ファイル2「救急医学×傷」(4/4)

「はあっ!? 訓練?」


 学生が仕事場を荒らしたことを、学生を代表して南も雪野もひたすらに謝ることとなり、当然のことながらこってり絞られた。救命救急センターのうち特に高度な診療機能を有するものとして厚生労働大臣にも認められているこの高度救命救急センターが、いかに重要な役目を担っているのか、重い責任を背負っているかを説かれ、医学生が訓練場所を間違えて邪魔になるようなことをするなど言語道断だということを、烈火のごとく叱られた――それはもう、めちゃくちゃ怖かった。


「本当に、本当に申し訳ありませんでしたっ!!」

 南も雪野も、何度も何度も頭を下げて退室。


(あああ……なんでぼくまでこんな目に……)

 同じことを雪野も思っているに違いない。


 そもそも看板が変な場所に設置されていたのが悪いのだ。というか、それで間違えたのは岸本であり、南と雪野は探しに来ただけだったのだが……まあ大迷惑をかけられたプロ達からすれば、そんなことは関係なく、迷惑な学生を一緒くたにしてお説教したくもなるだろう。


 だいぶげっそりした雪野と一緒に本部のテントまで戻る。岸本は麻酔も打たれてしまったため、念のためにもう少し横になっているそうだ。もうすっかり辺りは暗く、カラスが鳴いている。だがまだテントが残っているということは、講師もいるのだろう。ぼく達大事なお仕事の現場で大迷惑かけちゃいました、というかなり言いづらい報告を控え、足が重い。


 道すがら、小鳥遊春香と連れ立った大河内が駆け寄ってきた。


「いたか!?」

「いたよ……」

「どこに!?」

 事態は遅刻早退よりももう一歩深刻である。雪野が事情を説明すると、二人はあまりの出来事に唖然としたまま立ち尽くしていた。


「とりあえず、恭子の様子を見に行かないと……」

 大河内がそう言って、南と雪野の来た道を行こうとした時、


「――で、誰がやったか、だけどさ」

 その言葉が二人の足を止めさせる。

「小鳥遊春香さん、あなただよね」


 雪野の鋭い視線が、小鳥遊を射貫くように向けられていた。小鳥遊がなにか言うより先に、


「動かした看板に血糊が付いていた。あれだけ大量の血糊を使っていたのは赤タグの人達だけ――つまりあなたと神木くんと浦賀さん、向井さんの四人だった。そのうち、岸本さんを誤誘導できるのは最初に運ばれて待機時間のあった小鳥遊さんだけだ」


 雪野はさらさらと説明すると、とどめの一言を加える。


「あなたは岸本さんを誤誘導したあと、すぐに看板を元の位置に戻した。そのときに看板に血糊が付着したんだ」


 小鳥遊の衣装は血糊で派手に汚れていた。それを見て、大河内が声を震わせる。


「おい……どういうことだ、春香!」

「だ……だって、恭子が、こーち、取ったんだもん……」


 なるほどね。

 南は腑に落ちるような気持ちで二人のやり取りを眺めた。

 どうやら痴情のもつれだったようだ。

 大河内と小鳥遊はどこか親し気な呼び方をし合っていた。元々はこちらが恋人同士だったのだろう。話によると、小鳥遊春香は岸本を留年させて仲を引き離そうとしたらしい。だけどまさか、ERに運ばれるなんてことまでは思わなかったと、麻酔を打たれて開胸されかけたことに関しては、必死に謝っていた。三人の問題は、間に挟まれている大河内に任せようと、南と雪野は立ち去ることにした。これ以上怨恨が残らないよう、うまく話し合いで解決してほしい。……ちなみに後から聞いた話によると、戻ってこられなかった岸本は早退扱いにはなったものの、演技点は満点を付与されたらしい。留年は免れそうだ。


 すっかり日も暮れて、蛍光灯の灯りが暗い窓ガラスに反射する廊下を、雪野と二人とぼとぼ歩いて、校舎へと戻る。


 ひどく疲れた。


 談話コーナーで自動販売機を見つけると、同時に足を止める。もう限界だ。一言も発しないままに意見は合致し、お茶を買って一服することにした。


「ふう」

 低い長椅子にどかっと座り、腰を落ち着かせる。

「はあ。まったく、最後の最後でこんな騒ぎになるとはな」

 言いながらぐったりと背もたれにもたれ、雪野は目を閉じる。「あー疲れた」


「でも、本職の救急隊員達は、さすがって感じだったね」

 南の言葉に、雪野もため息まじりに頷く。

「まあ、間近で見られて、勉強にはなったな……」


 あんな風に人を救おうとする日がいつか自分にも来るのだろうか。そして自分は、人を救うことができるのだろうか。


 ぐったりと物言わぬ塊になったように、二人、しばらくぼうっとしていた。


「きゃああああ!! 急病人よ!」

 けたたましい叫び声にはっとして目を開くと、目の前で看護師が数人騒いでいる。「早く治療室へ!!」

 いったいどこに急病人がいるのか。

 南は力を振り絞るようにして、辺りを見回す。

 ん? どこ……?

 すると、駆けつけてきた男の看護師に、雪野がひょいっと肩を担がれた。

 ああ……どうやら雪野を誤解しているらしい。


 もう……っ!

 ほら、メイクを早く落とさないから……!


 ずっとこの顔でいるので南もすっかり見慣れてしまっていた。男に生まれ、普段メイクなんてしないから忘れがちなのはよくわかるが、いいかげんにしてほしい。


 担がれて立たされ、ようやく目を開けた雪野は大慌てで言う。

「ああ……俺は違います、大丈夫なんです……」

 だが、一日の疲れからか、途方に暮れているのか、なんだか弱々しい感じになってしまった。しかももともとひょろっとして病弱そうにも見える。

「何が大丈夫ですか! 早く救急救命室へ!」

「すぐ担架もってくるから!!」

「違うんです……違うんです……ほら、これ、メイク……」

「訳の分からないことを――意識障害もあるようだ!」

「すぐにERに連絡だ!」


 ちょっと待って、また救急蘇生外傷治療室に運ばれるの!??


 また来たのかお前ら……と大目玉を食らう予感に、雪野は最後の力を振り絞り、全速力で走って逃げていく。お尻から生えた根を引っこ抜くようにして南もどうにか立ち上がると、ふらふらと後を追いかけた。

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