横浜西口の喫煙所

「アニキ、こっちですぜ」

 ヒロ、横浜駅を降り、トイレにアニキを誘導中。


 最短ルートを通って行くつもりが


「あれ、道が変わっとる?」


「ど、どないしたんや、ヒロ」


「道がおかしゅうなっとりまんねん」


 日に日に変貌、もしくは変容を遂げる横浜駅の最終形は誰にもわからない。トイレを我慢しているヤカラが混乱に陥っても仕方のないことだった。

 アニキ達、とりあえず駅構内からの脱出を試みる。最悪の事態を考え、果てるならば屋内よりはまだ屋外で、と思ったのかもしれない。


「確か、西口出てすぐのところに公衆便所があったはずですぜ」


 ヒロの提案に乗り、西口へ向かう。アニキ、よちよち歩きで汗だく。顔面蒼白。

 それでも一歩一歩進み、なんとか西口を出た。眼の前にあったのは。


「交番やんけ!」


 アニキ、絶叫、背筋ピーン。内肛門括約筋と外肛門括約筋の限界が最終段階に突入したシグナルだった。


 ヒロ、真顔で提案。


「アニキ、そこに喫煙所ありますやん」


「あああ、あるのう」


「隅っこでビニール使うたらいけまへんか」


「何言うとるんやヒロ!」


「タバコの匂いも臭いくっさいから意外と大丈夫でっせ」


「ダメやろそんなん、ヒロ」


「隅っこなら数人でカバーできますわ」


「ええんか、ヒロ」


「さあアニキ」


 ヒロ、喫煙所に入るなり周囲を威嚇。同時に電話をかけている。

「タカシとリュウジ、今すぐに西口の喫煙所に来いや! アニキの一大事やぞ!」


 ヒロ、ヤカラカーテンでアニキを隠す作戦発動。

 アニキ、既に我慢できず臨戦態勢でしゃがみ込む。着弾予測地点にヒロがビニール袋を広げる。


「どうぞアニキ」


 アニキの視界が滲んだ。極限状態での舎弟の優しさが染みたのか、人間からヒトに戻ることを覚悟したのか、大事なものを捨てる決意をしたのかはわからない。


 新たに二人のヤカラが喫煙所に駆け込んできた。タカシとリュウジは現場を見るなり口を開けて5秒ほど固まっていたが、ヒロの命令、すなわち


「おどれら、服脱いで壁作って大声で歌えや。アニキの音とかため息が周りに聴こえたらあかんやろ」


 に従った。タカシとリュウジは背中のもんもんを周囲に見せつけながら、夏の海岸でノリノリに踊って、濡れたまんまではっちゃけて〜と歌った。


 時折アニキの「クッ」とか「ううっ」というあられもない吐息が聴こえてくる。そのたびにタカシとリュウジは歌をやめた。

 上下関係だけで成り立っているような世界において、アニキが何かを言ったあとはすぐさま行動に移らなければならない。重要なのは脳みそで考えることではない。脊髄で反射行動に出ることだ。


 だがタカシとリュウジが歌を止めるたびにヒロ、

「おどれら歌えや!」

 と発破をかけた。


 2回目のはっちゃけて〜が終わると同時にアニキが小声で言った。


「 か み 」


「おどれら紙持っとるか。ないか。靴下よこせ」

 ヒロ、テキパキと命令を下す。タカシとリュウジは靴下を脱ぎ、アニキに手渡した。


 アニキ、ゴソゴソとした後に立ち上がった。

 3人に礼を言い、3万円ずつ小遣いを渡した。ずしりとしたビニール袋を持ち上げ、更にもう一枚ビニールを被せた。

 あふれる涙を袖でぬぐう。だが涙は拭いても拭いても止まらなかった。これだけ泣いたのはいつ以来だろうか、幼少の時に祖母が亡くなった時もここまでは泣かなかった。

 祖母の命よりもこのビニール袋の方が、わしにとっては重たいということか。自分の冷徹さに愕然とし、また涙した。

 その間、周囲を囲んでいるヒロたち3人は、時折震えたりしながら、黙って地面のブロックを見つめていた。


「ちょっとユキんとこ行ってくるわ」


 アニキ、鼻声でそう言って雑踏にまぎれた。ビニール袋を人指し指にひっかけ、肩を丸めて歩く様子は、酔っ払ったサラリーマンが妻のご機嫌を伺うためにお土産の寿司を持って帰るのと、ほどよく似ていた。


 残されたヒロ、タカシとリュウジに洗剤とデッキブラシを持ってこさせ、掃除をした。

 奇跡的に地面のブロックは全く汚れていなかったが、掃除をしなければならないと、心の中の誰かが言っていた。


「分かっとると思うが、今日のことは忘れろや」


 タカシとリュウジに1万円ずつ渡し、ヒロも雑踏に消えた。

 タカシとリュウジは黙って地面のブロックを、震えながら見つめ続けた。

 口を開いた瞬間、爆発的な笑いが止まらなくなることは分かっていた。

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