第3話 Enjoy Global Working!!

竹内俊樹は、慶応大学を出て、業界トップクラスの四葉火災海上保険に入社した。保険会社では珍しいことだが、結婚以来、東京本社を離れたことはなく、転居も単身赴任もない。働きバチではなく、頭脳系のポジションを自ら開拓しながら生きてきた。ある意味、人生の勝ち組だったが、日系企業の事なかれ主義にどうしても我慢がならず、43歳になる直前まで携わっていたプロジェクトの完了を契機に、外資系のコンサルティング会社、ビルフォーレングループの日本法人に転職した。結果的に、今、世界を相手に思うように仕事をし、ステップアップ転職となっていた。

ビルフォーレンもやはり外資である。社員は、外人とのやりとりにのためにもニックネームがある。入社時にニックネームがない者には、CEOの飯沼涼(Roy)が容赦なく名付け、その場からニックネームで呼ばれ続ける。最初はかゆかったが、今では、海外出張の自分用の土産に”Jake”と書かれたマグネットを買って来てしまうまでに慣れきっている。


俊樹は、磨かれた石が敷き詰められたオフィスの入り口で、ふと上を見上げた。28階建てのビルのその上には、気分が悪くなりそうなほどに澄んだ、春の青空が広がっている。

17階の外資らしいフロアエントランスからは、ガラス越しにリフレッシュルームが見える。反対側には、応接や会議室が並ぶ。会議室には、London、New York、Paris、Singapore、Sydneyなど10部屋それぞれ、世界の大都市の名前が付けられている。

一旦オフィススペースに入り、パソコンのスイッチを入れ、これが立ち上がる間に、リフレッシュルームのコーヒーメーカーでコーヒーを淹れる。俊樹の毎朝の日課である。

前職も同じ会社の同じフロアで仕事をしていた同僚、井上浩一(Kou)が窓の外を眺めながら、無用に明るく声をかけてきた。

「こんな天気の日は、仕事なんかしてる場合じゃないよな。丸の内公園のベンチで寝そべって、彼女と見つめ合ってたいねぇ。」

ワーカーホリック仲間の浩一のこういう軽さは、時には気持ちを軽くしてくれるが、今朝は、外の空気のせい以上に吐き気を感じる。呆れた顔をしつつ、エントランスに目をやると、上の機嫌取りと自分の実績にしか興味のない業務部門の若手、田中和男(Kazu)が出社してくるところだった。嫌な朝が一層最悪の朝に感じられてきた。

「相手が妻でないのは同感。でも、今日は、RITSからRFPっていう大きなおもちゃが来るんだから、Kouもそっちを楽しもうや。Enjoy!」

俊樹は、少し緊張した面持ちでそう言いながら開け放されたリフレッシュルームを出た。

視界の端に、開きかけのエレベーターをとらえていた。俊樹のいるリスクソリューション ディビジョン最年少の若松奈緒(Nao)が降りてきた。黒のヒールにダークグレーのパンツスーツを身につけ、少しカールのかかった髪の上から、赤いカシミアのマフラーを巻いていた。少し濃いリップと目元のはっきりした化粧で、緊張感のあるいい女を醸し出している。今年で社会人7年目の彼女は、俊樹から見ると、まだ仕事の幅はなく不器用だが一生懸命で憎めない奴だ。最近、着実に実績を上げている。姿勢良く歩くその姿は、これから始まる「大きなおもちゃ」との格闘への覚悟を感じる。前職のコンサルティング会社で知り合った夫と結婚して3年目になるのに、左薬指の指輪がなければ、誰も人妻とは思わない。


Fortune World Top 500社にランキングされるRITS Corporationとは、この一年の取組で好関係を築いてきた。今日メールで送られてくるRFPとは、企画入札への参加要請 ”Request For Proposal” である。同社のグローバル リスクマネジメント戦略のコンサルティングとソリューション提供に関する企画だ。競合相手は、米系のEXCOとドイツ系のBash、それに本邦銀行系の山幸コンサルティングの3社だと聞かされている。この契約が取れれば、グループ合計で初年度3億円、翌年から毎年2億円弱の収入となり、予算達成も間違いなく、アジア本部のみならず、本社のあるアメリカからも俊樹のいる日本法人が脚光を浴びることになるだろう。俊樹も浩一も奈緒でさえ、日々各国の仲間から最新情報を取り寄せ、同社に提供するなど、尽力してきた。やっとRITSが既存のコンサルティング会社から乗換える検討のために重い腰を上げた。今夜9時には、アサインしてある海外各国のメンバーを含めて国際電話会議でキックオフすることになる。

今の吐きそうな重い気持ちも、RFPが来れば払拭されるだろう。暫く、百合のことが頭に浮かぶ余裕もなくなるのだから。

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