第15話 それぞれの幸せ
JR有楽町駅南口。土曜日の改札周辺は行き交う人と待ち合わせをする人達で見通しが悪い。岡田純平の腕時計は11時10分を指している。今日は、葵の買い物に付き合うことになっている。そして、夜は葵の誕生日を二人で祝う予定である。ポケットにはプレゼントに買ったアガットのファッションリングの箱を忍ばせている。
早くも入道雲が浮かぶ青空はまるで初夏を思わせる。今日は、梅雨の合間の快晴で良かった。
少し心配気に見回す純平の目に葵の笑顔が飛び込んできた。
「ごめんなさい!遅くなっちゃった!時間通りに着くはずだったんだけど、なんでだろう。。。」
純平は笑みを浮かべながら答えた。
「大丈夫だよ。葵は、大体3回に1回ぐらいのペースで10分前、時間通り、10分遅れっていうのがパターンだってもう分かってるから。」
「ごめん。。。」
葵は少し悪戯っぽい顔をしてうつむき加減に返した。
「さてっ?とりあえず銀座方面だろ?服と靴を買いたいって言ってたよな。時間はいっぱいあるし、今日は買い物に付き合う気満々だから。バーゲン時期だけに行きたいところもいっぱいあるんだろ。」
「ありがと。ちょっと前までは、一人で行くか、女同士ばっかりだったのに、嬉しい。でも、バーゲンに一緒に行くのはこれからは控えるから。先に言っておくね。きっと今日で呆れられちゃうから。」
「そうなの?そうかもしれないけど、俺も今日はいいものがあれば洋服買おうかなって、、、時間があればだけどね。とにかく、今日はバーゲンを漁る本性むき出しの葵を観察しようかなって。」
「怖いわよ〜。覚悟しておいてね。っふっふっ。」
「無理に飾ってない葵がいいんだよ。俺も一緒にいて自然体でいられるから。だから、気にせず楽しもうな。」
「ありがと。私もだよ。なんか自然なのが、むっちゃ幸せなんだよね。ハッピーだよ、純ちゃん。」
「意外と道、すいてて良かったな。ここまで渋滞なしだもんな。」
同じ頃、由美香は、玉田のAudi A4の助手席に乗って鎌倉に向かい国道1号線を西に向かっていた。
「私の日頃の行いがいいからかな、なんて。」
「そうだな。でも、俺のほうがもっと幸せあげてるつもりだし、行いいいんじゃない?っはっはっは。
まぁ、由美香のハッピーな顔が俺を幸せにしてくれてるから、俺の負けか?っはっは。」
玉田と由美香は、ほとんど渋滞にひっかかることなく、鎌倉八幡宮近くのコインパーキングに車を入れることができた。
二人は、手をつないで、黙ったまま小町通りに向かってゆっくりと歩いている。同じ景色を見て、同じ入道雲の青い空を見て、繋いだ手から息遣いを感じて、なんて落ち着くんだろう、と深く空気を吸い込んでいた。玉田は、繋いだ左手を離して、由美香の肩をそっと抱き寄せた。由美香も右手を離すと同時に玉田の腰にまわして、玉田のほうに少し頭をもたれ掛けた。由美香は、いっそう玉田の息遣いを感じる気がして、ここが私の場所だ、と幸せに思う。爽やかな風が二人を通り抜けていく。
「景色、写真に取ってもいいかな?葵、今日誕生日なの。送ってあげようと思って。」
「ビルフォーレンの岡田です。お世話になっています。河合さんですか。、、、どうも。
お電話したのは、RITSのグローバルリスクについての第一次分析が終わりまして、今、保険関連のビッドの方向性が固まりつつあります。ビッドの内容も、グローバル体制、コンセプト、保険設計、クレーム体制、リスクマネジメントの支援体制、事務対応、保険料、連携ITシステムなど、多岐に渡ることになります。Submission(提案要請書)を差し上げるまでにはもう少し時間がかかりますので、まずは概要の説明を差し上げたく、お越し頂けると有り難いんですが。因みに、競合する他社さんとも同様に始めています。御社には、現行起用先のアドバンテージとして、最後にお声掛けしています。」
岡田は、どう接したものか、と、若干事務的に説明した。
「岡田さん。有難うございます。いつが宜しいですか?岡田さんの他にもどなたか同席されますか?それによっては、うちも上を連れて参りますが。」
由美香は、いつもの調子に近く、明るく応対した。
「いえ。今時点ではまだ私だけです。岡田さんだけでも全く結構ですよ。明日の16時から1時間半でどうでしょう。まだ書面でお渡しする準備も整っていないんですよ。ただ、ご検討いただく時間を少しでも多く取りたいと思っていますので、こういう形でスタートすることでRITSさんにもご了承を頂いたんです。我々にとって、保険は大きなポーションではありますが、全体像に組み込む大切な1つのパーツなんです。」
由美香にとって、岡田と仕事をするのは、少し不思議な感じではあるが、とうとう始まる、と気が引き締まる。
黄浦江を挟んだ反対側にネオンに輝くテレビ塔や高層ビル群が並んでいる。この光景を見ると、毎回、東京のビル群がおもちゃのように感じる。15年ほど前に中国から来たクライアントに東京の印象を聞いた時、「思ったよりも小さくまとまっていて、ビルも低い。」と一蹴されたことがある。その時は、なんて生意気な、と思ったが、いざここに立つと、なんの脚色もなく、東京は小さいと思う。
俊樹は、今、ここで生まれ育った春麗と腕を組みながら、黄浦江沿いの歩道をゆっくりと歩いている。仕事を無事に終え、気持ちを切り替えるには最高の状況である。
「実家はどうだった?春節以来だから、4ヶ月ぶりか?みんな元気にしてたか?春麗が帰って来て喜んだだろう。」
俊樹は、春麗の昨日、今日のことを聞きながら、春麗のお父さん、お母さんに会って安心させてやりたい、という気持ちに駆り立てられた。しかし、今会いに行くことは、彼女とのこの先の幸せを壊すことであり、やはり出来ないことだと自分に言い聞かせた。
春麗は、実家のことを詳しく俊樹に伝えることで、俊樹を安心させたかった。俊樹が自分のことを本当に考えてくれていると分かっているから、そして、この幸せの中で俊樹について行こうと決めているから、上海にいる今、その想いを俊樹としっかりと共有しておきたかった。
組んでいる腕と密着している半身を通して、お互いにそれぞれの想いを心底分かり合えていた。そのことに、また、喜びと幸せを感じる。
ホテルに戻ると、俊樹は、春麗に自分の部屋から全ての荷物を俊樹の部屋に運んで来させた。
春麗が荷物を取ってきて、整理し終えると、二人は、泡の敷き詰められた湯船に入った。俊樹は春麗を後ろから抱きしめ、手を握り、春麗の首もとに頬を寄せる。お互いにそれだけで良かった。時間が止まったようにずっとそうしていたかったが、逆上せてしまい、一緒にシャワールームに移った。
風呂上がりの、重たいガウンの着心地は、いつもながらふかふかで気持ちがいい。冷蔵庫から青島ビールの缶を2本出し、窓際のテーブルセットで乾杯をした。春麗が明日の計画について話し始める。計画を立てているときもまた幸せなものだ。
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