第2話 完全犯罪の予感


 まさかこんなことが起きるなんて夢にも思わなかった。これからの学校生活の期待と緊張を胸に抱き一限目の授業を受けたら、生徒が先生を刺し殺すという殺人事件が起きてしまった。


 一体なにがどうなっているんだ。


 そこで田中は、ある違和感に気づいた。


 それを確かめるため後ろを振り返り、教室全体を見渡してみる。やはりおかしいとなった。


 不気味なくらいに静かなのだ。誰も恐怖に駆られた悲鳴をあげず、さらに微動だにもしていなかった。


 ただ、こうなることを知っていたかのような顔で先生の死体を眺めていたのだ。


 事の異常さに混乱していると、右側の教室の扉が突如開いた。田中を含めた全員がそっちに視線を定める。


 若い女が立っていた。黒いスーツを着こなしているので、この学校の教師だと見受けられた。女が口を半開きにして、教室に横たわる死体に目が釘付けになっている。


「本当に……やったのね……」


 女は扉を閉めてから、少し信じられないといった表情で口元に手を当てた。


 田中は女があまりの恐怖に悲鳴をあげると思っていたので、まるでこの事態を予期していたかのような彼女の言い回しに疑問を抱かずにはいられなかった。


麻美あさみ先生」


 彼は死体からナイフを抜き取きながら、教師の名を口にする、渡辺のブレザーにも返り血は付いていたが、紺色なのであまり目立っていなかった。


「直子のかたきは取りました。これで直子も報われると思います」


 渡辺は真剣な眼差しを麻美に向ける。対して麻美は少しばかり困惑しているようだった。


「そ、そうね……。直子ちゃんもきっと分かってくれる。これは正義の鉄槌なのよね」


 麻美は渡辺に応じるというよりかは、自分を言い聞かせるようにそういった。


「麻美先生、竹本のスマホは?」


「え、ええ。持ってきたわ」


 麻美はスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出すと、それを渡辺に手渡した。渡辺はナイフを持っていない手で、それを巧みに操作する。


「よし、パスワードは変えてない。これで何もかも上手くいくはずです」


 渡辺はそういってスマートフォンとナイフを制服の内側ポケットに仕舞った。


「九時十五分まで、あと十五分もあるわね」


 麻美が腕時計に目を落としながらいった。


「はい。本来なら絶対に間に合いませんけど、次の授業が麻美先生担当の現国で助かりました」


「問題なく事が進むといいけど」


「麻美先生、残念ながら大問題が既に起きているわ」


 そういったのは田中の右隣に座る女子生徒だった。田中と同じように顔に血が飛んでいる。それを見ると、田中は自分の顔を裾で拭いた。


「大問題って?」


「こいつよ」


 隣の女子生徒が田中を指さす。麻美はそれを辿るようにして田中に目を移した。


 すると、麻美は「え、誰」と目を丸くして呟いた。


「転校生です」


 渡辺が表情一つ変えずにいった。


「嘘でしょ? 今日のこのタイミングで?」


 そういいながら、麻美は再び視線を渡辺に戻す。


「はい。このタイミングでです」


 麻美は狼狽を顔に浮かべる。田中は未だに状況を掴めないでいた。


「渡辺、この転校生どうする? 殺す?」


 田中の右隣に座る女子生徒が恐ろしいことを口にした。田中は「えっ」という表情を彼女の横顔に向けた。


「いや、殺しはしない」


 渡辺が頭を振ったので、田中は安堵の息を漏らす。


「いいの? 殺して口止めしないと、絶対こいつ言いふらすよ」


「でも罪のない人間を殺す訳にはいかない。だが、菅原の言うことも一理ある。ここで口外されたら俺達の計画がパーになるしな」


 渡辺が考える仕草をする。


 どうやら彼女の名前は菅原というらしい。そして菅原は鬼のような心を持っていることが分かった。


「転校生」


「は、はい!」


 そこで初めて渡辺から声をかけられた。急だったので、無意識に田中は背筋を伸ばしてしまい、甲高い声を上げてしまった。


「転校初日にこんなもの見せてすまない。驚いただろ」


「え、あっあ、う、うん」


 穏やかな口調の渡辺に対し、田中はぎこちなかった。まだこの状況に頭が追いついていけてなかったからだ。


「でも安心してくれ。大声を出さない限り君に危害は加えない。俺もあまり人を傷つけたくはない。できれば今日という日は最初で最後にしたいんだ」


 つまり大声を出せば殺されるかもしれないということだろうか。いや、でも罪のない人を殺したくはないと渡辺は言っていた。拘束でもするのか。どちらにしても嫌だった。田中は唾を飲んで頷いた。


「でも、どうして先生を殺したりなんか……」


 田中は恐る恐る聞いた。そうせずにはいられなかった。どうしても渡辺の動機が気になる。きっと麻美もクラスメイト全員も渡辺の共犯者なのだろう。だからずっと黙っているのだ。そこまでして竹本を殺した訳を知りたかった。


「確かに転校生にとっては気になるところだろうな。俺は竹本を殺したが、言わばこれは死刑みたいなものなんだ」


「死刑?」


 田中は首を傾げた。


「そう。元はと言えばこいつ」


 渡辺は死体を軽く蹴った。


「竹本が過去にした行いが原因なんだ。俺には直子という彼女がいたんだが、こいつは直子に絶対に許されない卑劣な行為をしたんだ」


「それって……?」


 田中はそう聞いたが、何となく予想はついていた。渡辺は一呼吸してからいった。


「直子をレイプした」


 一瞬教室の空気が張り詰めるのを田中は感じ取った。そしてそれは田中の思った通りでもあった。


「そして直子は自ら自分の命を絶った。俺という彼氏がいて先生から強姦ごうかんを受けた現実に耐えきれなくなったに違いない。竹本、こいつは俺の直子を死に追い込んだクソ野郎なんだ。のんのんと生きていることが憎くて仕方なかった。だから殺すしかなかったんだ」


 渡辺は直子との昔の記憶を思い出したのだろう。彼の拳が強く握られていた。


「直子は私、いや私達にとってもかげがえのない存在だった。私は直子と親友だった。幼い頃からずっと一緒だった。これからもずっと直子と笑って人生を過ごすんだと思ってた。でも、竹本はそれを奪ったの。絶対に許せない。みんなもそうでしょ?」


 そうクラスの皆に聞いたのは、さっき田中を殺すことを促した菅原だった。


「当たり前だ。竹本が死んだからって俺達の気分が晴れるわけがねえ。直子は俺達全員の光だったんだ。直子がいなければ今の俺はいない。そして、このクラスも直子がいてのクラスだ。みんな直子に救われてきたんだ。それなのにあいつは直子を殺したんだ」


 次々と竹本に対する罵倒と直子に対する賞賛の言葉が並べられた。


 皆の話によると、直子は自殺する一ヶ月前に急に様子が変になったらしい。常に思い詰めた顔をしていたという。だが、菅原や渡辺、麻美が聞いても何もないの一点張りだったようだ。


 さらに直子がそうなる前には、ストーカー被害にあっていると麻美、菅原、渡辺は相談されていた。


 しかし、そのストーカーが誰なのかは直子自身も分かっていなかったらしく、ただつけられてるような気がしたり、変な手紙がポストに寄越されてただけのようだった。


 渡辺は直子とストーカーの間で何かしらのことが起きてそうなったと踏んだ。


 そして、その何かが分からぬまま直子は自殺した。授業中にトイレと告げ抜け出して、四階の窓から飛び降りた。顔面から落ちたらしく、ひどく損傷して誰か判別つかなかったらしい。


 警察は死体の制服につけられていた名札と生徒手帳から直子と判断した。警察は最初いじめを疑ったらしいが、菅原のストーカー被害の話を聞いて、さらに検死の結果から、ストーカーによる過度なストレスで自殺を図ったのだろうと述べた。


 直子は妊娠していた。ストーカーとの子、ストーカーが直子を強姦したのだと渡辺は断定した。渡辺と直子の間では、まだそういうのはなかったらしい。


 そして、その犯人が竹本だと渡辺は突き止めた。彼の鞄から直子へ送る手紙が発見されたのだ。


 竹本はストーカー行為と強姦には全否定していた。手紙も書いた覚えはない、誰かにいれられたんだと主張した。


 皆はそれを信じなかったが、警察は竹本のストーカー、または強姦を裏付ける確たる証拠が見つからずに逮捕とまではいかなかった。直子の妊娠も初期の段階すぎて、胎児のDNAを確認できなかったのだ。


 事の結末に満足がいかず、クラスの皆は直子の復讐を決意した。


 直子と仲の良かった麻美も色々と相談を受けていたので、直子がストーカー被害にあっているのを知っていた。


 麻美は渡辺から復讐の話を持ちかけられたが、最初は賛成しなかったようだ。だが、皆の本気に麻美が折れる形になった。さっきの様子からすると、彼女はまだ完全には腹を括っていないようだった。


 これらを聞いて田中が分かったのは、強姦されて自殺に追い込まれた直子は、この上なくクラスメイトから信頼されていたということだった。竹本を本気で殺したくらいだ。余程そうだと窺える。


「だからお願いだ。このことは秘密にしてくれないか」


 渡辺は丁寧に頭を下げてきた。


 ナイフを脅しに口止めするのも手だが、そうしないという面から、改めてこれがただの人殺しではないことが伝わってきた。


 さっきまで頭を抱えていた麻美も「大人の私が言うのもあれだけど、お願いします」と同じようにした。


「で、でもそれって僕も共犯になるんじゃ」


 それが田中にとって唯一の問題だった。


 確かに話を聞くだけでは、竹本は最低な人間だし、そんな奴に殺されたようなものの直子も可哀想で仕方がない。


 皆が復讐を考えるのも田中は十分に理解出来る。罪に問われないのなら秘密にしたいが、そうはならないのが現実だった。


「もし万が一、俺達の行いが世間に出回ったら、その時は必ず皆が君だけは無罪だと主張する。本当だ。だから黙っていてくれないか」


 はい分かりました、とすぐに答える訳にもいかなかった。転校生の田中からすれば渡辺も含め全員初対面だ。例え渡辺が無罪だと主張してくれても、他の人がそうだとは限らない。


「この事がばれない保証はあるの?」


「ない」


 即答されて、田中は椅子から滑り落ちそうになった。


「でも、ばれないための手は何個か打ってあるし、これからの作戦も俺がちゃんとたててある」


「どんな?」


 田中にそう聞かれ、渡辺は渋々といった顔になった。


「それを言ったら秘密にしてくれるか?」


「分からない。内容によってはそうするかもしれない。でも約束は出来ないよ」


 ここでいう内容とは、その作戦とやらがどれだけ完全犯罪になる可能性が高いかだった。


 渡辺は転校生である田中に話すかどうか逡巡しゅんじゅんしている様だった。作戦を話して田中が秘密を約束出来ないとなった時、それを口外されることを恐れているのだろう。


「私は賛成出来ないわ。だって今日来たばかりの転校生よ? 絶対に喋るわ。秘密にすることにデメリットしかないんだもの。だから口外したら殺すって脅すべきだわ。てか今からでも殺すべきよ」


 またしても田中を殺す方向に持っていくのは菅原だった。この女どれだけ恐ろしいのだと田中はつくづく思った。


「転校生はなんの罪もない一般人だ。絶対に殺す訳にはいかない。それをすれば俺達は竹本と同類になってしまう」


 それを言われて菅原は歯切れを悪くした。竹本と同類だけにはなりたくないようだ。


「渡辺くんの言う通りよ。今日という最悪な日に、たまたまやってきた転校生を殺すだなんて、あまりにも彼にとって哀れすぎるわ」


 麻美も田中を殺すことに反対する。


 それで菅原も諦めたのか「わかったわよ」と不満そうにいって、隣の田中を睨みつけた。慌てて田中は目を逸らすが、内心もう大丈夫だろうとほっとしていた。


「わかった。作戦を話す。一から説明すると長くなるけど」


 渡辺はそういって、腕時計に目を落とした。


「まだ少し時間はあるな。一回しか言わないからよく聞いてくれよ」


 田中は唾を飲んで頷いた。


 そして、渡辺の口からその全貌が明らかになった。その顛末てんまつは田中にとって度肝を抜かれるものだった。本当にそこまでやったのかと疑う程にだ。


 渡辺が説明した内容はこうだ。


 まず彼は最初に、竹本を殺す現場を考えた。その結果、この教室で殺人を決行することにした。


 そこは共犯者がクラスメイト全員という条件があってこその最適な場所だった。教室には外と違って防犯カメラも設置されていないので、授業中に犯行すれば部外者には誰にも見られないと踏んだ。


 そして次に渡辺は竹本の死体処理について考えた。これが一番重要だった。警察に捕まるか捕まらないかはここで決まると渡辺は述べた。


 死体処理には燃焼、沈没、埋没、いろいろあるが、渡辺はその中で埋没を選んだ。


 問題は死体をどこに埋めるかだった。


 渡辺はそれを彼女だった直子の家に隣接するガレージハウスに埋めることにした。今そこの家には直子の両親が住んでいる。


 つまり、直子の両親も共犯者だった。渡辺が竹本を殺すことを二人に告白すると、自分達も協力させてくれと頼んできたらしい。


 それほど両親も竹本を憎んでいるのだ。当然といえば当然だ。娘が強姦されて自殺したのだ。


 直子の両親は、自分達の家の下に娘を殺した犯人を埋めることに躊躇いはなかった。竹本が死ねばそれで良かったのだ。


 ガレージハウスのコンクリートを掘るのは直子の両親の役目だった。車二台分駐車するスペースがあり一台分余っているので、そこに穴を作ることにした。


 コンクリートを掘るには電動ハンマードリルが必要だった。直子の両親はそれをネットで購入した。


 掘るにあたっての問題はドリルの音だった。近所迷惑で通報でもされたら面倒になりかねない。


 しかし、運が良かった。冬休み前にコンクリートを掘る予定だったらしいが、丁度その時期になって近くで下水管切替工事が行われるようになったのだ。


 その間の昼間は、工事の音で周辺は騒がしくなった。


 だがそれも、彼らにとっては好都合でしかなかった。おかげでコンクリートを掘る時の音は、工事の騒音によって掻き消された。


 ガレージを閉めた状態で作業を行うので、近隣の人達にも見られる心配はなかった。勿論街に設置された防犯カメラに映る心配もない。


 そして無事に直子の両親は穴を完成させたのだ。直子の家に用意したドラム缶に死体を入れ、そこを生コンクリートで密閉し、さらにそれを穴に入れて生コンクリートを流し込み埋める。


 そこのガレージハウスに入れるのは直子の両親だけなので、死体がそこに埋まってることなんて誰にも分かるはずがなかった。死臭も漏れる心配はなく、完璧な場所といえた。


 では次に死体を学校から直子の両親の家までどうやって運ぶかだった。渡辺が選んだ方法は車だった。


 だからといって、直子の両親に車で迎えに来てもらう訳にも行かない。


 学校にも入れないし、すぐ外で待っていたとしても、そこまで死体を運んで車に移さないといけないので街の人に見られる心配があった。


 その時点でブルーシートに死体を包んでいたとしても、街の人が不審に思って通報する恐れがある。悪魔で死体を見られる訳にはいかなかったのだ。


 だから車を監視下にない校内に手配しなければならなかった。田中が転校してきたここの公立高校では、正門裏門に一台ずつ防犯カメラが設置されているので、そこから離れた場所で車に死体を移さなければならない。


 それをどうするかだったが問題はなかった。


 毎週火曜日の午前九時十五分に、食堂用の食品を運んでくる輸送トラックが学校を訪れ、校内端の食堂横に停止する。それを使うのだ。


 その時にトラックに乗るのはマニュアル免許を持っている渡辺だけだ。いつもやってくる輸送トラックには、運転手である作業員一人しかいないからだ。


 渡辺はもし遭遇した先生や街の一般人に怪しまれないために、ネットで注文した作業着に変装して運転する。荷台には死体が乗っている状態だ。


 トラックを運転する渡辺は直子の両親のガレージハウスに入り、死体だけを下ろして、またトラックで学校に戻ってくる。後のことは直子の両親に任せる。


 勿論これを達成するには、作業員をトラックがないことを気づかせないように時間稼ぎをし、さらに作業員からエンジンキーをこっそりと奪わなければならない。それを麻美と菅原が行う。


 そして、それらを行える日は今日しかないのだ。


 何故なら今日は時間割変更で一時間目が竹本が担当する日本史に変わっている。二時間目の麻美先生の授業が始まる頃には輸送トラックは帰っているので、この時間帯しか決行出来ないのだ。


順風満帆じゅんぷうまんぱんにとは行かなかったが、三ヶ月かけて何とか作戦を練り、穴を掘ってもらう所まではいけたんだ。あとは今日、直子の家に死体を置いて帰ってくる。それで全てが終わる」


 このとんでもない目論見を渡辺だけで考えたのだ。本当に完全犯罪が成り立つのではと期待させられる程だった。彼は天才なのではと田中は思った。


 しかし、その天才である渡辺が考えたシナリオでも不安な部分はあった。


「確かに凄い計画だよ。聞いただけだったら、本当に上手くいくかもしれないって思う。それでも確実ではないよね。鍵を奪うことや時間稼ぎが困難だし、それに、この後のことが僕は心配だ。その竹本先生がいないって騒ぎになったらどうするつもりなの?」


「勿論その後のことも考えてある。だからこうやって竹本のスマホを麻美先生に持ってきてもらったんだ」


 渡辺はポケットからさっきのスマホを取り出した。


「それは何に使うの」


「一限目が終わった頃に、この学校の教師のグループSNSにやめると一言伝える」


「そんな急にやめるってなったら、先生は不自然に思うに違いないよ。それから連絡が取れないってなったら捜索願が出されるかもしれない」


「大丈夫。竹本が急にやめる理由も考えた。それは麻美先生から他の教師全員に説明してくれる。麻美先生は、普段から竹本がここのクラスで授業崩壊が起きていて相談に乗っていたことにする。そして今日、ついに耐えきれなくなった竹本は、授業中に勢いで学校を出ていった。それは俺達全員が証言できる。まあ、辞めるといっても正式にはそうならないだろうけど、連絡がなかったら自動的にそうなると思う。それに竹本の肉親はもう全員他界してるんだ。麻美先生によると、教師の間でも評判は良くないらしいから誰も捜索願なんて出すことはない」


 そこまで考えているのかと田中は感心させられた。細かく計画を練られている。これなら本当の本当にいけるかもしれないと田中は思ってしまった。


「それで、このことは秘密にしてくれるのか?」


 田中は目をつむり、額を手で抑えて深く考える。田中はこの学校に転校する前のことを思い出していた。


 前の学校とは色々な意味で違う。このクラスの皆、先生はかけがえのない直子という存在を失って必死に世間に抗っている。それが正義なのか悪なのか田中には判断できないし、その権利もない。


 だが、直子と皆を繋ぐ絆は紛れもなく純粋なものだ。それがなんだか田中にとっては素敵に思えた。前の学校のクラスではそんな欠片は微塵もなかったのだ。


 そういう意味では、このクラスに憧れるものが田中にあった。こんな絆で繋がったクラスがずっとあるのだろうかと疑問に思っていた。


 だが、それはあった。ここにあるのだ。田中は今日転校して、その一員になったのだ。いや、まだ確実にそうなった訳では無い。そのためには必要なことがあった。


「分かった」


「えっ」


 聞こえなかったようで渡辺はそう口にした。


「秘密にする。約束するよ。絶対に誰にも言わない」


 渡辺が頬を弛緩させた。それは渡辺だけではなかった。麻美、菅原、他の皆も同じようにして田中を見た。それがなんだか田中は嬉しく感じた。


「ありがとう。本当にありがとう。必ず作戦を成功させてみせる」


 渡辺は満面な笑みでそう宣言した。こうみたら普通の高校生だった。


「本当に頼むよ。そうしてもらわないと僕が一番困る」


「ああ。それに今日、さらに作戦が成功するのだと期待させられる奇跡も起きたことだしな」


「え、なんのこと?」


 菅原は目を細めて渡辺に聞いた。麻美も皆も分からないようで戸惑った表情をしていた。当然田中も何のことかさっぱりだった。


「君だよ」


 そういって渡辺が田中を指さした。


 田中の口から「えっ」と零れた。クラス全員の視線が田中に集まっている。今度は変な汗が滲み出てきた。


「転校生が今日やってくると知った時、最初は作戦失敗だと思って絶望したよ。一人だけ部外者が混じってしまうからね。でもそれは違った。逆だったんだ。君という転校生か来たことによって、作戦は成功するんだと裏付けられたんだ」


 渡辺は希望に満ちた顔だった。対してクラスメイト全員と麻美はそうでなかった。


「どういうこと?」


 渡辺の言ってる意味が全く理解出来ないでいる田中はそう聞いた。


 だがしかし、何故かとんでもなく嫌な予感が田中の身体を取り巻いていた。


「さっき説明した中にあったけど、九時十五分になると輸送トラックが校内に入る。その運転手をトラックに戻らないように時間稼ぎと鍵を盗む人が麻美先生と菅原。だが、実はもう一人必要なんだ」


「ちょっと渡辺、あんたまさか」


 菅原が目を大きく開いて、さらに田中の不安をあおるようなこといった。


「食堂のおばさんをどうするかずっと考えていたんだ。朝の食堂にはそのおばさんしかいないんだけど、そのおばさんが凄く厳しくてね。授業を抜け出して食堂に来た生徒を容赦なく職員室に連絡するんだ。それにおばさんは輸送トラックが来たと知ったら、自ら作業員の手伝いをする大真面目な性格。当然おばさんをどうにかしないとトラックがないことがばれてしまう。麻美先生と菅原は遅刻した生徒を教室に連れていく設定で一緒にいるからおばさんにも怪しまれないけど、二人は作業員と鍵を攻略しないといけない。さすがにおばさんまで一緒に時間稼ぎするのは難しい。だからどうするか考えてたんだけど……」


 そこまで渡辺がいって一旦間を置いた。そして田中の方を向いた。


「それを田中くんにやってもらう」


 嘘だろと思った。


 渡辺は初めて田中という名を口にしたが、そんなことに気づかないくらい田中の頭の中は真っ白になっていた。


 出来るわけがない。田中はそう心の中で呟いた。

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