで、描いている人に会いたいと思ってた。でも、次の日やその次の日、再び見に来ると、必ず塗り潰されていて、とてもがっかりするんです。次こそは絶対に、犯人を捕まえてやると思っていました」

 まさか同時に見つかるとは思っていませんでしたけど、と笑うと、黒髪の青年は不思議な表情をしました。

「…誰も、目にも留めていないものと、思っていた」

「そんなことはありませんよ。私以外にも、目ざとく絵を見つけて立ち止まり、溜息をついた人はたくさん居た筈です」

 同時に、塗りつぶされた絵を見て嘆いた人も居たでしょう。

「あの絵は、踏みにじられたあなたの空。でも貴方の上の空もやっぱり青いし、それは誰の上でも同じです。だから、あの絵を直して、きちんと完成させてください。そうしたら許します」

「そんなことで、いいのか」

「もともと最初は、私の方がろくに確認せずに貴方を魔法で攻撃したんです。お互い様ですし」

 私の様子があまりにもけろりとしているせいか、ハスヴァルさんもいくらか毒気を抜かれた様子で頷きました。

「分かった。明日までに、必ず直す」

「はい。楽しみにしています」

 少し納得がいかない顔をしているのはテア様。

「エアル、本当にそれでいいのか」

「くどいよ賢者殿。エアルがそれで許すと言っているんだ。だから私も許すよ。流石、私の友は寛大だね」

「わっ、レヴィ!」

 上機嫌のレヴィに飛びつかれ、軽くよろけます。病み上がりなんですから、手加減してください。

「…おや?魔術師殿、よく見れば、なんだか先日見た顔だね」

「何?」

 私の肩越しにハスヴァルさんの顔をまじまじと見つめたレヴィが、面白そうな声を上げました。

「レヴィ、どこで会ったんですか」

「さあ、どこだったかな。裏路地の方でひっそりと魔法薬を売っていたような」

 裏路地っていうと、少し日当たりの悪い…つまり、色店や居酒屋が立ち並ぶ、少し治安の悪い地域のことでしょうか。ハスヴァルさんはともかく、レヴィ、そんなところに出入りしてるんですか。そして、ハスヴァルさんは意外にこつこつと商売をしていたんですね。もとは貴族のご子息ですし、多分最初は色々苦労したんだろうな、と思いを馳せつつ見つめると、彼の方も思い出したようで、ぽんと手を打ちました。

「ああ、浮遊薬やら変身薬やら惚れ薬やら透明薬やら怪しげな薬を大量に買っていった、あの客か」

 数秒間、空気が凍りつきました。

 …浮遊薬……変身薬、そして……惚れ薬、透明薬……!?

「…レヴィナス・エフィンズ……貴様、そんな薬を買って何をするつもりだ…?」

「……くすっ」

 多分、最近で最大級の悪寒がテア様の背筋を駆け抜けたことでしょう。瞳の中に恐怖がありありと浮かんでいます。レヴィはテア様をからかうためなら労力を惜しみません。テア様はレヴィに掴みかかりましたが、レヴィは怪しい笑い声をあげながらひょいひょいと避けました。

「貴様、今すぐその薬を全て出せ、そんな危険物お前に持たせておけるか!!」

「おっと。口が軽いね魔術師殿。客の秘密は守らなきゃあ駄目じゃないか」

「…一体何なんだ」

 呆気にとられた様子のハスヴァルさんに、私は苦笑いを浮かべながら言いました。

「すみません、ハスヴァルさん。今度からあの人には怪しい薬売らないでくれますか。色々危ないので」



  **************



「…これは…何と言うか…見事だな」

「でしょう?」

 限りなく澄み渡った空の絵の前で、私達は感嘆の息を漏らしていました。 翌日、その壁のところに行くと、以前見たような、むしろ、前よりももっと美しい青空が描かれていました。その横には、高価そうなローブをペンキだらけにして、壁によりかかって眠っているハスヴァルさんの姿が。

「…寝ちゃってますね」

「蹴り起こすか?」

「冗談言わないで下さい。疲れたんですよ」

 こそこそ話している声が聞こえたのか、長いまつげの下から絵と同じ…いえ、もっと深く澄んだ色合いの、碧と呼ぶに相応しい瞳があらわれました。

「…お前達か…どうだ、約束は果たしたぞ」

 ふて腐れたような響きの中、少し誇らしげで、また尊大さとひねくれ加減が戻ってきたみたいです。

「偉そうに言うな…」

 むっとしたようにぼそりと呟いたテア様の言葉を遮るようにして、私は声を上げました。

「凄い…素敵です。とても綺麗、本当に綺麗です!!」

「そうか…それは良かったな」

 あ、発言が可愛くないです。あくまで他人事のように言わないで下さい。

「もう消さないで下さいね、ハスヴァルさん」

 そう呼びかけると、彼は黒いローブの端を手ではらって立ち上がりました。う…ハスヴァルさんって、近くに立つと、少し見上げるぐらいの身長がありますね。いつも同じぐらいの背のテア様といるので、少し圧迫感があるかも。 「…スヴァでいい」

「スヴァ?」

「そう呼ばれていた」

 ハスヴァルさん…スヴァさんは、誰にとは言いませんでした。でも、言われずとも分かります。

「…そうですか、じゃあ、そう呼びます」

 敢えて何も触れず、いたって普通の表情で頷くと、スヴァさんは少し瞳を左右に動かし、あらぬ方向を見ながら言いました。

「…お前は」

「はい?」

「名前」

 なまえ。もしかして、私の名前を聞いているのでしょうか? 「…ああ!えっと、私はエアル・レアルと申します。賢者の秘書をやっています」

「エアル」

 スヴァさんはそっと確認するように呟きます。誰かと出会って、名前を覚えてもらうのは、いつも嬉しい気分がします。 「魔法薬には私もお世話になるかもしれないので、そのときはよろしくお願いしますね、スヴァさん」

「ああ、よろしく」

 少し打ち解けられたかな?と内心ホッとしていると、こほん、と少しわざとらしい咳をしたテア様が、懐から書簡を取り出しました。そう、今日私たちが彼に会いに来たのは絵を見るためだけではないのです。

「ハスヴァル・フランマーレ。貴公にいい報せがあるようだ」

「…何だ?」

 スヴァさんはゆるゆると顔を上げ、胡乱な表情で聞き返しました。やはりこの二人の間にはまだぴりりとした空気が漂っています。 「フォルデルカ王府は、クザンからの亡命者を受け入れる方針だ」

 クザンを刺激しないようにと沈黙を貫いてきた王府が、ついに沈黙を破ったのです。実はテア様も、以前から賢者としてクザンの「魔術師狩り」から逃げ延びた魔術師やその家族、そして便乗するように同じく追われる身となったウェルトネイア派の法術士たちの保護を訴える意見書を、仕事の合間に何度も書いては送っていました。それを言えばいいのにと思うのですが、テア様の性格上、それをわざわざスヴァさんに告げることはないでしょう。私の口からも絶対に言うなと釘を刺されてしまいました。

その意見書が役に立ったのかわかりませんが、元々関係のよくない国の亡命者を保護したとなればきっと争いが起こるのではと言ったのですが、フォルデルカはクザンの3倍の領土を持つ大国で、そもそもクザンは崩御寸前と目されている凶王の後継争いで荒れており、情勢も安定していません。当分は大きな争いになることも無いだろうというのがテア様の所見のようです。  これは今朝飛び込んできた報せで、まだ民衆向けには知らされていない情報です。

 だからスヴァさんも今初めて知ったに違いありません。テア様の言葉を聞き、わずかに目を見開きました。光が差すとますます美しい、青色の目にしばし目を奪われます。しかしその光は再び陰りを見せてしまいました。 「…だから何だと言うんだ…今更」

 今更対応しても、師はどうなっているかわからない。そう言いたいのでしょうか。

 スヴァさんは、虚空に視線をやって投げ遣りな口調ではねつけましたが、テア様は重ねて言いました。

「先日、クザンとの国境付近でクザン人数十人が保護され、ヴィータ騎士団の護衛のもとで、無事に王都へ送り届けられた。その中には、魔術師カレジアス…貴公の師もいるようだ」

 彼が握り締めていた筆が、いくつかの雫とともに地面に落ち、青空と同じ色の絵の具がじわりと広がりました。



 昨日は曇天だった空、今日は穏やかな青色をしています。


 今は雨模様かもしれないけれど、彼の空も、綺麗に晴れ渡る時が来るのでしょう。

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