第39話 転職

俊樹は、タクシーを降りると、深く深呼吸をしながら、空を見上げた。今夜は新月か、空に光が全くない。ただ、渋谷方面は少しオレンジがかって見える。それでも、Midnight Blueというよりも、Lamp Blackに近い。

敷地に入り、石畳を3mほど進み、外階段を2つ上り、白壁のマンションのエントランスでセキュリティコードを打ち込む。正面の開き戸のロックが開く音がした。鉄鋼製の割にはスムーズに開くその扉についたバーを引き、中に入る。ホールにはオレンジ色のライトが明るく輝いている。ホールの通路の奥に向かって進んでいく。左右にある2基のエレベーターの上りボタンを押すと、すぐに左の1基のドアが開いた。俊樹は、それに乗り込み、12階まであるボタンの中から”5”と描かれた場所を押すと、ドアがスーっと閉まり、動き出した。

エレベーターが5階で開くと、オレンジ色の光が迎えてくれる。ホールよりも少し照度を落としているように感じる。エレベーターを降りると、向かい合っている1基の右側に、2基を繋いだ線と平行に通路がある。

さて、この通路の右方向か左方向か、まだ覚えていない。俊樹は、通路の前面に貼ってある部屋番号の案内板で左側だと分かった。廊下の左側からは、肩ほどの高さの白い塀越しに、マンションの北西側に広がる中庭とその向こうに、俊樹が今いる建物と同じ形をしたもう1棟が見える。右側は、腰の高さの白い柵が続き、各家の玄関の前の部分だけ、同じ柵が門のように開く。俊樹は、3番目のドア柵を開け、玄関ドアの右側についたベルを鳴らすと同時に、鍵を出して、2箇所のロックを開ける。内側から「は〜い」という聞きなれた声とともに春麗が顔を出した。

白い長袖のTシャツにBED & BREAKFASTのツートンの細い横縞ボトムを履き、デニムのエプロンをしている。化粧は落とされ、髪をポニーテールにして黄色いシュシュでまとめている。タクシーの中から電話をしておいたので、何か摘む物を用意してくれているのだろう。本宅では絶対に考えられない光景だ。

「お疲れ様。食べてきました?それとも?」

「あぁ、仕事から直接で、何も食べてないんだよ。」

「OK!それじゃあ、少し作りますね。お風呂入ってくつろいで。

部屋も片付いたし。」

無邪気な笑顔に俊樹は癒された。


風呂から上がると、下着と着替えが置いてあり、脱いだものはもう洗濯機の中のようだ。そんな状況にホッとして、自然に口元がほころんでいることに気づく。

俊樹が、肩にタオルを掛け、頭を拭きながら出てくると、春麗が声を掛ける。

「お仕事は、相変わらず大変そうですね。なんか、楽しそうですもの。ふふっ。無理しちゃダメよ。皆さんも一緒だったの?

さぁ、一緒に召し上がりましょ。私もお腹空いてて。ふふっ。さぁ、どうしましょうか?飲みたい?ちょっとお疲れ気味みたいだから、今日はお味噌汁とお茶を楽しんで下さらない?お味噌汁もだいぶ上手になったの。品評してほしいなぁ。」

春麗の、目を細めた笑顔が疲れを吹き飛ばしてくれる。やっぱり、こういう家庭がいい、と思う。

「今日は、みんな先にIndigoに行った。俺はそれから暫く仕事が残ってて、終わってまっすぐここに来た。」

俊樹は、そう言いながら食卓についた。ランチョンマットの上には、味噌汁と白いご飯、秋刀魚の塩焼きと大根おろしに、キャベツとプチトマトの和風サラダと、小皿と湯のみが1つずつ。中央には、醤油ときゅうりの漬物と急須がある。日本人よりも日本的なこの風景にホッとした。


「食事、上手くなったなぁ。それに短時間で準備して、大したもんだよ。」

「こないだ、THLの女子会で家庭料理とか、『おふくろの味』?、とか、いろいろ教えてもらって、それから本屋で調べてみたりしたのよ。あと、疲れてる時はどんなものが良くて、とか。努力の甲斐ありね。ふふっ。やっぱり、俊樹さんに褒められると嬉しいわ。」


2人で食器を下げながらのこうした他愛もない会話も楽しいものだ。春麗が洗い物を始めたので、俊樹は暫く横で見ていたが、洗い終えた食器を拭きながら、会話の続きをすることにした。


「ねぇ、俊樹さん?また相談なんだけどね、仕事を変えようかと思うの。転職っていうの?」

「ほぅ。どうした?何をやりたいの?」

「コンサルティング。」

「へぇー!?どうしてまた?」

「THLの皆さんの影響、でしょうね、きっと。」

「コンサルティングって言っても広いぞ。何やってみたいの?」

「実はね、今の会社でお付き合いのあるコンサルティング会社さんがあるのね。その会社さんの仲間?の同業の会社さんが、中国ビジネス関連の事業を拡大するんですっていうのを知って、ちょっと聞いてみたの。そうしたら、一回見に来てみないかって。その会社、15人だけの小さな会社なんだけど、霞ヶ関にあって、通勤も楽になるし、お給料も今よりいい条件なの。ただ、私、全くの素人だし、どうしようかなぁ、って。会社は創業20周年だって言ってたから、ベンチャーではないの。

私ね、見に行ったら、もうその気になってしまいそうだから、今のうちにもうちょっとこの会社のこと知って、冷静に考えたいんです。

どうしたらいい?」

「それじゃあ、調べてあげるから、会社、教えて。

いい会社だといいなぁ。俺は、春麗がやりたいことに挑戦するのは賛成だ。ただ、会社や仕事の内容で人生が変わってしまうから、一緒にしっかり考えよう。春麗は、小さいながら中国で経営もやってるし、貿易業務もやった。中国語も日本語もOKだし、英語も少しはいける。そもそものものの考え方がコンサルティング業界に向いてるとも思う。素養はあるってこと。

心配なのは、、、コンサルティング業界が、成果主義だし、時間の拘束や営業や頭脳戦も結構しんどいっていうことは、俺たちを見てるから分かってるよな?」

「はい。でも、何も知らないわ、私。何がお金になるのか、どんな進め方をすればいいのか、日常生活も。」

「今年、夏に結局、大阪は行ったけど、タイにはいかなかっただろ?有給は残ってるか?できるなら、有給休暇を取って、1週間ぐらいインターンシップで入れてもらったらどうだ?あと、辞めるなら、今からだとタイミングは年末だな。ボーナスをもらってからだよ。」

「インターンって何???」

洗い物を終えて、エプロンを外しながら春麗が聞く。

「ちょっとその前に、少し仕組みを教えてあげようか。」

「待って待って、、、ノート。。。」

俊樹が、冷蔵庫から缶ビールを2本出して、ソファの下に座ると、春麗は、ソファにうつ伏せに寝転がり、ノートを開いて、俊樹の顔を覗き込んでいる。

「まず、どういう職種で入るのかだけど、経理とか総務とかの仕事が中心なら、いわゆる管理部門っていわれるところで、こういう部署は稼ぐことが仕事じゃない。っで、それ以外は、稼いでこないといけない。これには2種類あって、フッカーとかプロデューサーとかいわれる人たちとコンサルタント。ここまでOK?、、。よし。

フッカー、プロデューサーっていうのは、新しい仕事を取ってくる人。例えば、お客さんのところに行って、「こんなことで困ってませんか?うちに任せてくれれば解決しますよ。」って提案して、「お願いします」って言ってもらって実際の仕事がはじまるよね。そこまでが彼らの仕事。だから、企業を知ることと、キーマンとの関係づくりが非常に大事。コンサルタントは、大抵、「お願いします」って言ってもらうために、プロデューサーと一緒に行って、もっと深く話を聞いて、具体的な解決策を提案して、決めてもらう。そして、そこからが本番で、実際に導入してもらって結果を出すことが仕事。

コンサルタントは、事案を経験していくことでその人の力が上がっていくでしょ?だから、ジュニアっていうポジションから、コンサルタントになって、シニアに上がっていく、名称は会社によってマチマチだけど。

大抵のコンサルティング会社は、こういう仕組みだけど、うちは、プロデューサーがコンサルタントに近い仕事まで入り込んでやってるから、幅が広くて奥行きも深い。

よく言われるのは、稼いできた金の1/3が年収。逆に言うと、年収で700万円欲しければ、最低2,100万円は稼げってこと。でも、もちろんこれは一般的な話。

それと、相手にする業界によってどれだけ稼げるかは大きく違う。物流会社なんかは、利益率が低いから大して出せない。経営コンサルティングになると、会社の生き死にに関わるから責任も重いけど身入りもいい。海外部門は、企業買収やら大きい件もあるけど、小さな件もある。

そんなとこを感じて、1週間その会社でタダ働きさせてもらっておいで。」

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