第32話 退院という契機
土曜日。春麗を自宅でピックアップして、自由が丘の時間貸しの駐車場にBMW320Siを停めたのは10時半だった。午前中は2人でデートをして、午後には吉祥寺の純平の家で葵の退院パーティーをする。
まだ、早いせいか、人出がそこまで多くはない歩道を歩きながらウインドショッピングをする。北欧家具の店やイタリアの雑貨屋などを見て回った。この種のショップは、白い壁に一面のガラスの店構えという風情が多い。春麗の装いがよく似合っている。紺色の薄手のニットセーター、ベージュのロングスカートに高さ10㎝ほどの薄い黄色のサンダル。少しウェーブのかかった髪を後ろに流し、ブラウンの大きなコームでまとめている。東欧北欧の雑貨を取りそろえた店に入り、まるでヨーロッパに2人でトリップしたような気分に浸りながら、春麗が葵の快気祝いとTHLのメンバーに鍋つかみやトレーなどを買った。俊樹は、春麗の家の壁にと、春麗が気に入ったタペストリーを1枚買った。そのあと、カフェに入り、菓子パンとコーヒーをオーダーして、30分ほどで車に向かって歩き出した。途中、自由が丘で有名な洋菓子屋でクッキーの詰め合わせを買った。
吉祥寺の純平の家から1ブロック隣に15台ほど停められる駐車場がある。そこにシルバーメタリックのVOLVO S80と同系色のAudi A4が並んでいる。もうすでにメンバーは集まっているようだ。隣のフォルクスワーゲンのバンを挟んで、俊樹は紺色のBMW320Siを停めた。
御影石の外観が高級感を醸し出している7階建てのマンションのエントランスで、俊樹が”506、CALL”と押すと、直ぐに相手が出た。
「どうぞ。」
葵の母の声である。ガラス戸のロックが開き、中に入った。洒落たオレンジ色の壁掛けライトがほんのりと優しい光を放っている。エレベーターホールで上印のボタンを押して待っていると、程なく10人乗りのエレベーターが開いた。5階に上がり、片側が外に面し、反対は白い壁の廊下を歩いた。廊下の中ほどに506号室はあった。ネームプレートを入れるスペースに木製のプレートが吊ってある。『岡田純平 橘葵』
ベルを鳴らすと、金属製の少し重たいドアが開き、隙間から、玉田の顔が見えた。
「よぅっ。入って。」
「どうも。」
半畳ほどの玄関の右側は一面白いシューストッカーになっている。2人は、出された真新しいスリッパを履き、家に上がった。薄いブラウンの絨毯がまっすぐに続き、白い壁がまだ新しい。途中、左右にドアが2枚ずつある。この廊下を抜けると、15畳ほどのリビングダイニングになっている。左側の壁にはサイドボードがあり、その手前に2人掛けのダイニングテーブルと椅子が2脚配置してある。今通ってきた左側がキッチンになっており、カウンターでダイニングと仕切られている。部屋の右側の壁際にあるローホードの上には、60インチの液晶テレビと小型のオーディオセットが乗っている。
その正面には小ぶりのガラステーブルと、テレビの方を向いて2人掛けのソファが置いてある。その隣の部屋に繋がる木の扉は開けられており、奥には、2人が座って仕事のできる、横長の板がテーブルのようにセットされて、PCや書籍が並んでいる。そこにハイストールが2脚置いてある。
今、浩一と純平がソファを窓際に動かそうとしていた。その周りに由美香と香穂が立っている。葵はこちらを向いてダイニングチェアに座り、ギブスの右脚を壁際方向に伸ばしている。葵の母と玉田がキッチンから出て来た。さすがに2人で住んでいるところに9人というのは、手狭感があるが、楽しい雰囲気が全体に広がっている。
春麗がみんなに声をかけた。
「こんにちは。遅くなりました。葵さん、退院おめでとうございます。」
「いらっしゃい!さすがに手狭だけど、許してね、って、私もジュンくんの家に転がり込んで来てるだけなのに。ごめんね、ジュンくん。」
「いやいや、ただ9人は想定外で。へへっ。」
「こないだ、シュンちゃんと由美香ちゃんと女子会になって話してたんだけど、純平君、ごめんなさいなんだけど、きっと暫くはここがTHLのベースになると思うのよ。」
「、、、ですよね、、、。そんな予感はしてますが。暫くは、僕のプライベートはなくなるということで。でも、葵の笑顔が増えそうだから、いいんじゃないですか、それで。」
キッチンから出たり入ったりしていた葵の母が声をかけた。
「さぁ、女子は料理を運んでくださいね。浩一さん、ドリンクを運んでいただいてもいいかしら?まぁ、立食というか、思い思いに床に座って頂いて。トレーがあるから、テーブル代わりに使いましょう。」
「私たち、皆さんにちょっと買い物してきたんですけど、トレーもあるの。乾杯して、皆さんのお祝いを開けるときに出しますね。」
「それじゃあ、今日は、Jimmyと葵ちゃんから一言ずつ頂いて、乾杯しよう。と言っても男性陣は今日はアルコールフリーですが、女子はお好きなように。」
みんなが葵の退院を喜んだが、母の顔は安堵が見て取れた。純平の葵を見る顔は、本当に嬉しそうだった。
結局、夜8時頃に一応のお開きとなり、みんなでワイワイと片付け、解散したのは9時頃になった。葵も松葉杖で駐車場まで見送りに来て、各カップルが車に乗り込んだ。葵の母は、俊樹の車に乗り、春麗の家に泊まりに行った。
純平と葵は家に戻り、2人でソファに座った。純平は、いつも通り左側にいる葵の肩に手を回し、寄り添った。ギブスの右足が少し邪魔だったが、久しぶりのこの体制は安心できた。暫く2人とも黙っていたが、葵が口を開いた。
「ジュンちゃん。心配かけてごめんね。それと、ほんと、色々ありがとう。私、ジュンちゃんの彼女で良かったよ。それに、THLのみんなにもいろいろ良くしてもらったのを、いっつも後ろからジュンちゃんが支えてくれてた。まだまだ1人で何にもできない状態は続いちゃうんですが、宜しくお願いします。」
「いいか?俺と葵はもう2人で1つの人生を歩み始めてるんだよ。葵は俺といなくちゃダメなんだよ。俺のためにも、お前のためにも。これからの豊かな人生は一緒に作っていくんだよ。」
「ふふっ。プロポーズみたいよ?」
「いや、プロポーズがこんなんじゃ寂しいだろ。
、、、葵、、、。久しぶりにドライブに行こう。やっと行けるようになったしさ。俺の慰労で一緒に来てくれよ。」
「これから?!えぇっ?大丈夫?疲れてない?」
「全然大丈夫だよ。行こう!」
純平は、車の鍵や財布を取りに奥の部屋に行き、2人の薄手のコートも持ってきた。
アルファードに1時間以上乗ったが、さすがに道は空いていてスムーズだった。少し疲れたのか、葵は途中で少し眠った。緩やかな登りのカーブを繰り返し、ほぼ真っ暗な湘南平の駐車場に着いた。純平は、車のキーを抜き、運転席を降りて、助手席側へと回った。ドアを開け、手を貸して、葵を下ろし、コートを羽織らせた。それから、松葉杖の葵を連れて、展望台に行き夜景を見た。純平たちの他には、2組のカップルがいるだけだった。快晴の夜空に散りばめられた星から続く夜景は、黙って見ているだけで2人の世界を作ってくれた。
「葵。あそこの芝生で寝っ転がりたい。行こう。実は今が、りゅう座流星群のピークなんだってさ。」
2人は芝生に移動し、頭をくっつけて大の字に寝転がった。
「ほら、あそこ!流れたの見えた?、、、ほらまた。」
「ほんとだ!見えたよ!なんかいっぱいお願いできそう!」
「願い事できるのは、一晩に一回だけなんだよ。でも、今日は2つ目も願い事できるかもな、これに。」
純平は、左腕を天に伸ばした。頭をつけて左側に寝そべっていた葵には、すぐには意味が分からなかったが、純平の伸ばしている腕の先、左手には、ダイヤの光るリングが摘まれていた。
事態を理解した葵は、ふうっと大きく息を吐いて、右腕を純平の左手に向けて伸ばした。リングに手が届くと、純平はそれを葵に預けた。すると、葵は、「ぅぐぅっ、びゃぁっ、じゅ〜んく〜ん、ぅぎゃぅ」と泣き始めた。純平は、半身を起こし、蓋をするように葵の唇に自分の唇を優しく重ねた。葵が少し落ち着いたところで、葵を抱き起こし、2人は芝生の上に座り込んでいる。葵の右手から指輪を受け取り、ギブスの先から出ている左手にそっと触れ、薬指にそれをはめてやった。葵は、またふうっと大きく息を吐いて言った。
「ジュンくん。ありがとぅ〜。ぅぐぅっ、私、ジュンくんに、ずっと、ついていっていいんだよねぇ〜。んぐぅっ、」
純平は微笑みながら、葵を抱きかかえるように立たせ、松葉杖を渡しながら、言った。
「結婚しよう。」
「うん。」
葵は子供のような純粋な眼差しで純平を直視しながら頷いた。
少し冷えた体を軽く支えながら、2人は車に戻った。
エンジンを掛けると、流れてきたSadeのKiss of lifeが心地よかった。
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