第2話 コーヒーブレイク

「博士、コーヒーを淹れました」

白を基調としたラボに、柔らかな声が響いた。湯気を立てるカップがデスクに置かれ、ふわりと芳ばしい香りが立つ。

それに応えるように回転椅子がくるりとまわる。

「ありがとう、ハウリィ」

画面上に増えていく無数の文字から目を離し、彼に向き直ったのはサラ・マッキンリー博士だ。

研究者としてはまだまだひよっことも言える年齢のサラは、10代の頃からロボット工学の天才と噂された才女である。国の研究機関で数年働いた後、世界的大企業、インベル社が擁するロボット開発ラボに迎えられた。そして3年ほど前に開発したのが、彼女を母親のように慕う自律思考型ロボット、ハウンド・エレクトロンである。

 整った顔立ち、ハニーブロンドの髪は少し高い位置でくるりと巻くようにまとめており、目元涼やかでおおよそ美人の条件というものを備えている彼女だが、眼窩を縁取る隈がその美貌に陰を落としていた。少し疲れた様子を見るに、恐らく昨夜も殆ど寝ずに研究に励んでいたのだろうとハウンドは判断した。ハウンド自身は昨日から今朝まで仕事の関係でラボにいなかったためサラの動向を知ることはできないが、表情や皮膚の状態などを見れば睡眠の不足はすぐに判断できる。ストイックで感情の起伏が少ない彼女はその鉄面皮ぶりから、彼女自身がロボットのようだと揶揄されることもある。陰でマシンリー博士などというあだ名をつけられてさえいるが、勿論彼女は完全に有機体であり、生物である。睡眠をとらなければ体調を崩すだろう。実際、限界に達すると椅子の上や床など、どこでも構わず丸くなって寝てしまう。とても大人の女性のやることではないと研究員達にも小言を言われるのだが、猫に説教をするようなもので、あまり効果は無い。妙なところで寝てしまったときは、力の強いハウンドや大柄な研究員のコンラートが彼女を休憩室のベッドまで運んだりもする。本人は構うなと固辞するのだが、そういうわけにもいかないのだ。

 睡眠不足の科学者は、そのガラスのような淡緑の目に一瞬、ハウンドのEMP(エモーショナルパネル)に灯る明るい緑の光を映す。しかし、わずかに細められた二つの光を見て何か言いたげな雰囲気を察したのか、またすぐ黒い画面に青白い文字を増殖させる作業に戻ってしまう。小言を頂戴するのは御免だと言わんばかりに、機械のように一定のリズムでキーを叩いているが、ハウンドはその様子を分かった上で再び口を開いた。

「博士、また長く起きてらしたのでしょう、目の下に隈があります」

 白衣の背中ごしに、んん、とかむう、というようなくぐもった、返事ととれなくもない声がしたが、手を休める様子はない。

「あまり無理なさらないでください、博士には睡眠が必要です」

「いつも聞く台詞だな、少しアプローチを変えたらどうだ。全く同じ行動を繰り返して違う結果を期待するのは単純な機械と狂人だけだよ」

 博士が試すような口調で言うが、ハウンドは特に腹を立てる様子もない。

「では言い直します。博士、今からでもいいので睡眠をとって下さい。健康を損ないます」

「健康ついでに美貌もね」

 その言葉にかぶせるように、同室内でキーを叩いていた女性研究者のイメルダが声を上げたが、言われた当人はさして興味ない様子で答える。

「隈も皺も、得られる結果と比べれば小さ過ぎる対価だよ。第一、顔面の造作に執着するなら、我々は希望のものを作る技術を持っている」

「天性のものがあるのに贅沢だわ」

自らの美貌にさして執着しない様子の無いサラの物言いに、イメルダは厚めの唇を尖らせる。恋多き彼女は自分の見た目を特に気にしているようで、黒髪はいつも丁寧に結い上げられているし、化粧が上手くノらない日は何故かハウンドの人工皮膚をつついたりつまんだりして、時折ため息を吐く。確かに彼の機体を覆う表皮は、特に手入れも必要なくいつもなめらかでキメ細かい。ただしその下にあるのはセンサーや文字通り鋼の筋肉、緩衝材と、金属の骨だ。人間とはそもそも体組織が違うのでイメルダが羨ましがる必要は無いはずなのだが、ある時そう尋ねたところ「女の美への嫉妬は陶器の人形にすら向けられるのよ」と恨めしげに言われ、それ以上の追及をやめたのだ。この判断は、イメルダを除くラボ内の皆から賢明だったと後に評価された。

 そんな美に執着心を持つイメルダは、ぶすくれたまま片手を口元に添えてハウンドの耳に顔を寄せた。

「ハウリィ、サラはきっとそのうち全身機械化して、本当に“マシンリー”博士になるつもりよ!」

「機械化か、それもいいかもしれないな」

ハウンドの集音センサに向かって言われた軽口に応えたのはサラだ。

「イメルダ、他に聞かれたくないにしては声量が大きいようです」

「いいのよハウリィ、わざとだから」

わざと聞こえるようにひそひそ話をする行動の意図をハウンドが聞き返そうとした時、やりとりを黙って聞いていた別の研究員が口を挟んだ。

「早速サイボーグ化の研究部署に話をつけなきゃあ」

 行儀悪く椅子の背を抱え込んでいるのは他部所との行き来が多いアルベールだ。彼はラボ内ではイメルダと同じくらい軽口が多い。社交的で知り合いが多く、独自の人脈を持っているため部署をまたいだ合同研究などの際はもっぱら両者の間に立つことが多い。

「鉄の女じゃなくて、チタンの女って異名がつきますね」

 彼のニヤついた表情からハウンドはそれらの言葉が冗談だと判断できたが、博士はどうか分からない。表情があまり変わらないため、本心が読みづらいのだ。

「博士、博士はロボットになりたいのですか?」

「まだ私の冗談は見分けられないようだな、ハウリィ。今のところ私自身を改造する気はあまり無い」

「そうなのですか」

 何故か少し安堵したような感情を覚えながら、ハウンドは「それなら」と言葉を続けた。

「人間であり続ける以上、睡眠は必要ですね。休憩室に行って睡眠をとって下さい」

 この反撃は予想外だったらしく、博士は少し虚を突かれたようにキーを打つ手を止め、ゆっくりと振り返った。

「お前、私に対して少し強気になったね」

「博士の健康を守るためにはすぐに引いてはいけないと学習しました」

 今日こそは引かない様子のハウンドにイメルダが拍手を送り、アルベールは口笛を吹いた。

「他人の健康を慮れるように作ったのも、人に反論できるよう作ったのも私だが、前者に関しては私を除外しておけばよかったかな」

 少々分が悪いことを彼女も分かっているのだろう、しかしまだ手を付けている数字の群れに心残りがあるようだ。軽く軋んだ音を立てながら背もたれに背を預け、デスクの上で少し温度を下げた様子のカップを手に取る。そのまま口元へ運んだところでいつもと違う香りと色に気づいたのか、彼女の鉄面皮がわずかに歪んだ。

「‥‥コーヒーじゃない」

「コーヒーです。ただし、ブラックを続けて飲むと胃が荒れるので、ミルクをたっぷり入れました」

「相手を思いやるための嘘ならばついていいと言ったが私に関しては無しにしておけば良かった」

 淡々と毒づいた博士の言葉に、終始ニヤニヤしていたアルベールがとうとう声を上げて笑った。

「なんて母親思いの息子かしらね」

 イメルダなど、いたく感動した様子で、いつの間にか傍まで来てしきりにハウンドの腕を叩きまくっている。これが攻撃でなく、興奮や親しみの気持ちをあらわす愛情表現であることは彼も一応知っているので、されるがままだ。二人と一機の期待がこもった眼差しを受け、サラは肩をすくめた。

「わかったよハウリィ、今回は私の負けだ。休むとしよう」

 サラは少しため息を吐くと、キーをいくつか叩いて画面を閉じ、椅子から立ち上がった。相変わらず表情をあまり変えないながらも、ハウンドの気遣い攻撃にとうとう音を上げたようだ。コーヒー、もといカフェオレの残ったカップを持ったまま休憩室のある廊下へと歩いて行く。

「やはり睡眠を短縮するには脳を機械化するしか無い‥‥か‥」

 不穏なことを呟きながら休憩室へと消える背中を見て、残された者は顔を見合わせてそっと笑った。気ままで少しわがままで、どこでも寝てしまう。

彼女をよく知るラボの者達に言わせれば、サラはロボットなどではなく、金の毛並みの猫のようだ。まあ、猫ほどに寝てくれれば、皆が心配することもないのだが。

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