ファイル4「試験対策委員会×盗まれた問題用紙」(4/8)
それから間もなくして、南が参加しているミーティングでとある議題が取り沙汰された。
倉田委員長が重々しく切り出したのは――
「「雪野映にシケタイをやめてもらうべきではないか」という匿名意見が複数投稿されています」
あたりはしんと静まり返った。その場に雪野はいなかった。
「みんなに意見を求めたいなぁ」
投げかけられたメンバー達は困ったように顔を見合わせ、苦々しい笑みを浮かべたり。
ついにきたか、という気持ちで南はミーティングを眺めていた。
そりゃ高いプライドをへし折られたらやり場のない怒りも沸くし憎しみも募るし、三宅さんのように泣いてしまう子だっているだろう。攻撃的な人なら悪口の一つも言いたくなるかもしれない。
だが、倉田委員長はため息まじりにこう言った。
「彼ほどこの組織に貢献している人はいないのにねぇ」
すると空気が一変した。
「雪野くんの言うことはいつも別に間違ってはいないからね」
「無責任な匿名意見に耳を貸すことはないよ」
「雪野くんを排除しようなんてとんでもない」
「痛いところを突かれた人が騒いでいるだけだ。雪野くんを妬んでいるだけだ」
皆、謙虚に見上げた姿勢で頷き合う。
もしかしたら、ここには人間的にもできた人が多いのかもしれない。
みんな雪野のことはきちんと認めている。
高学歴の集う医学部に、いい意味でのプライドがあることに、南は頼もしく思った。
でも、それでもなんとなく。
このままで済むだろうか? という思いが胸の内に渦巻いていた。
人はそんなに強くないのだ。
だからこそ匿名投書があったのでは?
そこから目を逸らしたままで、果たしてうまくいくだろうか。
学生証を通して図書館のゲートを通過し、地下へと続く図書館専用エレベーターに乗る。愛長医科大学図書館にはこれまであまり来ることがなかったものの、雪野に呼び出さるようになってからはよく行き来するようになった。
古めかしいが貴重な資料を蔵しているからか、部分的にデジタル化が進んでいる。後から増設に増設を加えたらしく、視聴覚室やパソコンルームは地下にあった。
そこにはいつも通り、雪野が真剣な様子でパソコンに向かっていた。キーボードを打ち込み、自分のノートに視線を落とし、また打ち込む。その手は止まることなく、打ち込みながらも思考を巡らせている。
「雪野くん」
返事がない。
――すごい集中力だ。
南は待つことにした。自分が作業を邪魔するのは悪いと思ったので。
雪野は南が入室したことにも気が付いていないし、少し気まずいけど、こんなに頑張っている雪野の手を止めたくない。シケプリ作成班のエースには、シケプリを何より優先してもらいたい。
それに、これから行う提案は、雪野の気分を害するだろう、と南はわかっていた。
でも、組織を、ひいては雪野自身を守る提案だと南は思っている。
やり方はどうあれ組織に確かに貢献してくれた雪野を――。
だが、十分経っても全く終わる気配がなく、手を止める間もなかった。
(さすがに……出直そうかな)
南はゆっくり立ち上がり、そろり、そろりとドアへ足を忍ばせた。ひとまず退室しよう。なるべく音を立てず、ドアを押し開ける。最小限ではあるが、がちゃりと音は立ってしまった。
(……あはは、でも全然気づかないし)
うん、また今度にしよう。
言いにくいことだし、日を改めて……と半ば逃げるような気持ちで廊下に出る。
ボタンを押していないのにエレベーターが勝手に開いたと思いきや、
「あ、倉田委員長!」
委員長が降りてきた。色黒の丸顔が、驚きの表情を形作る。
「やぁ、南くん」
「委員長もここで作業ですか?」
「ああ、君も?」
「ぼくではなく、雪野くんが作業しているところです」
「へえ、彼ここでやってるんだねぇ」
「はい。バイトのない業後はいつも……。今もすごく頑張ってるみたいです」
「それは何よりだね」
その時、扉が開いて、雪野が出てきた。荷物を担いでいるけど、もう終わったのかな? もう少し待っていればよかっただろうか。
「何してるの? 二人でこんなところで」
「や、えーと」
南はさっきまでパソコン室に一緒にいたのだが、やはり気付いていなかったらしい。
まあいいや、とばかりに雪野は視線を倉田へ向けると、
「あーそうそう、倉田委員長、思ってたんだけどさ。あんた、役に立たないやつ起用しすぎだろ。何考えてんだ?」
倉田は苦々しく微笑むが、雪野はやれやれと続ける。
「俺レベルとは言わないけど、もっとマトモなの集めてくれよ」
不遜な物言いに南はハラハラしながら口を挟んだ。「でも、人数を集めることがまず大事なんじゃないかな?」
「俺がいれば十分」
「あ、あはは」
眼鏡のズレを直す雪野の動作が妙にしっくりきてしまう。
「逆に俺の仕事が増えてるんだよ。一定のクオリティを維持しようとするとさあ……」
まだまだ語り足りない様子の雪野の背中を押して、南はエレベーターの扉を開ける。
「まあまあ、雪野くん、行こっか。じゃ、倉田委員長、お先に失礼します」
「うん。お疲れー」
半ば無理やり強制終了。
雪野と二人エレベーターに乗り込んでからも、他人への批判は終わることがなかった。
「でー、近田はなぁ……こいつは単純に、頭が悪すぎる……そのクセ、前に出たがるし、めんどくさい……。三宅さんは困ったちゃんなんだよなー。突っ返したやつ、修正版はちょっとは文字数減ってたけど、まだまだエゴが出ているし。で、それ指摘したら、今度は必要なものまですっかり消してきて、俺に喧嘩売ってんのかって思った。てか、たぶん売ってる。おいおいふざけんな~、ただでさえ困ってるのに、わざわざ迷惑かけるなよ……って。あーあと、宇野? あいつは、うるさい。池本は、遅い」
「あ、あはは……」
廊下を二人歩きながら、適当に聞き流す。苦々しいが、当たっているとも思う。聞いていてちょっと面白い。けど、よくもまあこれだけ喧嘩を売り歩けるものだ。品切れにはならないのだろうか。
「でも、近田はその分動くから、活用できればパワーにはなるな。宇野も、そうだ。どんだけ指摘してもそれを上回るくらい歯向かってくるからこっちが逆に気付かされることは多い。池本はスピードさえどうにかできれば利用しがいがある。それから三宅は困ったところ以外に熱は感じるというか、丁寧なんだよな、なにかと。方向性が間違っているだけで」
「まあ、言ってることは、わからなくもない……けど、はは」
うん。
悪意で当てずっぽうに悪口を言っているわけではない。
心当たりはある。
全て、南も同じことを思っていた。
思っていても言葉になっていなかっただけ。しようとも思わなかった。見ないふりをしていたとも言えるけど。
「神木くんはかなりマシな方なんだけど、適当にやっつけただろって時がよくある。熱心に部活やってるみたいだから、まあ仕方ないかなって思って、こっちも余裕がある時は手を加えるようにしてるけど。あとね、細胞生物学の宮越くんもおんなじ。ムラがあるね。この人もたぶん頭は良いんだけど、そのせいかまとめかたが不親切なんだよな。いわゆる天才型? 俺はバカだから、バカの思考回路がわかるけどさ、こういうのは困るよね」
「えー、雪野くんがバカだなんて」
「バカだよ何言ってんの。俺はただ数をこなしてるだけ」
「そう……なの、かな?」
珍しく謙遜したかと思えば、ただありのままの事実を言っただけですが何か? という顔。批判の対象には当然のように自己も含まれているらしい。南はちょっと見直したような気持ちで、雪野の話を聞いていた。
それから図書館を出て、学生証を通して校門を出て、スクールバスのバス停に着くまでの間も、ずっとメンバーの不足している能力について事細かに延々と聞かされた。
本当に細かいことにまでよく気が付く。そんなところまで気にかけて見ているんだなって、ちょっと意外なほどだった。
もしかしたらこう見えて、雪野という人物は繊細なのかもしれない。
単純に心がタフで、人を傷つけていることに気付いていないのかと思っていたけど、そうではない気がする。
むしろ心配性で、小心者で、だから気を張って、細かなところにまで気を配ってよく見ている。
そういえば、雪野はいつも一匹狼で、人と関わっているところなんて見たことがなかった。
(人とかかわってきた経験値……も、そもそも少なそう)
こんな風に批判に晒され続けながら友達付き合いをしたいと思う人は少ない気がする。
たとえば、カラオケで楽しく歌おうとしているのに、音程が外れていることを逐一指摘してくるような人とは、一緒に歌いたいと思わないだろう。真剣に歌手を目指している人ならまだしも。
ただ、指摘の全てを改善することができたなら、大きな力になる。友達は少なくとも、仕事仲間はいそうだ。
そういえば、雪野がここまで協力してくれたきっかけを作ったのは自分だ。
――真に実用的なものってのは、世代を超えてこうやって連綿と続いていく。誰が作成したのかはもうわからないにしても……名誉なこと、だなあって、ぼくは思うんだ。本当は、ぼくだってそんなシケプリを作ってみたい。
自分がけしかけた試験対策委員の美学。
それに賛同し、さらに良いものに向上させようとして、それでここまでやってくれている。自分の点数を上げたいとか、人から好かれたいとか、そんな理由じゃない。
だから、持ち前の繊細さを、人相手に発揮するのではなく、南の掲げた美学相手に発揮しているだけなのだろう。
そうだとしたら、この提案も、受け入れてくれるかもしれない。
「あの……さ。提案があるんだ」
じっとこちらを見つめる雪野のまっすぐな瞳をそのまま見返して南は言う。
「雪野くん、これから、ぼくを通して活動してくれないかな」
雪野は何を言われているのかさっぱりといった顔で、
「何それ。手間でしょ」
と返してくる。
そりゃ、そう言われると思ったけど……。
たしかにこの意味が分からない提案は、ただの足枷に思うに違いない。
でも。
「いいから!」
思わぬ大きい声が出た。自分で自分の声にびっくりする。
「……意味不明」
雪野も面食らったように戸惑っている。
「いいから、ね……お願いだから」
「なんで」
「なんでも」
「……はー?」
当然だが納得いかないようだ。
でも、これをのんでもらわないと困る。
「何も言わずに、そうしてくれないかな」
南が珍しく強く出たことを受けて、雪野はちょっと黙り込む。
「悪いけど、そうしてほしいんだ」
思いを込めて、じっと見つめる。
「だから、なぜ?」
雪野は心底わからないといったように見つめ返してくる。
言いたくない。
だってこれは傷つける。
そんなことを言ったら、たぶん、雪野くんは深く傷つくと思う。
雪野くんは……委員会を向上させてくれているけど、でも、委員会を、荒らしてもいるから、だなんて。
みんなを傷つけて、みんなから嫌われていることは……やっぱり、言いづらいよ。
雪野くんは、本当は繊細な人だと思うから。
だから、お願い。
何も聞かないで!
そんな思いを込めて、
「聞かないで。とにかく、そうしてほしいんだ。ぼくが、悪いことにはしないと、約束するから」
ありったけの力で誓いを立てる。
雪野はまだ、不審そうに口をへの字に曲げていたけれど、
「それで、シケタイは今よりうまく回るのか?」
「ふえ?」
「南くん、君の短所はよく知ってる」
「う、うん……はは」
雪野くんはやっぱり、人をよく見ている……というか、ぼくが、わかりやすいかなあ?
「でも、君の長所が……ブラックボックスなんだ。よくわからない。君には長所がないのか?」
真面目な顔で尋ねてくる雪野に、南は、へりくだるのをやめて答えた。
「長所のない人間なんてこの世にいないよ。逆も」
「そうだな」
雪野も頷く。
「じゃあ雪野くん、君は知ってる? 君自身の短所を」
「わからない」
雪野は素直にそう認める。
「ぼくは両方、知ってるんだ」
この点に関しては、自信がある。
「シケタイは、それでうまく回るから。ぼくが、うまくやるから」
南が言うと、それならば、と不承不承頷いて、引き下がってくれた。
よし。
小さく深呼吸。
自分で強く申し出た以上は、自分が――うまく事を運ばなければ。
雪野くんのために、組織のために。
それにしても。
言い切るというのは、重い責任を伴うのだと初めて気付かされた。そして絶対に相手を凌駕していると思えるだけの膨大な経験値と実績と自負が要る。そう思うと、いつも仕事を肩代わりしている雪野は、いったいどれだけの努力を勉学に充ててきたのだろう。実績は知っている。成績順で一番ばかり。それに、勉強で何を聞いても瞬時に答えてくれた。
改めて憧れると同時に、自分も少しだけ、そうなれている気がした。分野は別だけど。でも、試験対策委員会の同じ美学に向かって、ぼくも!
(がんばろう……!)
こうして雪野との連絡係として南が組織の間を行ったり来たりする日々が始まった。
「「ドイツ語」の英語訳これ持ってって」
「わかった!」
「それと「生命倫理」もう少し早めに用意するように伝えてくれる? 圧縮版を俺が作らないといけないんだから」
「はいはいっ」
「あーあと、「生理学」は二人体制なんだよな。「生化学」も。「法学と医療」とか「スポーツ科学」「宗教と医療」なんかの方に移動させてくれない? 「生理学」と「生化学」は俺が全部担当したい。任せられない」
「う、うんわかった、言ってみる」
雪野に改変されまくったり名誉職を奪われたことへの愚痴や不満を聞いて、それを害のない有益な指摘に変換して雪野に伝える。
「近田くんは「宗教と医療」やりたくないんだって。やっぱり彼に「生理学」を頑張ってもらうのじゃだめかなあ?」
「じゃあ「宗教と医療」も俺がやる。別に「生理学」をやってもらってもいいけど、俺もやるから全部無駄になると思うよ。てか、本当は必要ない暗記要素を増やしてもらいたくないんだけどね」
「うーん、そうかもしれないけど、「生理学」は重要な教科だし、二人分あってもいいなって思うな。だから、そうするね!」
雪野には「バカじゃねーの」的な目で蔑まれながらも、意見を押し通す。
(だって、こうでもしないと組織が壊滅するんだよ~)
反対に、雪野のド直球の指摘は、婉曲的な愛のある言葉に替えてミーティングで伝えた。
「はい。「生理学」は重要な科目なので、引き続き近田くんにお願いしたいそうです。雪野くんも一応やってみるとは言っていましたが、自信ないみたいでー……」
幸い、雪野の作業場所は図書館地下室のパソコンルームと決まっているから、作業中に他のメンバーと直接顔を合わせることもほとんどない。
それで試験対策委員会はなんとかそのまま向上し続けていくようになった。
橋渡し役はストレスの溜まる大変なものだったけど、でも、自分の力で組織を上向きに存続させていると思うと光栄なことでもあった。
しかも、良く言えば――狂人雪野を丸ごと自分が独り占めだ。
天才の生態を間近でつぶさに観察できるというのはめったにない恵まれた体験だった。
自分の作業場所ともいえるいつものコピー室に雪野から呼ばれたと思ったら、
「あっ、雪野くん?」
無言のまま、紙の束を手渡してくる。
これは……昨日用意した資料の最後の一ページが、数十枚。
「ごめん、間違えてた?」
「最後のページが足りない」
うっかりしていた。
「ごめん」
南はぺこりと頭を下げる。
雪野は、はあ、と呆れたようにため息まじりに言う。
「……南くんさ、コピーさえまともにできなくて、ここにいる価値あるの?」
「う」
むっか~~~。
もうっ!
謝ってるのに、さすがに言いすぎじゃない?
いや、今に始まったことじゃないけどぉ~~。
倉田委員長の口癖を脳内で真似しながら、気を紛らわせる……。
当然のことながら、今では南一人が、雪野の人当たりの悪さを真正面から受け続けている。
でも、雪野がいれば百人力なのは疑いようもなく、そして彼を連れてきたことで、そして彼との間に立ったことで、委員会の質を高めているのは自分だという自負も出てきた。
ここが、我慢のしどころ……かな。
「俺がやった方が早い。あいつらの分も、南くんの作業も」
「うぅ……雪野くんは、口が悪いなあ」
「南くんは頭が悪い。要領も悪い」
「はいはい……」
いつか雪野にも感謝してもらう日が来るだろうか、と南は思う。
今そこに立っているのは、君のその力だけではないってこと。
それに、雪野はたしかに成績優秀者でシケプリの作成も一番うまいし知識量も他の追随を許さないが、組織の長たる倉田に到底及ばぬ点はいくつもある。雪野は倉田のように過去問を不足なく入手することはできなかった。自分一人では物理的にカバー不可能な範囲を、自分以外の誰かと協力することも。己の能力不足に気付き、助けられていると感謝することも。
それを感じるたび、南は自分が医学部でなんとかうまくやっていけていることに自信を持つのだった。
人との関わり、これもまた実力だ。
そして人間社会というのもそういうものだ。医者だってそうだろう。
どんなに医学知識がある医者も、人間関係やらなんやらで躓いて、結局人を救えなかったら意味がない。
だったら雪野くんを、ぼくが生かしてみせる。
決意を秘め、南は走り回った。
努力の甲斐あって、次第に雪野は組織にとってプラスに受け入れられていった。匿名投書ももうないだろう。そう思っていた。それだけの自信が南にはあった。
しかし、予期せぬ形となって、事件は起きてしまった。
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