ファイル4「試験対策委員会×盗まれた問題用紙」(2/8)
月曜日に受けたテストの結果が返ってきた。
点数は六十二点。六十点合格なので、ギリギリだが追試は免れたことになる。
「あーよかった。自信はなかったけど、受かるもんだね。試験対策ってすごく大事なんだなあ。シケタイさまさま」
入学が決まったばかりの頃は、将来はどんな医者になりたいか、何を治したいのか、そのためには何の勉強を頑張るべきか、と、高尚なことを動機に行動していた。南は内科医や外科医なんかにぼんやりと憧れていたから、内科医教授による生理学や外科医っぽい恰好をしてメスを握れる解剖学はいつになく気合いが入った。
それでも、どんなに気合いを入れて取り組んだと思っても、無策のまま、ただがむしゃらにやっただけでは高得点はおろか合格点すら取れなかった。しかも、気合いを入れなかった他の科目は当然のように不合格。このままでは進級が本気で危ういと感じ、神木に縋りついて、ようやく自分の勉強法の悪さと向き合うことになった。「気持ちの問題じゃないよ」と神木は言った。「効率だよ。効率よくやらないと」のんびり留年して何年もかかって進級するだけの経済的・年齢的・精神的余裕があれば別だけど、とも。
現在南の隣で相槌を打つ神木は、効率よく突破するための肝である
「あーあいいなー。シケタイは南の立場が一番いいよ」
その作業は神木の力をもってしてもなかなか終わらないようで、今日も昼飯を早々に食べ終えてパソコンルームにて文字を入力している。南は付き添いで一緒に来ているけれど、自分の課題を片付けているだけだ。
「本当にありがたいよ……。なんかごめんね。ぼく、何の役にも立てなくて」
神木は疲弊した肩をぐるぐる回しながら、
「南が加入しなかったら俺はとっとと抜けてるよ」
と。
「そうなの?」
そんなこと初耳だ。
大して役に立てない自分は、神木の友達だからということで仲間に入れてもらえたようなもの。もしかしたら自分が試験対策委員会に依存しているのをわかっていて、神木はやりたくもない委員会の役目をこなしているのだろうか。
そうだとしたら申し訳ないな……。
しかし神木は恩に着せるわけでもなく、「そうだよ。俺だけ仲間はずれなんて嫌だからな」と唇を尖らせるのだ。神木なりの友達付き合いの一つというわけらしい。
それから神木とキーボードを打ち込むこと二十分が経過した。途切れることなくずっと画面に向かっていた神木が、
「あーつかれた。トイレ行ってくるわ」
そう言って出ていく。南も一息入れることにした。といっても、ちょくちょく他事考えていたのは内緒である。
ここは飲食禁止なので監視カメラから隠れるようにして五百ミリリットルの牛乳パックに入ったイチゴオレをちゅうちゅう吸って、南は隣の画面、神木の作成中のシケプリを覗き込む。「経済と医療」の授業のシケプリだ。手書きしたノートをそのまま打ち込んでいる。ノートの取り方も無駄がなくて、自分のものとは全然違う。
ちゅー……。
胸の奥で、焦りと憧れとがぐつぐつと煮えていくのを感じながら、甘やかな味で塗りつぶそうとする。はー、甘くておいしいなあ。
カードキーになっている学生証を通す音がしてパソコンルームに神木が戻ってきた。南はひょいっと頭を引っ込める。
「「哲学と医療」の小テスト成績表貼り出されてたぞ、南」
それを聞いて南はぴょこんとうさぎの耳が立つように、
「一位は?」
前のめり気味に尋ねる。
「雪野。二位が倉田委員長」
ほほう。
今回も雪野くんが勝ち越したか。
愛長医科大学医学部では大抵の授業で成績優秀者の名前が貼り出され、南はこれを見るのが大好きだった。
もちろん、自分の名前が載っているかもしれないからではなく、雲の上の人々の動向が気になるという野次馬的理由だ。超低空飛行の自分には関係ないからこそ純粋に憧れの気持ちで見上げて愉しんでいるというわけである。神木は興味ないようだが、南があまりにも気にしてチェックしているので、たまにわざわざ掲示板の前を通って教えてくれる。
「哲学と医療」一位雪野くん、二位倉田委員長――ね。
やはりこの授業も、雪野と倉田の一騎打ちになるのか。三位以下はあとで自分で確認してくるとして、だいたいいつもこの二人が一位と二位なので予想はついていた。
実は、南は密かに戦績メモまで取っている。ここまでチェックしている生徒は上位常連であってもいないだろう。自分でもちょっと引くくらいの悪癖となりつつある。いそいそとページをめくり、「哲学と医療」の欄に二人の名前を書き足した。
それだけアンテナを張っている分、前期前半だけでも天才二人の傾向が掴めてきた。
まず倉田は四月の成績が全体的にとてもよかった。誰もがおぼつかない新入生生活を送る中、真っ先に試験に適応し、テストというテストの一位または上位を総ナメしていた。後から聞いた話では、テニス部の先輩から過去問や試験対策のやり方を聞いていたらしい。さすが委員長という感じだ。父親は歯科医で、医学部のいろはを教えてもらっていたのかもしれない。
一方、雪野は五月後半や六月に入ってぐっと伸ばしてきた。いつだって一匹狼の雪野が情報戦に出遅れがちになるのは仕方がない。ツテに頼らずよくもあれだけ善戦していたと思う。そして、小テスト試験に慣れてきてからは巻き返しているというわけである。しかも、いつ見ても彼は机にかじりつくようにして勉強している。その濃度をもってすれば対策やら小手先の技などは凌駕してしまうのかもしれない。
倉田はいち早く傾向と対策を練って適応するのがうまいが、雪野は、コツを掴みさえすれば倉田にも勝てる力を秘めている。今のところ南の見立てはこんな感じだ。
とはいえ得意不得意要素や不確定要素はいろいろある。
雪野は数学や化学が得意だ。「医療のための数学」の講義では、雪野くんが常にトップを独走。「生体分子の化学」も、最近一回倉田に負けただけであとはずっと雪野が一位だ。対して、倉田は文化系科目が強い。「英語」や「ドイツ語」、「医用心理学」、などなど、文化系科目なら広く安定して倉田くんが勝ち越している。その他は二人とも、勝ったり負けたりだ。
南には知り得ない事情もある。もしかしたら倉田委員長は組織の運営に手間取って自分の試験対策が一時的に不足しているのかもしれない。雪野はバイトの絡みもありそうだ。いったいどんなバイトをしているのか、何かをきっかけにして知りたいがガードが堅い。まさか「何のバイトしてるの?」なんて電話をかけるわけにもいかない。(そんなことをしたら着拒されると思う。)今はまだ、情報が足りなすぎるから、あれこれと空想を膨らませるしかできないが、これから六年間で、天才彼らのことをいろいろ知っていけたらなと南は楽しみに思っていた。もちろん、才能が開花した第三第四の刺客が現れてくれても面白い。それらを見届けられるように、自分もここで生き残らねばならないが。
「あ、倉田委員長から電話だ」
スマートフォンが振動し、南はどきっとしながら慌てて受話器マークをタップした。
「はい南です」
「今どこぉ~?」
「35Fパソコンルームに神木といます」
「おっけー、ちょっと見にいくよぉ」
「あ、はいっ」
委員長が見回りに来るようだ。牛乳パックをそっと鞄にしまう。
聞きなれた開錠音がして振り返れば小柄な倉田委員長が背筋を伸ばして堂々と入場してきた。いつだって男子生徒の中で背の順一番前を陣取ってきた南よりも少しばかり高いくらいの彼だが、ずっと大きく見える。
「おつかれさまですっ」
「おつー」
南は鞄をどかして倉田の席を用意する。倉田は南と神木に「おつかれ」と返し、空けられた席に座って画面をのぞき込んだ。
「もうすぐできそう?」と神木に尋ねる。
「そうだね」
「もらっていけそうかな?」
「いいよー」
委員長はこのデータを受け取るためだけにわざわざここへ来たのだろうか。それとも……? 南が他の理由を考えかけたその時だった。
くるり、と倉田が南の方を振り向いた。
「いや……南く~ん、実はね君に重大任務があるんだよぉ」
え。
ぼくに……?
ぽかんと呆気に取られてしまった。
「何ですか?」
重大、任務?
隣にいる神木は、うわ、ご愁傷様~みたいな顔をしているのは見なくてもわかる。でも南の心は、ぴょんぴょんと躍りはじめていた。
だって、責任ある仕事を任されるなんて光栄なこと、自分にはないと思っていたから。
「なんでしょう! ぼくにできることでしたら、なんなりと!」
頼みの武器、極上のほほえみを差し出し待つ。
利口な子犬のように――天然パーマだから、トイプードルかな。白衣着たトイプードル。
いったい何だろう。
倉田委員長はぼくの成績のことはわかっているはずだ。
それなら、結構重めの雑務かな?
でも組織に必要とあらばやってみせよう。そして組織がぼくなしではいられなくなってほしい。
倉田委員長はトイプードルの頭を撫でるかのように、つられて微笑んで言った。
「雪野くんを勧誘してきてほしいなぁ~?」
ぱちくりぱちくりと瞬き。
「え、ええええ……えと?」
――そう、来たか。
なるほど。
「彼は間違いなく戦力になるねえ。南くん、人当たりいい君を見込んでのことだよぉ~?」
やはり倉田委員長はぼくのことをよく見てくれている。……けど、雪野くん?
あの雪野くん?
勧誘の声をかけようものなら心底軽蔑したような顔で「は?」と言ってくるのが容易に想像がつく。
相手が、相手が強敵すぎる……。
でも、成績優秀な雪野くんが加入したら、きっとまず間違いなくシケプリ作成係だ。神木の負担も減るかもしれない。
しかも、倉田委員長がぼくに期待して命じてくれている。
ぼくだって役に立ちたい。
「が、頑張ります!」
南は両手をぎゅっと握りしめて、力強く頷いたのだった。
さっそく次の授業に行動を起こすことにした。
ざんざん繰り返した脳内シミュレーションを最後にもう一度やってから、南は心を決めて雪野の前に躍り出た。
いつもと同じように一人机にかじりついて黙々と勉強中だった雪野が手を止めたタイミングを見計らって。
「雪野くん、ちょっといいかな!」
雪野は一呼吸おいて「何?」とこちらに視線を向ける。
「試験対策委員会のことなんだけど」
南は無理やり机の上にシケプリを広げ、手早く簡潔に一通り説明する。組織の役割と、雪野にとってのメリットデメリット。
「ってわけなんだけど!」
雪野はうるさいハエを見るような目つきのまま、
「……進級には特に不自由してないんだけど。今のところ」
と。
「そ、そうだよね……失礼なこと言ってごめん。でもきっと試験が楽になるよ。一回でいいから、やってみない?」
なんか悪いモノをすすめる人みたいになっちゃった。
「やらない」
あらー即答。
「そ、そっかそっか! どうしてか、聞いてもいいかな?」
「興味ないから」
心の扉がばたんと閉じる音が聞こえる。
あれっ、褒めておだてた方がよかったかな? 雪野くんのような人には、損得や簡潔さや合理的であることを伝える方がいいかと思ったんだけど。
「でも、シケプリが手に入るようになったら絶対楽になるのに~?」
南はちょっといたずらっぽい小悪魔的な笑顔を浮かべて小首を傾げる。我ながら、女の子のような武器が情けない。
すると雪野はキッと睨んできた。そして言う。「楽するつもりはない」
あ。
今度はずどんと衝撃が重く心臓を貫いた。
銃弾で打ち抜かれたように。
だめだ。
そう言われてしまうと、言葉が出てこない。
これが雪野くんなんだな。
雪野くんは、たぶん、ぼくなんて比べ物にならないくらい医学をちゃんとまじめにやっている。
きっと、入学が決まったばかりの頃ぼくのままに。
将来はどんな医者になりたいか、何を治したいのか、そのためには何の勉強を頑張るべきか。
そんな風に医学と向き合って、それを誇りに思いながら。
それを突き付けられると、自分が恥ずかしい。でも、医学部で生き残るためには仕方がなかったとも思うけど。そう、でも……忘れざるを得なかったことが、悔しいと、南は感じた。そして羨ましく思った。そのままでいられる貴方が。そうだね、貴方はそのまま頑張ってほしい。
自分の意気込みがしおしおとしおれていく。もうだめだ。
やっぱ無理です委員長……。
すいません歯が立ちませんでした。
あーあ。勧誘だったら――もしかしたら自分にもできると思ったんだけどな。
雪野くんのことはよく見ていたし、それに、ぼくはこの組織のことも、愛しているから、できると思ったんだけどな。
うん。でもね、そうだ。
雪野くんはそのまま頑張ってほしい。ぼくができなかった分まで。綺麗なままに。
けど、ぼく達を馬鹿にされたままは悲しいな。
ぼくはこの互助組織のことも、結構同じくらい誇りに思っているんだよ。
そうだ。まだそれを伝えていない。
まだもう少し聞いてくれるだろうか。
憧れの人に、愛する組織のことを叫ぶチャンスを、単純に無駄にはしたくない。ここからはぼくのワガママ。
「わかったよ。ごめん。もう忘れて」
南は鞄から追加でシケプリを出して、
「お詫びに、これあげる。本当はメンバー以外にはあんまり渡しちゃいけないんだけど、ナイショにしてくれるかな」
「別に要らないけど……」
強引に肩を叩いて、プリントを見るように促す。
「これが歴代残ってきた優良シケプリ。見て! ね、すごいでしょ」
南が感動さえ覚えた神シケプリ一位と二位と三位。
勧誘する意図が一切なくなったのを察して少し警戒心を解いたのか、
「――たしかに、うまくまとまってるな」
雪野はちょっと興味がわいた感じをにじませる。
もういいんだけどね。君はそのままで。
ぼくはぼくで頑張るよ。倉田委員長と共に。
「昔から、一人一人は無力なヒトもさ、組織化することで、あらゆる不可能を可能にしてきた。そう思わない?」
広く深い学問「医学」で命を背負う「医者」を養成する医学部において、南のように非力な凡人達が医学部の壁をよじ登ろうとする際には、互助組織が設立されるのが自然な流れ。
今年は倉田委員長のおかげでいつになく早かったそうだが、愛長医科大学には試験対策委員会が何らかのタイミングで毎年組織されるらしい。先輩がやっているのを見て、遅かれ早かれ集まっていくんだとか。そして部活動や共通授業などで知り合った先輩から過去問やそのまま流用できるシケプリをもらい受けるのだ。試験突破のための無駄なき合理化。ある種の美しさすら感じる。
「真に実用的なものってのは、世代を超えてこうやって連綿と続いていく。誰が作成したのかはもうわからないにしても……名誉なこと、だなあって、ぼくは思うんだ。本当は、ぼくだってそんなシケプリを作ってみたい。でも、ぼくは助けられながら進級していくだけで精一杯だ。だから、ぼくにできることを、やって、これからも生きていくしかないんだと思う。十年後には医者として役に立っていられれば、いいなって思うけど」
自分のような取るに足らない人間でも、試験対策委員会の、ひいては医学界の一翼を担えるならなんでもいい。
雪野くんとはまたどこかで関われたらいいな。明日でも、十年後でも、ぼくは大歓迎するし、君の輝かしい活躍をぼくはこれからもずっと見ているよ。
余計な感想も聞かず、押し付けたまま自分の席に戻ろうとする南を引き留めるように、雪野が言う。「おい、待てって」
さすがに荷物になるかな。ちょっと渡しすぎただろうか。
「ま、一回くらいならやってもいいよ」
うんうんそうだよね。振り向きながら南が紙束を片付けようとして、
……って、え?
「え」
今なんて言った?
「やるって言ってるんだけど」
「ほ、ほんと!?」
「うん」
その口元には微かな笑みが。
へえ、雪野くんって、こんなに楽しそうに笑うんだ。
自分の思った以上に、雪野は純真な心を持っているのかもしれなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます