第3話――ヒトの世界へ

「隠すつもりはなかったんだ。いつか落ち着いたら話そうと思ってた」


 机の上の、ランプに見立ててガラス容器に納められた電球を見下ろし、ツチノコがぽつりと漏らす。そして自分の言ったことを取り消すように、ブンブンと首を振った。


「いや、もし二人がこうして聞いてこなかったら、永遠に隠してたに違いないな。――あのとき、それだけのことが、オレたちの身に起こったんだ。正直、いまだに夢か現実かよく分からない」


 ツチノコの言葉を、向かい側に座った博士とスナネコは静かに受け止めた。


 ここは図書館の地下。地上階に収まりきらなかった蔵書を保管するための部屋だった。階段を下り、重たい扉を閉めてしまえば、そこは外部から完全に切り離された空間になる。


「先程、博士は私になぜ英語が話せるのかと問いました」


 ツチノコの隣の助手が、じっと博士を見つめる。


「話せるようになって当然なのです。なぜなら、私はそれを実際に見て、そして聞いてきたのですから」

「見た? 聞いた? それはどういうことなのですか」


 博士の問いに、助手とツチノコは目を合わせた。そして、二人はその一部始終を話し始めた――。




――――




 不気味なほど静まり返った闇の中、目も眩むほどの暗黒の中をツチノコはひたすら落下を続けていた。激流のような光の渦は、抜けてしまえば何ともあっけなく、此の闇に比べれば些細に思えるくらい短いものだった。叫んでいるはずの口からは、しかし何も聞こえない。闇がすべて吸い込んでしまっているみたいだ。

 永遠とも思える落下の果てに、ふいに目の前に光が灯る。針で突いたような白点は瞬く間に闇を侵食し、大きく育っていく。


 ――何か。


 ツチノコは思った。


 ――あれは何か。


 思うと同時に、ツチノコの体は闇を抜け、光の中に踊り出した。全身に急速に感覚が戻っていく。指先が硬い感触を捉えた。耳が波の音を捉えた。鼻が湿った潮風を捉えた。そして、目は――。



「――!!」


 声にならない悲鳴を上げて、ツチノコはその場から飛び起きた。目の前が真っ暗であることに、意識を失う直前の光景がフラッシュバックする。無我夢中で頭に取りついた遺物を引き剥がそうと手を伸ばす。冷や汗で湿った自身の手のひらが頭に触れた。フードを引っ張り、髪をかきむしり、音がするほどバシバシと顔や頭を叩き回る。半狂乱になりながら、視界を覆うものを取り除こうとしているときだった。


「ツチノコ! ツチノコ! 落ち着くのです!」


 聞き覚えのある声だった。


「助手? 助手だよな? 助けてくれ。頭のヤツが外れなくて。何も見えねえんだ。頼む助けてくれ!」


 叫びながら、ツチノコは頭をかきむしる。


 ツチノコにとって、完全なる暗闇は初めての経験だった。目を閉じたり、明かりのない暗がりへ行ったとしても、ピット器官は絶えず視界を与えてくれていた。


 それが今はまったくないのだ。あって当然と思っていた感覚を失う恐怖は尋常ではない。


 恐怖に任せてツチノコは頭を叩く。その手を押さえてきたのは、助手の声の方から伸びてきた手だった。


「いいから落ち着くのです! お前の頭にはもう何も付いていないのです」

「ホ、ホントか? ホントにそうなのか?」


 たまらずツチノコは助手の手を握った。その手が安心させるように握り返してくる。小さいながらも、力強い手だった。


「じゃあなんで、なんで真っ暗なのに、なんだよぉ」

「それはお前が目を閉じてるからなのですよ。混乱してるのでしょう? 大丈夫、何も恐ろしいことはないのです。ゆっくり、目を開けてみるのです」


 フレンズ化して間もない者に語りかけるような、やさしく諭す助手の言葉に、ツチノコはようやく自分が固く目を閉じてしまっていることに気がついた。


 恐る恐る目を開けたツチノコは、まぶしい光に目が眩んだ。一瞬、遺物から放たれた閃光を思い出し、身を固くするが、すぐにそれが夕陽の光であることがわかった。赤を含む日差しに照らされた、表徐津乏しいながらもホッとしたように頬を緩ませる助手の顔を見て、涙が出るほと嬉しかった。


「じょ、助手……。あぁ、よかっ……た――」


 思わず抱き締めかけたツチノコは、その助手の背後に控えたものを見て、思わず全身が固まった。


 それは二つの足を地につけ、立っていた。様々な色や形をした毛皮――服と呼ぶべきか――を身にまとい、ツチノコたちを見つめている。大小様々な背丈で立ち並ぶそれらは一様にしてフレンズと瓜二つだった。


 だが、それらにはどこにも尻尾や耳がなかった。フードもなければ、翼もない。動物を表すものを何一つ持たないそれらは――



――視界を埋め尽くすそれらの姿は、まぎれもなくヒトだった。




――――





「じょ、助手……?」


 不安を隠せず尋ねると、固い表情の助手が小さく頷き返す。


「な、な、なんだよ、これ」

「分からないのです。私も気づいたらここにいたので」


 ツチノコは周りを見渡した。どうやらここは港らしい。周囲の人間たちの喧騒に混じって潮騒の音がかすかに聞こえる。海の遠くに見える黒い影は船というやつなのか。初めて見る形のものまである。もっとよく見たかったが、細かく分析する余裕がなかった。


「ねえ、ちょっと」


 突然の声に、二人は飛び上がりながら振り返る。どこか痩せ細った印象のたたたずまいのヒト――印象は異なるが、声からすると女性のようだ――が、恐る恐るといった様子で二人の近くにしゃがんでいた。


 こんなに近づかれたにも関わらず、二人ともその気配を察知できなかった。


「大丈夫? その子、さっきすごく叫んでたけど。お母さんとはぐれちゃったの?」

「え……あ、その……」

「ねえちょっと。誰かこの子達のお母さんかお父さんを見かけてなァい?」


 周りに集まったヒトに向かって声を張りながら、女は立ち上がる。


驚いたことに、その身長はツチノコをゆうに越えていた。キリンやゾウのような背の高いフレンズでもそこまではいかないだろう。――よく見てみれば、周りの人間たちもそうだった。目算だが、誰もが百六十センチ以上はあるだろうか。


「見てないなぁ」

「どっから来たんだろ」

「おーい、みんな」

「事務所にも一声かけたほうが」


 女の声をキッカケに、集まっていた人々の間でちょっとした騒ぎが起こる。その中の、異様に低い声の者が遠くの方へ手招きをしている。その騒ぎを聞きつけたのか、奥の倉庫から大勢がこちらに向かってくるのが、ヒトの隙間から見えた。


「な、なあ。とりあえず逃げた方が良くねえか」

「そうですね……。手遅れになる前に」


 ツチノコは助手の手を掴んだ。「掴まるのです!」と言うが早いか、助手はツチノコを抱きかかえて強く地面を蹴った。

 急上昇にそなえてギュッと助手の体を抱き込んだツチノコはしかし、いきなり倒れ込んできた助手の下敷きになってしまった。


 もんどり打って頭から地面に落ちた助手が、顔を押さえて呻いている。どうして飛ばなかったのか、混乱するツチノコをよそに、いきなり倒れた二人の姿に周囲の人間たちがどよめく。

 「大丈夫か」と心配する声が様々なところから聞こえてきた。数人が助け起こそうと近寄ってくる。近づく者と、その場に留まる者との間に隙間ができた。ツチノコはそれを見逃さなかった。


「立て! 走るぞ!」


 ツチノコは助手を無理矢理立たせると、わずかに開いた隙間を這うように転がり抜けた。助手の手を掴み、呼び止めようとする人間たちの声を振り切り、二人は人間たちの町へと逃げ込んだ。




――――





「はあっ、はあっ、はあっ……!!」


 茂みの中で、ツチノコと助手は息を荒げて座り込んでいた。木々の向こうから見える空は薄暗い。もうじき夜がやってくるのだろう。ピット器官が使えない今、完全に暗くなる前に逃げ込める場所を見つけられたのは運が良かった。


 港を離れ、町へ飛び込み、まるで迷路のような人間の町を走った。所狭しと立ち並ぶ建物や完全に舗装された地面は、いつかジャパリパークの中央部で見た遺跡を思い出した。むろん、遺跡の方はこんなに綺麗ではなかったが。


 いくつも建物を回り、残骸でしか見たことがなかった車やバイクを数え切れないほど追い越して、何度目かの角を曲がったときだった。急に目の前に空が見えた。公園だった。


「はあっ、はあっ。くっ……。ま、まいたみたいだな……」


 茂みの陰から公園の入り口を見る。何人もの人間が公園の前の道を行ったり来たりしているが、誰かを探している様子の者はいなかった。時折道路を車が音をたてて走りすぎていく。あらためてここが自分の知るジャパリパークから遠いところだと言うことを感じないではいられなかった。


「一体、ここはどこなんだよ。オレたちは洞窟にいたはずだよな。それがどうしてこんな場所に。……ぅぐっ!?」


 言ってるそばから、目に何か液体が入った。雨か? と思った次の瞬間、塩気のある強い痛みが襲ってきた。


「がっあっ、じょっ助手、早く木の下に入れ! この雨、何か変だ! 目がぁ!」

「落ち着くのです」


 目を覆って叫ぶツチノコに、助手は静かに言った。見ると、顔や手のひらに擦り傷を作った助手が呆然と自身の手を見下ろしている。


「雨なんか降ってないのです。これは、汗です。汗が目に流れ込んだだけなのです」

「汗だあ!? なんでオレが汗なんか流すんだよ。おかしいじゃねえか!」


 びっしょりと濡れた額を手で拭い、間違いなくそれが汗であることを確認してツチノコを声を荒げる。


 体表面に汗をかくことのてきるフレンズ、もとい動物は限られる。長距離を走る馬か、乾燥を嫌うカバぐらいだ。それ以外となると、かつて一緒に過ごしたかばんくらいだ。かばんはヒトのフレンズだった。ヒトは全身に汗を掻くことができる。ヒト……。そう、これではまるで――。


「くそっくそっくそっ。一体何がどうなってるんだ。オレの体はよォ! ピット器官も効かねえし、これじゃあまるでヒトになっちまったみたいじゃねえか!」

「ヒト……」


 ツチノコの悪態に、助手がポツリと漏らす。助手はまだ自分の手のひらを見つめている。よく見ると、その手は小刻みに震えていた。


「大丈夫か。寒いのか。どっか調子悪いのか?」


 助手のそばに寄ったツチノコが、背中をさすってやろうと手を伸ばす。伸ばしかけたその手を、おもむろに助手が掴んできた。泣きそうな助手の目が、唖然とするツチノコを見つめ返す。


「……ツチノコ。さっさ、私が飛び上がろうとしたときのことを覚えていますか」

「あ、ああ。港のことだろ? 港で人間たちから逃げようとして、オレを掴んで翼を広げて――まさか!?」


 ツチノコが驚いて声を上げると、助手はことりと頷く。掴まれた手が痛くなるほど力を込めて、弱々しく笑みをこぼす。


「そうなのです。飛べないのです。翼を動かそうとどんなに力を入れても、まったく動いてくれないのです」


 助手の目から涙が流れる。それをキッカケに、ボロボロと止めどなく涙が溢れてきた。


「こ、こんなことあり得ないのです……。ヒトになりたいと強く願うことで耳や尾を失ったフレンズがいるという話は聞いたことがあります。しかし、それはあくまで強く願ったことで、動物であるという情報を保てなかったサンドスターが体にゆっくりと変化をもたらしたからで、こんないきなり変化を起こすなんて起こりえないことなのです。まして、私はヒトになりたいなんて考えたことはおろか、願ってすらいないのに、なのに……なのにっ」


 助手が声を詰まらせる。ヒトから逃れて落ち着いたおかげで、考える余裕ができたからだろう。自分の置かれた状況に気づき、噴出する不安を抑えきれなくなっていた。


「助手……」

「どうしてっ。どうしてこんなに暗いのですかっ!」

「暗い?」

「そうです。暗すぎるのです。今までこんな暗闇を感じたことないのですっ。夜がこんなに見えなくなったこと、一度もなかったのです」


 そうか、とツチノコは思った。夜目が利かないのだ。ミミズクは本来、夜に狩りをする生き物だ。その目は暗闇でもよく見ることができる。ヒトと化した今、それすらもうしなってしまったのだ。


「太陽が沈んでから何も見えなくなってきたのですっ。ツチノコっ、あなたの顔も、よく見えないのですっ。このままどんどん見えなくなったら、私はっ、私はっ!」

「落ち着け! 目が見えなくなったりしない! ほらっ、オレを見ろ。うっすらとだが見えるだろう? 夜とは本来、そういうモンなんだ」

「そうなのっ、ですかっ?」


 ハナをすすりながら尋ねてくる助手の手をを引き、震えるその体を強く抱きしめた。港で自分がされたのと同じように、助手を励ます。


「大丈夫。何があってもオレがついてる。だから落ち着いて、深呼吸でもしろ、な? 今頼れるのは助手だけなんだ。そうだ、公園の入り口に行こう。あそこなら街灯があって明るい。きっとオレたちを探してるヤツももういないだろうし。だから、な?」


 ツチノコの提案にとりあえず頷いてくれた助手の体を支えて、二人は立ち上がる。茂みを周り、公園の入り口を目指す。


 背後から肩を叩かれたのは、そのときだった。


「わああああああ!!」


 ツチノコが叫んだ。驚いて前へ走り出しかけるが、タイミングの遅れた助手の重みに引きずられて、その場に倒れ込んだ。


「だっだれだ! だれだ! キッ、キシャー!!」


 頭を抱えて縮こまる助手の体から這い出したツチノコが、肩を叩く体勢のまま固まった人影に向かって威嚇する。人影が困惑したように後ろへ下がる。


「ご、ごめんなさい。君たちが心配だったから、その……」


 弱々しい声がそう弁明する。そこにいたのは、ツチノコと同じくらいの背丈をした、人間だった。目深に被った野球帽から覗く瞳が、不安げに揺れていた。

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