蒸気幻想奇譚アンテルシア

梶倉テイク

神秘探求のスチームシーカー

第1話

 ――空を灰色の雲が覆ってどれくらいになるだろうか。


 今やそこには青い空があり、太陽が大地を照らしていたことを覚えている人間は少なくなってしまった。

 しかし、この時代を人々は黄金の世紀と呼ぶ。


 人類種が未曾有の栄華の中にある時代。

 蒸気機関文明の最盛期。

 人々は口々にそういう。特に、公園でゲイトボウルに興じるご老人方は。


 ここ重機関都市アンテルシアは、世界でも有数の最先端機関都市である。

 世界の最先端を行く機械技術と学術、碩学らが凌ぎを削り日々その姿を変えていく現代の巨人。


 重機関都市の例にもれず機関都市アンテルシアにも複数の鉱山が存在していた。

 機関都市の心臓ともいうべき鉱山に存在する坑道は、都市の中にあってなお暗い。

 そこでは労働種と呼ばれる者たちが日々、蒸気石スチームライトの採掘を行っている。


 その中に、一人の少女がいた。未だ幼い時分であるが、採掘道具を構える姿は堂に入っている。

 少女は目標を定めると古ぼけて使い古された削岩道具を振り下ろす。

 甲高い音が坑道に響き渡り、進行を妨げていた岩が砕けた。


 少女の細腕が振り下ろしたとは思えぬ膂力。されど、そんなもの鉱山においては珍しくもなんともない。

 ここで働いている労働種たちにとっては、そんなものは当然のものであるからだ。己に備わった身体能力にいちいち驚く者はいない。


 頭頂にある、些細な音も聞き漏らさぬ耳も、尾骶より生えた尻尾もここではあって当然のものなのだ。

 人間よりも鋭い感覚を使って、少女は目当ての鉱石を探し出す。


 蒸気石。あるいは蒸輝石。そう呼ばれる蒸気機関を駆動させる鉱石を。

 石炭の数億倍ともよばれるほどの超熱量を発する鉱石は、美しい空色をしている。

 きれいな石だ。これを集められたならばどんなにいいだろうかと少女は思うものの、それは許されない。


 ここで掘り出された全ては、企業の所有物。何一つどころか、少女の自身すらも企業の所有する物なのだ。

 スチームライトを見つけたならばそれを掘り出して背嚢の中に詰め込んでいく。一杯見つければそれだけ夕食が少しだけ豪華になる。


 だが、今日はそれを気にしなくても良かった。

 いいや、今日から、かもしれない。


「…………」


 少女は、見張り台の上に立つガスマスクをかぶった企業の監視員の視界から外れるように先ほどから掘っていた横穴の奥へ奥へと進んでいく。

 そこは、外へと通じるトンネルだった。


 鉱山の外へと通じるトンネル。数人で。持ち回りで今まで掘り進んでいたトンネルだ。

 それが、今日開通するのだ。


「来たな。つけられてねえよな?」


 先にそこにいた狐耳の男が入ってきた少女に対していった。

 返答は首肯。労働種の感覚を欺ける人間などいない。その感覚が尾行はないといえばそれは正しい。

 尾行はなく、彼らが暗躍していること、これから逃げようとしていることを知っているものは誰一人としていなかった。


「よし、これで全員だ。行くぞ」


 この少女を含めた五人程度のグループは、この鉱山における一つのチームだった。彼らは少し前から脱走の計画を立て、こうやって穴を掘っていたのだ。

 あともう少し。

 警備が最も緩む時間を見計らい、彼らは穴を貫通させた。外気が一気に吹き込む。


 夜の冷たい風が吹き抜け、重機関都市の排煙と川の匂いが漂ってくる。それは自由の香り。企業の鎖などない。檻などない。自由がそこにはあった。

 知らず少女たちは走っていた。穴から飛び出して、敷地を抜け出す。もう他に、怖ろしいことはないのだと誰もが思っていた。


 そんなことは何ひとつとしてありえないのに。

 労働種はただ労働するためだけに生み出されて死んでいくのだ。逃亡を企業が許すはずもない。いや、運命が許さない。

 労働が出来ない、あるいは労働から逃げ出すような者は処分される。


「え……?」


 最後尾を走っていた少年の困惑が夜の空気を揺らした。

 腹を貫く鋼鉄クロームの感触。熱く、それでいて冷たい刃の感触は急速に生命の息吹を奪っていく。


 追手が来たのだ。

 そう残りの四人は察する。あまりにも早すぎる追手。いいや、もしかしたら最初からバレていて、ここに来ることがわかっていたためにここで待っていたのではないだろうか。


 そう思ったが、そうではない。ただ単純に運悪く、別の相手に行きあたってしまった。ただそれだけである。


「逃げる者には死を。これもまた労働です。まあ、今日は、商売敵の情報を得るべく貴方方の脳を収穫に来ただけですが」


 目の前に立つ白いドレスの女。それだけでこの女が上流階級に属する女であることがわかってしまう。

 この時代、白い服というのは貴重だ。

 排煙が絶え間なく降り注ぐ機関都市において、白いというのはそれだけでステータスなのだ。


 普通は、少しだけくすんだ白。排煙と工業廃水に汚れた河川の浄化水によって生み出される衣服は最初からどこかくすんでいる。

 だが、金をかければ白い服を編むこともできる。それゆえに、白というのは金の証。ブルジョアジーの紋章。労働種の対極と言ってもいい。


 その女は、少女たちを所有する企業とはまた別の企業に属する者であった。積極的妨害を仕事して受け持つ部署に所属する女。彼女の目的は今しがた鉱山から逃げ出してきた労働種が持つ情報だった。


 企業秘密である鉱山内部。どれだけの蒸気石を掘り出しているのか、人員はどれほどなのか。

 あるいは、外に出せない後ろ暗い実験は鉱山の山深い中で行われるから、その情報があるかもしれない。

 新しい坑道を掘り調子に乗っている新興企業の杭を打ち付けてやろうと上司からの命令で女は此処にいる。


 ――さて、女の事情はそんな感じである。

 ゆえに、装備も労働種を相手取るには過剰十分なもの。

 それはスカートの下にあった。

 背中、あるいは彼女が立っている歯車機関から飛び出した刃が丁寧に最後尾の少年の腹を抉っている。それこそが女の武器。

 わざわざ先頭からではなく最後尾を狙ったのは、逃がさないという証左であり、労働種の感覚をもってしても逃げられないということだ。


「くっ――バラバラに逃げるんだ!」


 それでもようやく手にした自由を失いたくない。こんなところで死にたくないという労働種たちの思いを代弁するがごとく、リーダーの声が響く。


「無駄です。このヘルガ・クロックミストからは逃げられない。我が労働には対価が支払われているのですから」


 だが、それは無意味だと、女――ヘルガ・クロックミストが告げる思考操作による起動。彼女が所有する蒸気機関が駆動する。

 鋼鉄の刃、鋼鉄の脚をもつ自走近接蒸気機関が水蒸気を巻き上げ、駆動音を響かせて動き出す。


 スコーピオンと呼ばれる企業のエージェントが持つ武装の一つ。いいや、乗り物の一つ。

 うねりをあげて駆動する歯車の奏でる曲は鎮魂歌。

 共鳴機関によって共振し、赤熱する四枚二対の刃と一つの槍が容易くバラバラに逃げていく労働種の少年少女たちの首を落として穿っていく。


 どれほど鋭敏な感覚があろうとも、それ以上の速度とそれ以上のパワーがあれば何一つ問題になどなりはしない。

 逃げ惑う労働種がいくら軌道を予想しても、無駄だ。


 ハイパワー蒸気機関と加工処理四番。ヘルガの持つ蒸気機関は、通常の市販されているスチームライトの四倍の出力を出すように加工されているのだ。

 生じる莫大なまでの熱エネルギーが余すことなく伝導し駆動するマシンは、当然のように労働種を斬滅していく。


「い、いや!」


 バラバラに逃げ出した少年少女は、ものの数分で細切れにされてしまった。

 もしくは運よくそうされずに済んだとしてもスコーピオンの超過駆動余波によって深い傷を負う。

 誰も逃げられない。ヘルガ・クロックミストは誰も彼もを殺しつくすだろう。


 おかしいと思うだろうか。情報が目的ならば生かしておいた方が良いのではないかと。

 答えはノーだ。例え死んでいたとしても問題などありはしない。必要なのは脳味噌だけだ。


 最新のメスメル学と脳科学、暗示力学の発展により、脳から直接情報を吸い出すなどわけもない。

 よって情報を得るために生かす必要などどこにもなく。そんな労力を割くほどヘルガ・クロックミストは給料をもらっていない。


 労働には正当な対価を、であるが、逆もまたしかりなのだ。

 対価には労働を。支払われた対価に見合った行動こそが企業のエージェントとしての第一歩だ。


 そんな相手と相対してしまったのが、運の尽きではあるが、どうやら逃げ出している労働種の少女は運が良かったのだろう。

 仲間を盾にして、迷いなく置き去りにして、なりふり構わず逃げたのもよかったのかもしれない。時間も彼女に味方した。


 アンテルシアは蒸気機関の街ともう一つ名を持つ。霧の町。それがアンテルシアのもう一つの名前だ。このアンテルシアでは、早朝は霧が出る。霧深い時は、前方数十メートルすら見通すことは敵わない。

 深い霧の中で、岩の地面はいつしか硬い石畳に変わる。

 街の中に入れば、巨大蒸気機関兵器は使えない。スコーピオンは使えない。


「雌を一匹、逃がしましたか。良いでしょう。必要十分な仕事はしました。これだけの情報があれば、問題なく。此処から先は、警察のお仕事です」


 五人分の死体を細切れにして脳味噌を情報集積型のパンチカードという機械が読み取れる形に処理しながらクロックミストは、小型携帯電信機を近くの電話ボックスに繋いで報告を行う。

 お仕事は終了した。ヘルガによる追跡は行われない。


「――っ、ぁ」


 少女にとっての恐怖は追ってこない。

 だが、少女は逃げていた。逃げ続けていた

 怖い敵から何とか逃げ切った。拍子抜けするほどあっさりと逃げ切れたが、安堵とは程遠い。


 彼女の頭頂にある猫のような三角の耳は、未だに自分が追われていることを告げている。

 素足で走るぺたぺたと続く音が響く。


 暗い裏通りには、荒い自らの息遣いのほかに硬石畳を踏みしめるブーツの音と警邏のガスマスク越しの息遣い、硬質な拳銃などの装備の音が響いてくる。

 それは小さくも徐々に徐々に大きくなってくる。


「かくれ、なきゃ」


 このままでは追いつかれてしまうことを少女は悟っていた。

 少女は労働種であったが、今は満身創痍で空腹だ。体力は長年の奴隷の如き生活ですっかりと落ち込んでいる。

 いつかは追いつかれてしまう。だから、隠れなければ。


 裏通りに連なる家の扉を引いて行く。開かない。開かない。開かない。

 裏通りに面した扉は、開かない。綺麗な扉も。汚い扉も。壊れかけの扉ですら全て施錠されている。


 それも当然であった。巷で今、一人の怪人(フリークス)が世間をにぎわせているからだ。


 その名は切り裂きジャック。

 切り裂き魔、猟奇殺人犯、霧夜の殺人鬼などと呼ばれる最悪の蒸気犯罪者がこの都市の暗がりに潜んでいるからだ。

 彼、あるいは彼女のおかげで今、この都市の暗がりには警戒という名の鎖がかけられている。開くことはない。


「おね、がぃ」


 少女は懇願する。

 逃げられるのならば、神様でも、悪魔でも、この暗がりに潜むあらゆる蒸気犯罪者でもなんでもいい。


 ただただ祈るように少女は、裏通りの扉を引いく。壊すことはできない。追跡者に気が付かれてしまうから。

 願う。どこかで見ているかもしれない神に、運命に。


「あっ――」


 真摯な願いは、届く。

 ――扉が、開く。


 裏通りにある扉の一つが軋みをあげて開いた。倒れ込むように中へと入る。後ろで扉が軋んだ音を立てて閉まった。

 慌てて飛びつくように鍵をかける。その直後、扉の向こう側からブーツの足音が響き、遠ざかって行く。目の前で締めたばかりの扉が開くことはなかった。


「……はぁ……ぁぅ」


 安堵の息を吐いた。それと同時にぴんと張っていた糸が切れるかのように床へと倒れる。絨毯も何も引いていない煤汚れの多い黒ずんだ木の床に倒れ込む。

 ほとんど一日中働き続けたあとに、逃げて走った。もう体力は限界を超えている。脚の筋肉は燃えているかのように発熱していた。


 意識がもうろうとする。

 仲間が殺された。追われた。精神の疲労は、何よりも大きかった。

 まだここが安全かもわからないのに、切れた意識の糸は容易にはつながらない。

 瞼は落ちて、そのまま水に沈むように少女の意識は明日、また目覚められることを祈りながら闇へと落ちて行った。

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