絵空の壁 1

「…何があったんだ、お前」

 お使いから帰ってきた私に、不意にテア様が尋ねました。

「はい?何がですか」

「歌など歌って、えらく上機嫌だな」

「私、歌ってました?」

 胸に手をあてて首を傾げると、肯定の頷きが返ってきました。

「ああ。子供の歌のような…やさしい神がなんだとか」

「…ああ、それは昔どこかで聞いたわらべ歌ですよ」

 誰が教えてくれたんだったか、よく覚えていませんが。すると、テア様はふいに、何か物思いに沈んでしまいました。こういうとき、邪魔をしてはいけないと思ったので触れないようにして仕事をしていると、後ろからぽつりと呟く声がしました。

「………懐かしいな」

「テア様?」

「いや、何でもない」

「……そうですか」

 私は早々に諦めました。テア様は一度こうなったら何度聞いても教えてくれません。妙な空気になった時はあまり追求しない方がよいので、話題を変えましょう。

「あ、そういえば、テア様、聞いてくださいよ!私が上機嫌な理由」

「手短にな」

「さっき買い物に街に出たとき、少し迷って袋小路に入ってしまったんですよ。でも、路地にしては明るいところだったのでちょっと探検してみたくなって、奥まで行ってみたんです」

「お前は仕事中に何をやっているんだ…」

「それで、角を曲がったら、空があったんです」

「…そりゃあ、あるだろう、空は」

 呆れたように言われたので、私はぶんぶんと首を振って否定しました。

「そうじゃなくて、行き止まりの白い壁に、綺麗な青空の絵が描かれてたんですよ。描きかけでしたけど」

「成程…洒落たことをする者も居るものだな」

「本当に綺麗で、それでつい気分もうきうきしてしまって。それにしても、あんな誰も見ないようなところに誰が絵を描いたんでしょうね?」

「さあな。誰にも見られないから、という理由も考えられるが」

「見られたくなかったら描かないでしょう?…あ、分かりました」

「?」

「本当は見て欲しいんだけど、人通りの多いところに描くのは恥ずかしかったから、こっそり誰か1人でも見てくれればいいところに描いた、とか!」

「どうだろうな…」

 テア様が溜息を吐いたとき、扉がこんこんと叩かれ、他の神官の方が入ってきました。

「賢者様、国報が届きました」

「…ああ、ありがとう」

 テア様は気だるそうに答えて、束になった書簡を受け取りました。テア様のもとには毎日、周辺の国や大陸で起こった主な出来事を知らせる書物、国報が山と届きます。今知られている限りでは、この世界には7つの大陸があります。私のいるトーシス神殿は、ロジュ大陸、通称“黒土と森の大陸”の中で最も大きい国、フォルデルカ王国の中心部にあります。多分、最も世界のヒト・モノ・文化が集まってくる場所でしょう。大陸ただ一人の存在である「賢者」のテア様には、あらゆる歴史を記憶するという責務があるので、毎日これらの国報を見なければいけません。その中の一番上にあるものを広げたテア様の顔が一気に曇りました。

「……クザンの、頭に腐れ魔物が住み着いていそうな馬鹿王がまたふざけた法をばら撒いたらしいな」

 テア様、いつになく毒のあるお言葉。一番上にあるということは、つい先ほど届いたばかりの書簡…それを見て、眉をひそめています。クザンは隣国であり、唯一神ゼンリをもつ、クリミヤ聖教を国教としています。フォルデルカで信仰されているのはクリミヤ教ウェルトネイア派。もとは同じ宗教から、国柄や思想の違いによって分岐し、今の形になったのだとテア様は言っていました。同じクリミヤ教とは言っても、ウェルトネイア派はゼンリ神を初めとした多神教なので、単にウェルトネイア教とも呼ばれます。フォルデルカでは、国政に宗教が関わる割合はそれほど多くありません。一方、クザンでは宗教を前面に押し出した統治を行っているのですが、宗教が違えば信仰の形もこちらとは毛色が違うようです。法術士たちが優遇されのさばる反面、魔術師たちはかなり悲惨な扱いを受けていて、殆どが隠れ住んでいるような状況だとか。

「仮にも隣国の王であるクザン王に対して、腐れ頭を魔物が喰っている馬鹿王だなんて、流石テア様。度胸がありますね」

 しみじみと言うと、堅い声で正されます。

「度胸があるのはお前の方だろう。俺はそんな風には言っていない」

「ところで、クザンで何かあったんですか?」

「また、だ。とうとう“魔術師狩り”を始めたらしい」

「……魔術師、狩り?」

 なんとも不穏な響きの言葉に、私の表情も曇ります。魔物狩りなら騎士の仕事ですが、魔術師って、人間じゃないですか。

「数年前に王が代わってから、魔術師への風当たりはますます強くなっていた。数ヶ月前から暴走したクリミヤ教徒達が法術士と結託して魔術師を襲っているそうだが、今回王がばらまいたのは、それらの狂った行為を遠回しに助長するような触れだ。元々魔術師には、国に従うことを嫌がる性格の者が多いからな…見せしめだろう」

「そんな…」

「ただし、クザンから無事に出られれば…ベレティラやクストは亡命を認めているし、フォルデルカもクザンとは不可侵の条約がある。一歩この国に入れば向こうよりはずっと安全だ。何年か前からちらほらと逃げてきた魔術師が居るようだしな」

 そうだったんですか…フォルデルカに魔術師は珍しくないので、あまり気づきませんでした。

「その人たちはどうやって暮らしているんでしょう」

 仕事とか、見つけられているんでしょうか。この国の人達にいじめられたりはしていませんよね。大陸の真ん中だけあって、異国人の流入は元々多い国ですし……と、思うのですがテア様の表情は曇ったままです。

「魔術師なら働き口はあるだろうが、クザンから逃げてきた魔術師となると……まず正規の入国では無いから、まともな雇い口もないかもしれないな。無謀な行動をとらなければいいのだが」

 これは私にも分かりました。不正入国でフォルデルカに入った頼る先の無い魔術師たちが、食うに困って魔法を悪用しないかと危惧しているんですね。

「大丈夫ですよ…ここまで逃げてこられた人たちなら、何か見つけられます」

 根拠の無いことを言ってみましたが、テア様は憂いの表情を崩しません。私の表情も知らず知らずのうちにこわばります。暗い顔をしているとどんどん気分が暗くなりますし、重々しい空気の中仕事をしていると息が詰まりそうで、テア様の方もそれは同じだったようです。

「…エアル、そろそろ休憩だ」

 そうですねと言いたいのですが、残念ながらそうはいかないのです。

「まだです。鐘が鳴っていませんから」

 神殿では、時守官と呼ばれる特別な神官が時間を管理しています…詳しい方法は知りませんが。ちなみに今の時守官はレヴィという年齢性別不詳の人で、うさんくさいと言う方もいますが、私の無二の友人で、しょっちゅう話もします。広い神殿ですので、時間の節目になるとよく響く鐘の音で皆に時間を知らせるのです。

「もう鳴るだろう…早く休みたい」

 ぶつぶつと文句を言っているテア様の声を後ろに聞きながら、私は窓際に立ちました。

「まだです…いえ、あと何秒か」

「当てずっぽうでものを言うな」

 信じていない様子の声が背中にかかりますが、私はもう秒読みを始めていました。

「…5、4、3…………はいっ!」

 声を上げた次の瞬間、高らかに、謳うように鳴り響く鐘の音。私はこの音が好きだったりします。こんなに澄んだ音色を出せるのは、きっとレヴィだけでしょう。一度、鳴らさせてもらったことがあるんですが私ではあまり綺麗には響きませんでした。ところで、ほらほら、見てくださいテア様のこのまん丸い目!私は少し自慢げに、呆気にとられているテア様を見つめます。

「な…お前、体内に鶏でも飼っているのか」

「そんなわけありませんよ、鶏は朝鳴くだけです」

「………ああ、お前自体が鶏だったか」

 とても失礼な納得をされました。

「違いますよ。ほら、あれ、見てください」

 私はそう言って、窓の外を指し示しましたが、テア様は眉をひそめました。

「…鐘楼台は見えないが」

 鐘楼台自体は、ここからでは別の建物に遮られて見えません。ですが、遠くの方には鐘楼塔へ向かう廊下の中が見える窓があります。時守官は、時間になるとあそこへ行って鐘を鳴らすんです。

「あの窓ですよ。いつも、あそこをレヴィが通ったちょうど10秒後に鐘が鳴るんです」

 レヴィいわく、時守官は仕事上、結構暇が多いそうで、休憩時間には中庭などでくつろいでいます。そして鳴らす時間が近づくと鐘楼台へ向かうのですが、レヴィの計る時はかなり正確らしく、いつもギリギリに行っています。

「……あの窓をいつも見張っているのか、お前は」

「いえ。レヴィに教えてもらったので、一度テア様を驚かせてみたかったんです」

「奴め、余計なことを…もういい、休憩だ、休憩」

「はい。じゃあ、私は街に出て軽く済ませてきます。私が居ない間に猫を連れ込んではだめですよ」

 前科がいくつもいくつもいくつも…ありますからね。一応言っておかないと。言ってもだめですが、一応。

「……外か……俺も今日は外で食べる」

「あ、そうなんですか?じゃあ一緒に行きましょう。いつも買っているところがありますから」

 おや、テア様がお昼を外へ食べに行くなんて珍しいですね。

「それと…」

「はい?」

「……なんだ、その……お前の言った、空の絵」

 ああ、成程。見に行きたくなったんですね。綺麗な絵が好きという点では私もテア様も同じですから。私もつい最近気付いたのですが、特に青い空がお好きなようで、いつもいつも暇さえあれば空ばかり見ています。

「あの絵、描きかけでしたから、ひょっとして描いている人に会えるかもしれませんね」

 暗い気分も一掃できるでしょうし、私はテア様の腕を引いて、上機嫌で神殿の外へ出ます。昼の休憩時間は長くとってあるので、多分間に合うでしょう。


  **************


「ほら、テア様、こっちです。この奥です」

「分かったから、ちょっと待て。もっとゆっくり…」

 テア様の腕をぐいぐい引っ張って、あの絵があった道へ入っていきますが、神殿からここまで走らせてしまったので、流石にお疲れのようです。私は全然大丈夫なんですが。

「仕方ありませんね、テア様は文官ですし」

「……お前な…」

 恨めしそうな視線を注がれたので、ゆっくり歩くことにしました。時間はまだ大丈夫な筈ですし。民家の間の狭い道に入り、見覚えのある石畳を抜けて、見覚えのある曲がり角へ。ついたところで、テア様ここです、と口を開こうとしました…が、すぐにやめました。代わりにテア様を振り向いて、そっと自分の唇を塞ぐ仕草で沈黙を頼みました。

 テア様がどうした、と目で訴えて来たので目線で角の向こうを示すと、そっとそちらに身を乗り出します。

「……あれは…」

 囁くような驚き声を上げたテア様に、私は笑顔を向けました。角の向こう、空の絵の前に絵の道具を持った人が立っていたんです。

「きっとあの絵を描いた人ですね。私達、運がいいみたいです」

 気付かれると、恥ずかしがりかもしれないその人を驚かせてしまうかもしれませんから、こそこそと声を抑えて話さなければいけません。テア様も心持ち身を乗り出してその人の挙動を見守ります。絵の道具を下に置き、大きな筆を持ったその方は、後ろを向いている上に長い黒の外套についた頭巾を目深に被っているようで、顔は全く見えません。背格好から言って男性でしょうか。筆にべったりとついている色は……ん?

「…テア様、青い空に黒の絵の具で何を描くんでしょう…?」

「…知らぬが…鴉でも描くんじゃないか」

 二人で首をかしげていると、黒衣の人物は筆を持った手を高く上げ、そして。

「なっ…!!」

 べちゃ、という美しく無い音と共に、青い空が闇に染まりました。透き通るような蒼も、綿のような雲も、美しい鳥も。全てを汚すように、黒い線が横切る様は、私に身が総毛立つような悲しみと怒りをもたらしました。

「……許せません!」

 怒りの言葉をもらした瞬間、黒衣の人物がこちらに気付いて振り向きましたが、私の方が先でした。

「とべとべつばめ、筆を射て!」

 簡略化された詠唱式を唱えた私の手から放たれた雷の燕は、光の矢のように飛んで黒い筆を弾き飛ばしました。

「……何を!!」

 思わぬ攻撃を受けたその人は驚いたようで、壁に描いてあった青空のような色の瞳が揺れているのが見えました。先ほどの弾き飛ばしの反動で頭巾がはずれ、露わになったその顔は、青みがかった黒い髪に、透き通った蒼い瞳の成人男性……繊細そうな顔は、とてもこんな酷いことをするような人間には見えません。いえ、でも実際現場をこの目で見ているんです。きっ、と怒り顔をつくった黒衣の人物。その口が凄い速さで動くのを見て、何かの詠唱をはじめたことに気付きました。テア様がすぐしゃがみ込み、地面に手を当てると、黒衣の者の四方に石壁が立ち上がり、黒衣の人物の周りを塞ぎました。

「よし、これで…」

 油断した次の瞬間、無感動な声が石壁の中から響きました。

「出ろ骸蛇、壁を壊せ」

 目の前で石壁は砕け散り、こちらに敵意を向けた蒼い目があらわれました。石壁を粉々に噛み砕いたのは、体が透き通り、中の骨が見える屍かばねの大蛇。

「テア様、この人…」

「ああ、どうやら魔術師のようだな……しかも、これは死霊術だ」

 死霊術。そういえば、聞いたことがあります。魔術の中には、とても珍しく高等な術ですが、命の尽きたものを操ったり、仮初の命を与え、しもべにする術があると。

「黒髪に蒼い瞳……貴様クザンの者か」

「え…!?テア様、クザンってまさか…」

 死霊術まで使える高位の魔術師。この人が、魔術師狩りから逃げてきた、クザンの魔術師。魔術師は蒼い瞳をいっそう険しくさせて、こちらを睨みます。

「神官が、“邪教に染まった忌まわしき反逆者”に何の用だ…あざ笑いに来たか、クザンの法術士共のように」

 ああ、やっぱり。この人も、クザンから逃げてきたんです。その言葉は、明らかにテア様に向けられていて、テア様が諭そうと口を開いたのですが、つい、言葉がついて出てしまいました。

「違います!」

 魔術師は射抜くような視線を向けてきますが、負けずに睨み返します。子供の頃、睨みあいなら百戦錬磨の私を舐めないで下さい。

「何が違う」

「クザンの件については私達は酷いと思っています。ただ、あなたがその絵を…」

「…何?絵がどうした」

 意外なことを聞かれたと言うように、魔術師は形の良い眉をひそめました。

「その絵!知らないとは言わせません!とても綺麗な絵だったのに、こんな風にしてしまって」

「……何を言っている」

「描いた人も悲しいでしょうけど、私はもっと悲しいです。そしてテア様もきっと、もっともっと悲しいです!!」

「おい、エアル……」

 そこまで見たいとは言っていない、とテア様が顔をしかめますが、わかりますよ、テア様。見たかったですよね。本当は、もっと間近でちゃんと見たかった筈です。

「…だから、その絵は…」

 屍の大蛇をしたがえた魔術師は険しいながらも、目元に少し呆れたような色を漂わせていますが、何故か分かりません。もしかしたら、真面目に注意する私の姿が滑稽に見えたのかもしれないですが、そんなことは気にしません。テア様は喋らないことに決めたらしく、黙って事の成り行きを見ています。

「ものにあたりたい気持ちも、人にあたりたい気持ちもあるでしょう。でも、慰めてくれる存在の綺麗な空にあたってどうするんですか!!」

 私、少し反泣きです。あの絵、私、本当に好きだったのにという怒り悲しみ憤り全てを込めて訴えると、魔術師の端正な顔が弱ったように、イラついたようにむっとしかめられました。

「自分で描いた絵を自分で潰して何が悪いというんだ」

「……………はい?」


 どうやら私、また大失敗をしてしまったようです。



  **************



「本当に、本当に!!申し訳ありません!!」

「私からも謝罪する。早とちりをして申し訳ない」

「……別にいいさ、謂れの無い非難を浴びせかけられるのは慣れている」

「………」

 私とテア様は揃って微妙な表情になりましたが、立場が立場なので言い返せず、言葉に窮します。一体どう謝れば機嫌を直してもらえるんでしょう。

「…貴公は、見たところ一級魔術師だな」

 不意にテア様が言った言葉に、私は目を丸くしました。 「……いっきゅうまじゅつし!?」

 つい、声を上げてしまい、両方から視線をそそがれることになって首を縮めましたが、一級魔術師って、法術が使えなくても導師と同等の力を持っているっていう、あの。だから、高等魔術だという死霊術を使えたんですね。ひょっとしたら、テア様とも互角に闘えるのかも。

「ひょっとして、カレジアス・ルエルタ殿の弟子では」

 カレ…なんですって?人の名前のようです…誰なのでしょうか。

 私はただ首を傾げるだけですが、尋ねられた魔術師さんは蒼い目を細め、警戒するようにこちらを見ます。

「…知らないな、そんな名は」

「申し遅れたが、私はトーシス神殿に勤める賢者の、テア・セディク・エルフェンラート。ルエルタ殿とは一度、お会いしたことがある」

「賢者?そうか、フォルデルカの賢者とはお前か…しかし、だからと言ってどうして信じられる。お前達のような神殿の者は、魔術師には嘘を吐いてもいいと思っているんだろう?」

「誤解のないように言っておくと貴公に危害を加える気は一切無い…弟子の貴公がここにいるということは、ルエルタ殿もフォルデルカに来ているのか…行方が分からないと言うから、魔術師狩りに巻き込まれたかと憂いていたのだが」

「……魔術師、狩り…?」

 その口調に、すぐにテア様がしまった、という表情になりますが、魔術師は雰囲気を尖らせて聞き返しました。

「どういうことだ、答えろ神官!クザンで何があった!?」

 この人は、魔術師狩りが始まる前にフォルデルカへ逃げてきたのでしょう。一般には伝わっていない情報なので知らなかったようですが、私達は、一週間ほど前に始まったという魔術師狩りを、彼が知っているものと思い込んでいました。

「……情勢が更に不安定になり、馬鹿王はすべての凶事と不始末の原因を魔術師になすりつけた。狂乱した市民達が法術士たちを先頭に立てて魔術師の屋敷を襲撃している」

 苦しげに情勢を伝えるテア様の声には、果たして伝えて良いものかという迷いがあるように思えました。普段なら黙しただろうことを伝えてしまうくらい、目の前の魔術師の必死な様子は鬼気迫るものがあったのです。

 悲惨な状況を聞いた魔術師は端正な顔を怒りに歪め、俯きました。

「…………クリミヤ教徒め、法術士め…!!」

 絞り出すような怨嗟の声の響きには、今まで何度も紡がれてきたのだろうと察するに余りある、恨みの過去が重ねられていました。

「地位を奪い、財産を奪い、自由を、そして家族まで奪っておきながら、まだ足りないのか!!我々は生きることすら許されないと!?ふざけるな!!何故放って置いてくれない!!」

 崩れ落ちるように膝を突き、石畳に爪を立てたまま身を震わせている主人の怒りに呼応するように、骸蛇は激しく身をのたうたせ、周囲の空気を薙ぎます。

「魔も法も人の世の理、我々はそれに従っているだけだろう!?欲に穢れているのは、邪悪は奴らの方では無いのか!!」

「その怒りもっとも…しかし、心を鎮められよ!!」

 鎮まらない怒りを収めようとテア様が封じの詠唱式を口にしようとした、次の瞬間。

 骸蛇の尾が風を斬って、テア様の頭上に振り下ろされようとしました。

「テア様!!」

 咄嗟にテア様を突き飛ばして避け、私達は石畳に倒れました。

 封術系は基本的に長い詠唱式を必要とするので、テア様も簡略式くらいは唱えないと精度が上がらないんです。

「ご無事ですね。よかった…兎に角、あの方に落ち着いて頂かないと…」

「……われに仇為す者に鉄の戒めを!!」

 起き上がり様にテア様が叫んだ刹那、空間を切り裂くように出現した鈍色の鎖が、骸蛇とその術士に何十にも撒きつき、動きを封じました。

「…無茶をするな!!傷は無いか?」

「はい、無傷です。大丈夫…」

「大丈夫ではないだろう!!もし当たっていたら…ああ、本当に……お前という奴は……」

 消え入りそうな声で、よくやった、と言われましたが、なんだか謝られているように聞こえました。

「もし傷を負っても治癒魔法があります。私もいっぱしの法術士ですから。それに、テア様をお守りするのが私の仕事ですし」

 私は、テア様にひとつ嘘を吐いてしまいました。

 テア様を庇って避けたとき、骸蛇の尖った尾が、肩を掠っていたんです。幸いかすり傷でしたし、肩にかかっている頭巾が傷を隠してくれました。きっと、私が傷を負ったと知れば、テア様は優しいから、自分を責めるに違いないのです。魔術師さんも多分、わざとやったわけではないでしょうし、事を荒立てることはしたくありません。

「おのれ……なんという無礼を!!」

 テア様がぎり、と歯をかみ締め、鎖で大人しくなった骸蛇の方を睨みましたが、その目は驚愕の形に開かれました。

 顔を伏せたままの魔術師の口が小さく動いて、何かを呟いているのに気付いた瞬間、封じの鎖が崩れ始め、灰となって消えていきます。

「…テア様の封術を破るなんて…」

 もともと封術はテア様の得意分野ではありませんが、それでも簡単に頑強な鎖を破るなんて、並みの魔術師のなせる業ではありません。

「貴様、封術を…!!」

 テア様、既に敬語を使う気は無いようですが、そもそもそんな場合ではありませんね。もう一度封じの術式を組みなおさなくてはいけませんが、テア様が魔力を集中させようとしてもすぐに骸蛇の尾が襲い掛かるので、守護魔法で精一杯なんです。残念ながら、私は骸蛇の尾を防げるほどの守護魔法も、高位の術士を封じるほどの魔法も使えません。こんなとき、自分の無力が本当に嫌になります。

「私達はあなたに何もしません!蛇を鎮めて下さい!!」

 耐えかねて叫んだ時、骸蛇がぴたりと攻撃をやめました。魔術師が私が叫んだ瞬間、骸蛇に戻るよう指示したのだと気づくのに数秒を要しました。相変わらずこちらを威嚇していますが、這いながらゆっくりと魔術師のもとに戻りました。

 そして、立ち上がった魔術師が踵を返したのでテア様はその背に声をぶつけます。

「これだけのことをして、逃げるつもりか」

「…逃げる?」

 ゆるゆると振り向いた魔術師は、その両目に負の光を宿していました。

「逃げる場など、もう冥界ぐらいしかない」

 その言葉に、私もテア様も、少し目の色を変えました。

「私はもう疲れたんだ。八つ裂きにしたいならすればいい」

 その声は挑発しているというより、本当に諦めの色を感じさせたので、逆に捕まえる気も無くします。そもそも、私達は別にこの人を捕まえる気はありませんでした。ただひとつ、私達の間にあった不運は、私達が神殿の人間で、彼が神殿の人間を憎んでいたということです。きっと、国に両親ないし家族や恋人、友人を残してきたのでしょう。度重なる弾圧。そして、飛び込んできた“魔術師狩り”という非情極まりない言葉。脆くなった心なら、容易に突き崩されてしまうでしょう。

「どうした、クリミヤ教徒。目障りな、“穢れた者”を始末できる絶好の機会だろう?」

 私達は、彼の心痛を少しだけでも察しているから、そして察しきれないから、それが重石になって、言葉を封じ、足を動かなくしている。この場に居る人間は悪くないのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうと、私は目を伏せました。憎しみの目でこちらを見る魔術師の後ろには、黒く塗りつぶされた空が見えて、今更ながら、あの蒼い空が彼自身、そして、無遠慮な黒い絵の具が、彼の心を切り刻むものだったのだと気付きました。

「……ここは、先代への、フランマーレ公の恩義に免じて不問にする」

 テア様は、苦虫を噛み潰したような顔で言いました。これは、恐ろしいほど寛大な処置です。でも、この場では寒く響くだけでしたし、多分テア様もそれは分かっているのでしょう。それでも、テア様は言葉を続けました。

「そして重ねて言うが、フォルデルカのクリミヤ教徒と法術士…全てではなかったとしても、少なくとも私達とこの街の神殿の者たちが、何もしていない者に手を出すことは絶対に無い」

「悪いがもう、クリミヤ教徒と交わす言葉など無い」

 そう切り捨てると、骸蛇と共に、魔術師は姿を消してしまいました。

 残された私達は言葉も無く、黒く塗りつぶされた空をじっと見つめ続けていました。


 晴れ渡っていた空は、いつの間にか黒い雲に覆われ、遠くから神殿の鐘の音が響くのが聞こえました。

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