第2話
早朝。
朝霧も冷めやぬ時間。
夜間運行を行っていた蒸気機関車の警笛でハワード・カートナーは目を覚ました。
身体にまきつけていた機関製大量生産品である安物ながら機能性抜群とされる裏にも表にもポケットの多い褐色のコートを正し、ボックス席に座りなおす。
「……最悪の朝だ」
額をぬぐいながら体の凝りを解す。ボックス席を一人で使用したが、やはり寝心地は悪かった。
眠っている間に、荷物がスラれていないかなどを確認していれば、変わらずそこにあるしポケットの中にはわずかな貨幣があるだけだった。
すかすかの三等客車の中には、ハワード以外の人間は少ない。
企業の社員などばかりだ。社交界の時期ともなれば一等、二等にいる貴族連中の従者であふれかえるが今は時期ではないため誰もいない。
アンテルシアまではあと三十分もあれば到着する。列車は徐々に減速を始めており、過ぎ去る景色の輪郭がはっきりとしてくる。
わずかな自然が残る景色は、大都会たる都市に近づけば近づくほどにその色彩を灰と黒に変えていく。
「蒸気機関文明の弊害だな」
ハワードの言う通り、蒸気文明の弊害だ。もはや汚染されていない自然の木はこの辺りでは拝むことは出来ない。
どこか辺境にでも行かない限り見ることは出来ないだろう。そう言われていたのは一体いつだったか。
もはやアンテルシアを遠く離れた開拓地であるところの辺境地区であろうとも汚染されていない綺麗な緑と青を見ることはない。
それが良いことか悪いことかを考えることを自然保護団体に任せているハワードは、トランクの中から昨夜駅で買っておいた新聞を取り出す。
アンテルシアに広く流通する日刊新聞であるところの高級紙ではない、三流新聞社のゴシップだ。
ハワードは別段、ゴシップに興味があるわけではなく、この新聞社の記事がそれなりに気に入っているからだ。
企業複合体の検閲を通したのか、通していないのかわからないほどに実直に、率直に、歯にもの着せぬ文章の羅列。
荒唐無稽な事柄をさも真実のように語る記事は笑い話にもならないようなことばかり。
だが、わかっている者が見れば真実を語っていることがわかる。
名探偵シャーロック・ホームズの活躍だとか。その裏にある蒸気犯罪者たちの真実であるとか。
あるいは企業複合体がもたらす蒸気障害などの近代病についての世論だとか。街の暗がりをにぎわせる異形の出没情報なんてものもある。
書いたならば問題にしかならないような企業テロルについてなども当然のように書き連ねていた。
その他、黒魔術サロンへの勧誘や企業テロルに精を出している錬金術教団の宣伝文、宗教的弾圧組織の内部活動記録なんてものまで。
古今を問わず、東西を問わず、あらゆる事柄がこの新聞記事の中には存在していた。
どこまでが本当で、どこまでが眉唾なものかわからない記事ばかりだ。
だが、その中に少なからず真実が混じっていることをハワードは知っている。
「また、ホームズが事件を解決したか。ならば早いところ切り裂きジャックも解決してもらえると助かるんだがね。ともあれ、今日も今日とてアンテルシアはいつも通りということか」
都市を治める偉大なりし女王陛下の威光は、今も広く知れ渡っているということだ。
その治世には繁栄と波乱と混沌が霧の中に同居している。
――いつもの事だと人は言う。
それはこの空にも言える。空は相も変わらず排煙の雲が覆いつくし、産業革命以前までは見えたという青空を見ることも叶わない。
もはや世界から青空が駆逐されてからどれほどの時が経ったというのだろうかと考えてしまうほどに代わり映えしない。
しかし、代わり映えしないのはそう言ったことばかりで、列車の外の風景は凄まじい速度で変化している。
都市に入ったことでそれは加速度的に高まっている。高架線路から見える都市の風景は、ここ十数年前とは様変わりしている。
列車が高架を利用して縦横無尽に大量に人々を運ぶようになった。今や通りは馬車の走る道ではなく、蒸気機関を積んだ自動車が走る時代だ。
もう十年後にはどうなっているかわからないだろう。空でも飛んでいるかもしれないとハワードは思っている。
便利になったと人は言う。
公園でゲイトボウルに興じるかつてを知っているご老人方などは特に。
街を走る蒸気管と高架線路。熱と蒸気、排煙をあげる巨大機関に機関工場などは、以前はまったく見られなかったものだ。
全ては、鉱山で見つかった空が始まり。産業革命より数十年、アンテルシアは世界の最先端を突き進む機関都市に成長した。
今も成長を続けているその証、現代の巨人たるアンテルシア中央駅に列車は到着する。
増改築が続けられ今も天を貫かんばかりに成長を続けるこの巨大な駅が、アンテルシア中央駅でありこの都市の心臓ともいえる場所であった。
「さて、父さんが余計なことをしていなければいいが」
列車が停止するとともにハワードはホームに降り立つ。
機関都市特有の冷気と熱気を含んだ煤汚れた空気に咳き込む人間もいるがここが生まれ故郷であるハワードにとっては、なじみのものでありむしろ落ち着くほどであった。
外との玄関口であるプラットホームは、高名な芸術家がその技術の粋を尽くして建造されたものだ。
初めて訪れたならば、駅のホームだというより宮殿なのではないか? とすら思ってしまうほど。
だが、全体を見渡してみれば急成長の弊害が見て取れるだろう。増改築を繰り返した結果、その駅はもはや迷宮だ。
現代の迷宮。駆逐された伝説の一つであるが、入ったら二度と出ることは出来ないと言われた迷宮の如くこの駅は非常に複雑だ。アンテルシア迷宮と呼ぶ者もいる。
何人もの建築家、芸術家がその技術の粋を尽くした建造物の装飾が入り乱れては、咲き乱れている。
どこを見ても同じものは存在しないが、自分の居場所を見失ってしまう。まるでここは絵の中なのか? と現実すら見失う。
ハワードは慣れたものだ。地元の駅。迷う方がどうかしている。
人でごった返すホームから改札ゲートを通り、これまた人でごった返すエントランスを抜けて駅前広場の出る。
今日は一段とヒトが多いなどと思っていると、原因はどうやら駅前を占拠している集団のようだ。
「貧民街の生活を改善するのです! 知っていますか貧民街の状況を! 我ら下層区の住人がどのような生活をしているのかを! 改善しなければいけません! そうしなければ、また切り裂きジャックのような凶悪な犯罪者を生んでしまうのです!」
労働市民団体が貧民街の生活についての改善を訴えかけているようであった。
切り裂きジャックの犯行が明るみになり、それにつれて貧民街の生活もまた白日の下にさらされた。
その劣悪さは目に余るほどであったという。貧民窟では暴力、性犯罪、あらゆる残虐行為が行われている。
されど誰もそれを知らなかった。だが、それを切り裂きジャックが変えた。
切り裂き魔の登場以前も似たような猟奇殺人事件はあったがここまで残酷で、残忍で冷徹な犯行はなく、何より未だに犯人が正体不明で捕まっていないことが何よりも注目を集めた。
必然、その周囲にも注目があつまり、貧困が人々の目にさらされるようになったわけだ。
当然のように貧民街がある下層区とは全く関係のない中流市民たちによる善良な市民団体が発足された。
貧富の差を正すべくその実貧富の差に不満を持つ者たちがこうして動き出しているというわけだ。
「署名をお願いします。あなたも我々とともに戦いましょう、ミスタ! さあ!」
「興味がない」
年若い青年を押しのけてハワードは、人だかりを押しのけてその場から離れる。
ああいう手合いにはかかわらない方がいい。ああいう手合いに情報を渡せば、裏でどのように使われるのかわかったものではないからだ。
まったくもって最悪な朝だ。
ハワードはため息を吐いた。こういう時は一杯酒でもひっかけて帰るのが常であるが、残念ながらそれはまたの機会になりそうだ。
「ハワード!」
「ミシェーラ!」
どうやらお迎えが来ているようだった。
道の向こう側には見知った顔がいて走って抱き着いてきた。挨拶のハグを返せばすぐには慣れる。
首にかけたゴーグル、シャツにベスト、ズボンという今の時代の女性とは思えない服装をしたハワードのことを迎えに来た彼女はミシェーラ・ベルという。
彼女はハワードの知人であり、幼馴染であり、何かとトラブルの種を持ってくることも多いトラブルメーカーだった。
「どうしたんだ、こんなところで」
「今日帰りだって聞いて、迎えに来てあげたのよ。乗っていくでしょう?」
彼女が背後を指し示せば、確かに彼女の背後には見慣れない型の蒸気自動車が停めてある。企業標準の販売車ではないだろう。どうみても改造車の類であった。
「君のか?」
「いいえ、
「ああ! 勘弁してくれ」
それを聞いて堪らずハワードは天を仰ぐ。
ジョージ・カートナー。
発明家である彼の父は、よくわからないものを作ることでその界隈では有名だ。いわゆるマッドサイエンティストというやつである。
ジョージが発明したものは、それなりに役に立つものもあり、設計図や技術が企業に高値で売れることもある。
だが、その逆もまた多いのだ。役に立たないものや危険なものを何度も、いくつも発明しているのが彼の父である。
その被害を受けるのは当然のように息子のハワードだ。そんな男の車などどうして乗りたいと思うだろう。
「大丈夫よ、私が今まで乗ってきてなんの問題もなかったんだから」
「俺が乗った途端自爆しないとも限らないだろ」
右腕を振りながらハワードはそう言った。
「大丈夫よ、きっとね。下手なところに触らなければ問題ないはずよ」
「だと良いんだがな。眠り姫は起こしたくない」
「私もよ。さあ、乗って」
心配であるがせっかくの自動車に乗らない選択肢はない。トランクを荷台に入れて助手席に座ったハワードは、双眼鏡も兼ねる多機能複合式ゴーグルをつける。
同じように首にかけたゴーグルをつけたミシェーラは、エンジンを始動して蒸気自動車はエンジン音を響かせながら通りへと走り出した。
「ベルガンシンはどうだった?」
「いい街だったよ。みんな気さくでね。でも空振りだった。父さんの予想だけど、大外れだ」
「でも、まったくの無駄骨じゃなさそうね?」
「一応それらしい手稿は見つけたよ」
だが、それだけだったとハワードは排煙交じりの風から帽子が飛ばないように抑えながらやれやれと溜め息を吐く。
「それでも一歩前進じゃない」
「そうだと良いんだが」
そんな会話をしながらミシェーラの運転する蒸気自動車は、大通りを逸れて郊外に向けて走り始める。
必然、人通りも車の通りも少なくなるが今日は違った。バルックホルンヤードの車両と警官の姿が多い。
「なにかあったのか?」
「鉱山から脱走者ですって」
「最近多いな」
「スチームライトの需要は上がるばかりだから」
労働種の脱走は昨今のアンテルシアの大きな問題になりつつある。人権団体も動き出し、労働環境の見直しをするべきだという声が企業にあがっているのだとか。
だが、それは変わらないだろう。誰もが知っているのだ。どうして今、自分たちが生活できているのか。
採掘という危険な作業を行っている労働種がいなくなれば今の生活は成り立たなくなる。
無論、人間の労働者を雇えばいいだけの話なのかもしれないが、労働種と同等の効率は見込めない。
よって、今の便利な生活を維持するために、何か大きな変化でも起きない限り、労働種はいつまでも鉱山などで変わらずに働き続けるだろう。
特に何をするでもなくバルクホルンヤードの隣の隣を素通りしミシェーラが運転する蒸気自動車は、ミッドエンド地区三番地のアパルトメントの前で止まる。
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