第33話 新たなダンジョン

「お先!」

俊樹は、小声で言いつつ、みんなが忙しくする中、少し罪悪感に苛まれつつ、オフィスルームを後にした。日も沈みきっていないこの時間帯は、帰宅ラッシュもあと2、30分後から始まる感じだろうか。

品川駅の改札を出たところの時計台の下に18時。その水族館は21時が最終入場で、18時台のフィーディングや20時のイルカショーなどを考えるとこの時間には入りたいという。春麗の要望は子供のようだが、たまにはいいだろうと、無理をして仕事を切り上げた。

17時55分。春麗はすでに来ていた。黒い長袖のTシャツの上から茶色いお尻丈の薄手のコート。前をしめていると細身のウエストが強調される。下は、薄いブルーのスキニージーンズに膝下まである細身の黒いヒールブーツ。少し茶色く色を落としたウエービーな髪は、自然に左右に分けられ、後ろに流している。目尻とまつ毛をやや強調した目元と眉に真っ赤なルージュ。俊樹を見つけて、甘えたように少し首を傾げ、優しく微笑みながら、胸元で小さく手を振る。

「よおっ。你好吗?(元気か?) 早いな。」

「だって、楽しみだったんだもの。遠足前の子供みたいなものよ。」

春麗は、そう言いながら、ポケットに手を入れた俊樹の左腕に自分の右腕を回して、2人で歩き始めた。俊樹の大きな歩幅に合わせるように、春麗も少し無理をして大股でくっついていく。

国道15号を渡り、ホテルの間を抜けていくと、水族館のエントランスが見える。

「こんなの久しぶりだから、楽しみ!っていうか、日本に来て初めて。八景島も行ってないし。」

「そうだな!だから俺も今日は頑張って仕事を捨ててきた。こんな俺を褒めてくれ。」

「俊樹さん、素敵よ。偉かったわね。たまには仕事を忘れるのも大事ですよ。今日は2人でこちらをEnjoyね!えへっ。」

エントランスを抜け、中に入り、暫くの間、デコレートされた水槽の中のいろんな魚介類を見てまわった。それから、オットセイのフィーディングを見て、イルカショーに行った。ナイトバージョンのショーは、色鮮やかなウォーターカーテンの中、イルカたちがゆったりとパフォーマンスを繰り広げ、日常を忘れられた。それから、水のトンネルや、一面の大水槽の中を泳ぐ魚たちを、手を繋いで見に行った。いつになくはしゃぎ甘えている春麗と一緒にいるだけで俊樹も気持ちをリフレッシュさせることができた。

9時半頃に水族館をあとにした。外に出ると、少し冷たい風が、空腹と心地よい疲れを体から剥いでいくようだった。そのまま隣のホテルエンペラーのブッフェレストランに入り、照明を落としたフロアでグラスワインを飲みながら食事をした。

「俊樹さん、楽しかった?私、ものすごく充実してたわ。癒されるって、こういうのを言うのね。目も癒されたし、俊樹さんと繋いだ手から体もゆったりできたっていうか、どこかきっと安心したのね。なんかね、水のトンネルの中で肩を抱きしめてくれてたでしょ。あれね、胎児になったみたいだったわ。あの時だけ、周りにあまり人がいなかったじゃない?なんか、あそこから動けなかったのよ、私。時間が止まって欲しかったぁ。

私、子供みたい?ふふっ。」

「2人にとって、これが今日だっていうことにも意味があったんだろ?

偶然なんだけど、昨日、会社で引き出しが抜けちゃってね。ははっ。その引き出しに昔からの手帳とノートが詰まってたわけ。っで、6年前のがあったんだよ。

今日って、ちょうど上海にいて、正大広場のディンタイフォンで大きな契約が決まったお祝いをした日なんだよな。初めてディンタイフォンに行って、小籠包がこんなに種類があって、こんなに美味いのかって。っで、仲間はみんなカラオケに行っちゃったんだけど、俺だけ、ちょっとのんびりしたくてさ、あとから行くからって、ウインドショッピングしてたんだよな。っで、ちょうど階段のところに差し掛かったら、春麗が大きな段ボールと一緒に階段から転げ落ちてきたんだよ。周りは、あんなにみんな平然と無視すると思わなかったよ。」

「そう。私のスカート破けちゃって、俊樹さんが、スーツのジャケット脱いで、私の腰に巻いてくれたの。ちょうど、仕入れの商品を取ってきたところだったんだけど、人にぶつかっちゃって、バランス崩して落ちてしまったのよ。ふふっ。」

「それにしても、あれだけ大胆に落ちたのに、腕の擦り傷ぐらいだったよな。ははっ。、、、っで、お前の店まで段ボールを抱えて行って。そしたら、春麗、それまで全く口開かずにペコペコしてたのに、急に流暢な日本語で話しかけてきたからびっくりしたよ、あの時は。それで、店番までさせられて、その間にスカート履き替えてきてさ。見ず知らずの外人に店番っていうのも、中国だなぁって思って面白かった。」

「思い出したわ。ほんと、その節はありがとうございました。っふっふっ。っで、お店を閉めてしまって、ご飯食べに行ったのよ。貴方はお腹いっぱいだって飲んでたわよねぇ。」

「、、、。

そうだよ。それが6年前の今日だ。

春麗、ごめんな。今までも、2人でいられた年は、何かしら記念日してたんじゃないのか?俺が気がついてなかったってことだろ?」

「まぁ、そうですね。でも、それはそれで良かったし、楽しかったわ。たとえば、去年の京都旅行。円山公園の前で湯豆腐食べて、お揃いの鈴のお土産買って。その前の年は、ちょうど上海にいらしてたから、確か記念日の翌日が土曜日で、私、車借りてきて、洋山港の公園に行ったわ。」

「そうだよなぁ。すまん。鈍感すぎたな。

っで、今年はなっ。ここにお泊りなんだよ。部屋を取ってある。今日は家族にも出張って言ってあるし。明日は土曜だしゆっくり帰ればいい。」

「あらっ!そうなの!嬉しい!!

今年はもしかしたら、私のうちにお泊りか、お帰りかって思ってたの。でも、水族館はほんとに楽しかったから、一緒にいられたことを感謝しようって。」

「じゃあ、もう11時になるし、チェックインしちゃおうか。行こう。」


部屋のキーを受け取り、エレベーターに乗り込み17階を押すとドアが閉まった。っと同時にiPhoneのバイブレーション。LINEメッセージの着信を知らせる振動パターンだった。表示を見ると、THLのグループLINEである。


「皆様に御礼とご報告


こんばんは。葵 です。

先日は退院祝いをありがとうございました。

生きてて良かったって、あらためて思えて、これからも幸せをつかんで行こうって思えました。

そしたら、あの夜、星降る夜景の中で幸せが降ってきました。」


「お疲れ様です。

岡田です。


純平&葵は、結婚することにしました。

今回の葵の怪我でいろいろ考えるところがあったのは、前にも皆さんにご相談した通りです。

橘のおじ様、おば様にも受け入れて頂けており、葵と家族としてやっていこうと決意した次第です。


まずは、ご報告まで申し上げます。」


俊樹は、読み終えると、春麗にiPhoneを渡した。

まぁ、順当で、良かったと思いつつ、なぜか非常に冷静だった。

「良かったなぁ。」

「ほんと!素敵!俊樹さんはキューピットね。嬉しいわね。」

「、、、春麗、俺もお前と暮らしたい。。。」

「ダメ!俊樹さん、頑張って。私は今の形も気に入ってるわ。ふふっ。

、、、絶対そんなこと考えたらダメ!全てが無くなるわ、手のひらから砂がこぼれてくみたいに、風で飛ばされてくみたいに。

壊れるのは、、、消えて無くなるのは、簡単なんだから。俊樹さん!頑張って!私は大丈夫!」

瞳の奥底から微笑んで俊樹の顔を見つめる春麗が、俊樹の手を握り、手の甲にキスをした。

「まだまだ私たちのあり方は進化できるんだから。。。」

俊樹は、今までにない春麗の強さと深さを感じずにはいられなかった。そして、2人の新たなダンジョンに降り立ったように感じて、楽しみに思えた。

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