第13話 彼女はヒロインに違いなかった

 月曜日。

 月曜日がやってきた。

 学生や社会人がこの三文字を前にすれば、大抵、どんよりとしたどこか暗い気分になるはずである。


 だが今日の俺は、さほど嫌気がさすわけでもなく、ワイシャツの袖に手を通すことができていた。勉強道具をざっと確認するときも、財布の中身を確認するときも、ちょっとした寝ぐせを手で確かめるときだって、俺の心は、学校やすみてえなあ、というポイントに近づくことがなかった。

 まあ……すこしばかり眠れない夜が長引いて、若干、寝不足ではあるが、それはまあいい。気にするだけ無駄だ。


 登校前の飯はきっちりと取る。その反面、昼はパン一個だ。そして夜もがっつりと食べることにしている。昼が少ないのは、午後にどうしても眠たくなってしまうのと、人がひしめく場所で一人で飯を食う事がなんだか面倒くさいという理由から。


 朝食をもそもそと食べていると、茜がこちらをじっと見つめていることに気が付いた。


「……なんだよ。どうかしたのか」

「にいに、なんか、変」

「なにが、変なんだよ」

「なんていうか……楽しそう」

「はあ? バカいってないで食って出かけろ」

「にいにのほうが先にでないといけないでしょ」

「その通りだ。というわけで俺は出る。歯を磨くから、先にいくぞ」

「あ、ちょっと、にいに!」


 妹と兄では様々なことで比較しても、妹に軍配が上がることが多いが、駆け引きにおいては、まだ茜に後れをとってはいない。

 ……いや、それが本当に勝ちなのかは不明だが。


 俺は口腔内の歯磨き粉を吐き出すと、そのまま口をゆすぐ。

 なんだか、突然、顔も洗いたくなり、そのまま冷水を両手にためてから、顔に浴びせた。

 手探りでタオルを見つけ出して、顔に押し当てる。

 そのまま大きく息を吐いてから、面をあげれば、いつもの変わらない顔が鏡にうつった。


 目つきは悪く、寝不足のせいかわずかに血走っている。

 致命的な寝ぐせは直せども、髪はぼざぼさ。

 乾燥気味の唇は、リップをつける習慣さえない。


「……べつに、楽しそうにはみえねえだろ」


 月曜日。

 変わらない顔。

 俺はそれらをたずさえて、玄関を出た。


   ◇


 教室に入ると、まだ藤堂は来ていなかった。

 ホームルームまであと10分。

 俺もそんなに早い方ではないが、藤堂はさらに遅いらしい。


 普段はどうなんだろうな。

 わからない。おはよう、と声をかけられるのもホームルームが終わってからだ。

 いつも教室にはいったら、ヘッドホンで音楽を聴きながらスマホを見ているだけだった。クラスメイトの誰が、いつくるかなんてこと、気かけたこともなかった。

 

 ……いや、ちょっとまて。

 なんで俺は藤堂の動向を探ってんだ?

 別にあいつがいつ来ようが、遅刻しようが、俺には関係がないだろう。なんでそんなことをわざわざ考えているんだ。

 

 耳が熱くなり、音楽が急にうるさくなった。

 俺は何かを振り払うようにして、ヘッドホンを取った。

 その時だ。


「――おはよー」


 若干、気だるそうに聞こえる声は、まさしく藤堂真白のものだった。

 いまやっと登校してきたらしい。

 遅刻ギリギリだ。イメージと、少し違うが……いや、なんとなく寝不足のように見える。もしかすると、ゲームでもしていたのだろうか。だがゲームができる環境ならば学校でなんてプレイしないよな。じゃあ、違う何かなのだろうか――って、おい、やめろ。またナチュラルに考えてんじゃねえ。


 どこか親近感が湧いてしまう自分の気持ちを必死に抑えた。

 抑えなきゃならない。

 朝、鏡にうつっていた、何も変わっていない自分の顔を必死に思い浮かべる。俺は何も変わっていない。俺は何も変わってはいない。


「あぶなかったー。遅刻するとこだったよ」


 藤堂が言うと、なにかのセリフに聞こえる。俺が言うと、それはただの不摂生に聞こえるだろう。


 クラスメイトの人気者というだけあって、彼女が入室するだけで、何かしらの話題が生まれるようだった。

 彼女は席につくまでに数人に挨拶をされて、数名に話題をふられて、数十名の視線を一身に受けていた。


 なんだあれは、と愕然とする。

 まるで監視をされている囚人か、動物園の檻に入れられたパンダじゃないか。藤堂の行動は誰もかれもが逐一観察し、藤堂はそれを当たり前のように受け入れていた。


 俺なら絶対に耐えられない。

 耐えられないならまだいい。おそらく円形脱毛症とかになって、ウサギみたいにプルプルと震えて絶命するに違いない。


 藤堂の席は、教室のちょうど真ん中の席だった。まるで兵隊に守られた女王のように、太陽系の中心に位置する太陽のように、彼女が全ての人間の中心点であることを示しているような配置だ。


 藤堂は肩掛けバックを机に置いた。髪をさっとなでて、制服のみだれがないかを手で押さえて確認しているようだ。それから椅子をひいて、あとは腰を下ろすだけという段になって――唐突に、こちらに視線を向けてきた。


 俺はとっさに目をそらしてしまう。

 これは悪癖その3ともいうべき俺の習性だが、舌打ちや嘆息にくらべると、生存本能に近い行動といえるだろう。見ないでくれ、と思う。こっちも見ねえから、そっちも見るなよ、という合図である。

 やはり家族からは『目つきも悪く、舌打ちもして、大きく息をはきながら視線を逸らすなんて、だから友達がいないんだ』と指摘されているのだが、もはや、うるせーよ、である。


 もちろん悪気はない。だが、この場合、これが正解なのかも分からない。

 視線は感じるか?――さすがに分からない。だが、視線を戻すことも気が引けた。


「どうしたのマシロ。座らないの?」

「あ、うん、なんでもない」


 教室内のざわめきに、そんな会話が混ざる。

 普段であればなんら気にならないセリフだが、自分が関わっていることを知っていると、やけに大きく明確に聞こえるから不思議だ。


 どうしてだか、しばらく視線を感じていたが、俺はまったく関係ない方向を見ていた。見続けていた。隣の席の……たしか田中……いや、鈴木くんだろうか。彼が居心地悪そうにスマホを隠したのを見て、心の中で謝罪する。すまん、あんたの画面をのぞき込んでいたわけじゃないんだ。だから気分を悪くしないでくれ……。


 申し訳ないことに、俺は藤堂の目を見るくらいなら、隣の席の男子のスマホの画面を盗み見ている疑惑のほうがましだと思ってしまった。なぜかって、もしも奴と目があったら、最後。教室中の生徒が、まるで藤堂に操られているかのように、俺へと視線を向けるに違いないからだ。


 その時はきっと、包囲された犯人のような気持になるだろう。なんの罪なのかはしらねーけども、そんなもの、悪夢を超えて、地獄である。

 だったら俺は『小倉野郎』とバカにされているぐらいが、ちょうどいい。

 ボッチの俺には、それぐらいで限界なのだ。


 チャイムが鳴った。

 先生が入室してくる。

 俺はおそるおそる視線を、戻す。いや、戻すという表現はおかしいか。戻すのならば先生を見るべきである。だが、俺は藤堂の背中を見ていた。

 イチョウ色の髪がふわりと乗っかる、肩のラインを目でなぞっていた。


 はじめてこの教室の、この席に座った時と、室内はなにも変わらないはずだ。

 俺の視界にうつる世界に、物質的な変化はないはずだった。

 

 なのになぜだろうか。

 藤堂の背中が、どこか違って見えるのは、なぜだろうか。


   ◇


 それから、藤堂は俺に話しかけるそぶりさえ見せなかった。

 だが、普通に考えてみても、そんなことは当たり前である。

 俺という人間は、大馬鹿野郎である。

 そんなこと分かってる。


 一度ゲームをしたぐらいで、友達面はない。

 そもそも俺は、『話しかけてくるな』と断るために、近づいたはずなのだ。

 ミイラ取りがミイラになる――なぜか近づいた俺が、藤堂真白の希望を叶えるために、ゲームをすることになった。

 しかし、言ってしまえばそれだけだ。

 それだけなのだ。


 結局、土曜日に学校で別れたからというもの、俺のチャットアプリに、少しシュールなスタンプや、意味不明なスタンプや、そして『ゲームをしよう』といった誘いは表示されなかった。


 たしかにゲームをしようと約束したのは、一回だけのこと。

 よくよく考えてみれば、土曜日のあと、次にゲームをする約束など、していない。

 

 まるで宝くじを買った瞬間から、当たることを疑わないように、俺はなんだか、どこか夢見心地で、全てを捉えていたらしい。だが、当選日に当選番号を見れば、容易に悟ることなのだ。そうだよな、宝くじなんて当たるわけがないよな、と。

 

 記憶とは不思議なもので、昨日まで覚えていたものが、ふっと指の間をすり抜けるようにして脳みそから流れ出てしまう。

 あんなに勝手に再生されていた数々の映像は、どこか、他人事のように感じられた。


「えー、ほんと? それ、すごいね」


 なんの話題かは知らないが、授業がはじまる少し前に藤堂の声が聞こえた。

 何かに驚いているらしい。

 それは確かに、土曜日、目の前で見ていたはずの表情なのに、今では、なぜその表情を彼女が浮かべていたのかを、的確に思い出すことができなかった。


 昼休みがやってくるまで、俺は変わらずにボッチ人生を過ごしていた。

 授業中も、合間の休憩も、そして次の授業も――俺は、いつもと変わらない時間を過ごせていた。


 いや、すまん、ひとつだけ誤魔化した。

 朝のホームルームのあとに、藤堂が、ここ数日のルーティン通り『おはよ、黒木くん』と伝えるために近づいてきたと察した俺は、とっさに席を立って、トイレに向かった。

 藤堂は俺を追いかけてくることなく、そのまま、別の友達に話しかけていた。いや、冷静に考えれば、最初からその友達に話しかけるために歩いていたのだろう。俺はそう信じることにした。


 じつのところ、昼休みを目前にひかえた授業を受けながら、俺は、少し安心していたのだ。

 どこか、そわそわしていた気分が落ち着いている。

 どこか、変わりそうになっていた何かが、だいぶ薄れてきている。

 自分が自分でなくなってしまうような夜が明けてきている。

 

 やはり俺は生粋のボッチだと思う。

 朝、たった数分、藤堂の行動を目で追っただけで思ってしまった。


 俺にはついていけねーな、と。

 こんな生活俺には無理だな、と思ってしまった。

 

 これが漫画やアニメならば、主人公はみるみるうちに、内面を変化させていくんだろう?

 ボッチだのヒエラルキーの最下層だのと、それっぽい単語から始まる主人公が、いつしかヒロインの行動によって変化していくんだろう?

 なんでそんなに都合よく、頑張れるんだよ、お前――俺はそういった主人公に疑問を抱き、若干のあこがれをもちつつ、やはりリア充をさげすむように、作品から目をそらしていた。

 途中まで共感してしまっても、物語が終わるころには、疎外感を感じているのだ。


 だが――安心しろ、黒木陽。

 おまえは主人公じゃない。

 おまえはただのボッチでしかない。

 クラスメイトの中心になれるわけがなく、それこそなる気もない。

 なりたいとも思えない――だから、俺は少し安心しているのだろう。


 なぜなら、このままいけば、俺は挑戦しなくて済む。自分を変えるために、がんばらなくて済む。傷つかなくて済む。なぜか、そんなことにホッとしている自分がいた。


 そう――やっぱり俺は、自業自得のボッチなんだ。

 そうだよな、それが俺なんだ。

 たった一日、関わったぐらいで、藤堂真白のような人間と俺の道が交差するわけがないのだ。

 それは創作の世界のルールであって、現実の世界に適応されるものではなかったのだ。


 だが、藤堂真白は、俺なんかが考える枠におさまる人間ではなかった。何度いえばわかるのだろうか。俺はやはりその時まで理解していなかった。なぜヒエラルキーの上におさまることができるのか、ということを理解できていなかった。


 俺は主人公じゃない、確かにそうだ。

 しかし、藤堂真白という生命体は別だった。誰が、いつ、どの角度から切り取ってみたって、彼女はヒロインに違いなかった。


 それは、その日の、昼休みに起こった――。

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