第4話 結婚という人生の節目

あの時、結婚しないという選択肢もあった。結果、紫と絢也というかけがえのない子供達を得たが、あと5年で、この先の人生を考えて、新たなステージへとステップアップする必要がある。


24年前、結婚式の3ヶ月前、俊樹は、買って半年の赤いスカイラインに乗り、夜の高速道路を玉田祐一の家に向けて走っていた。玉田は、大学時代からの親友で、幸運にも第一希望の会社に一緒に入社した。今でも時々飲みに行く人生の共有者である。


そのとき、2車線の道路には、前方にテールランプが一つ見えているだけだった。隙間を開けたサイドウインドからは煙草の煙が出て行くのと入れ替えに、真夏の湿った熱風が入ってくる。

前方に近づいてきたテールランプは、鋼材を積んだ大型トラックだった。緩いカーブが続くこの辺りでは、テールランプが見え隠れしながら、高速脇に輝く倉庫街のネオン看板と交差した。

ひとつのカーブを抜けると、突然、トラックのハザードランプ。

と同時に目の前の道路に散乱している鋼材が目に入った。

間に合わない。

ハンドルに大きな振動。

殆ど路幅のない路肩越しに道路脇の壁面がフロントガラスのすぐ前に見え、体全体に大きな衝撃が走った。

次の瞬間、今度は右側の壁が行く手を阻んだ。

ブレーキを踏む足からシートに収まっていた腰にかけて重い衝撃を感じ、目の前が右から左に回転している。

なす術もなくただ車体が動かなくなるのを待つしかなかった。首と腰と右腕と胸と頭と、、、いたるところに痛みが走る。死ぬのか。。。

小さい頃、家の窓から見えた瀬戸内海は太陽に輝いていた。高校の時、大雨で家の前の道路が冠水したときの水の色は本当にドロの色だった。それを唖然としながら一緒に眺めた清水玲奈は今どうしているだろうか。大学時代、玉田の家にはいつも仲間が集まっていて、あの時の井上恭子の瞳は笑っていた。走馬灯のように記憶のカラー映像が流れた。

漸く静止した鉄の塊の中で全身に激痛が走っている。ガラスのなくなった車のフレーム。シートベルトも外せない。


病室は6人部屋。麻酔なのか、麻痺なのか、夢なのか、体が動かない。意外とああいう時の記憶は鮮明に覚えているものだが、そういえば、あの時、百合のことは全く思い浮かばなかった。あと3ヶ月で家族になるのに。あぁ、3ヶ月で完治して結婚の準備も終わるのだろうか、とだけ考えていたことを思い出す。

あの時、ベッドから見るともなく見ていた窓の外では、隣のビルの黒い窓ガラスが太陽の光を吸収していた。白い外壁のそのビルの周りには、淡く透き通る青空に一本の飛行機雲。この空の青色はなんていうんだろう。窓の隙間から緩やかに風が迷い込み、白いカーテンを揺らしている。俊樹は、いつの間にか眠りについていた。


松葉杖で、点滴棒を引きながら、1階の公衆電話まで行くのも容易ではない。しかも、看護士に見つかれば、連れ戻されてしまう。

「あのさぁ。結婚のことだけど、少し延ばしたいんだけど。」

「いや!」

百合の反応はあまりにも即答だった。きっと俊樹のこの言葉を想定していたのだろう。

「でも、、、」

「準備は私が進めておくから。」

受話器から聞こえる百合の声は、俊樹にこれ以上何も言わせなかった。


仲人を頼んでいた部長は、結婚準備と新婚生活も大変だから延期することを勧めてきたが、俊樹が断ったため仲人を下りた。それを知った会社の同僚たちも結婚式には来れない状況になった。必ずしもみんなから祝福されて結婚できたわけではなかった。しかし、百合には、そんなことはどうでもいいことのように見えた。

あの時、俊樹が結婚延期を決めていたら、人生は変わっていたのだろうか。なぜ百合がこんなにも頑なに延期を拒んだのか、未だに、俊樹には分からない。今、言えるのは、百合が俊樹のことを考えていたのなら、百合から延期を言い出していたのではないか、ということぐらいである。ただ、絢也と紫がこの世に生を受けたことについては、この結婚に感謝している。


結婚して3ヶ月。百合は俊樹が手を握るのも拒むようになっていた。夜、俊樹が百合の布団に入っていくと、

「俊樹に触られるの、嫌なの。手を繋いだり、触れ合うこと自体、嫌なの。」

俊樹には訳がわからない。そう、偽装夫婦25年の歴史の始まりである。普通の新婚夫婦なら、いや、概ね一般の人には理解できないだろう。自分自身も未だに理解できないのだから。そう思いながら、25年になろうとしている。紫と絢也は、あまりにも計画通り、最低限の「行為」でできたが、それ以外、没交渉で、この25年間、俊樹と百合の間でコンドームは5箱しか使っていない。最後に使ったのは、絢也が6歳の時に1度、その前は、絢也が生まれる前だったか、もう、はるか記憶の彼方である。


俊樹は、球技、海のスポーツ、冬のスポーツやアウトドアも好きだった。百合も結婚前には、俊樹の趣味に付き合っていたが、結婚式の翌日からは変わった。

「俊樹が海に行くなら、私は家で待ってるから。」

結婚前には、家に友人を連れてきてBBQをやったり、子供の誕生会をするのも楽しみにしていたが、可哀想に、子供達は、友達を呼んで誕生会をした経験がない。百合は、家に人が来るのは掃除が嫌だし、料理の準備が面倒だといい、殆ど人を家に上げたことがない。確かに、最低限の掃除しかしないので、人を家に上げられる状況ではない。

徐々に「女王様」ぶりを発揮するようになり、俊樹はもはや百合と同じ空気を吸うのも嫌になっている。


パソコンチェアのヘッドレストに頭をもたげ、天井の照明を見るともなく見ながら、やはり思い浮かぶのは、

「あと5年、、、同じ部屋で寝てるだけでも嫌なのに、あと5年も。」

また眠れない夜がきた。

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