第7話

職場のタイムカードは、すこしずつ、すこしずつ、じょじょに、じょじょに、ゆっくりと、ゆっくりと、着実に着実に、顔を隠したサパティスタのように歩を進め、時報よりも4分も進み、朝の顕微鏡のような時間を食いつぶしてきたが、ある日、振り出しに戻り、雲間から光が射したように、朝が照らされた。


身近な人が約二週間の旅行へ行った、その一日目に、夜の長さに、昨年を思い出し、自分が旅行に行かなても、肉体と心は別々であっても、あまりに繋がってしまった人がいなくなると、自分も同じ場所で生活しながら、違った感慨と面持ちで生活を見つめて、新たな発見と、取り戻した感覚を持ち、旅となる。


陽気が違う、今冬は暖かい日が多い、ラジオでそんな話を聴く、たしかに寒い日は少なく、家の観葉植物たちもほうったらかしにしている、前の冬は苦労したのに、そんなある日の昼間、電気工具の連続する騒音が、暖かい陽射しの中で、蝉の鳴き声に聴こえ、春どころか、夏までやってきたと、ぼんやり。


自信と過信に揺れ動く、などとは思わず、頭は冷静だと知っている、つもりになることが必要だと、背景でどっしりと声をかけてくる、知っている、たまの人付き合いに出て、楽しく会話と談話を楽しみ、日頃の集積の一端を、酒と一緒にいい気になってこぼせば、相手は飲み込んでくれていて、他人こそ鑑だ。


きっと老後は寂しくない、そんな自信と安心を持てるほどに、今は身近な人のいない限定の生活の中で、目的をしっかり定めて、計画的に、精力的に行動して墨に塗りつぶしていきながら、やっぱり過信だろうなと思うのは、戻ってくるまでの仮宿で、これは続かないと何の根拠もない世界に約束しているから。


右目にものもらい、左ふくらはぎに腫れ物、鼻の先にはヘルペス、いったいこの数日に何があったのだろうか、免疫が落ちている、これは珍しい、近頃では、とはいえ、体を動かすことが少なく、字ばかり追っていた時は、よくこんな症状が表れて、血の巡りが悪く、今は、そう、昔のように字を追った数日が。


夕礼の会で、会議机に同僚と顔を合わせるこの夕刻は、右目の腫れに、鼻先にできた赤いかさぶたが、心に重く、見せたくない、見られたくない、暗い気持ちはせめてなくして、陽気な顔でいようとすると、その鼻は、その眼は、そんな率直な問いかけで、そんなに気にするなと、優しく顔をあげさせてくれた。


どうしたって力は分散されてしまう、あれも、これも、注意を注げば、毎日関心を逸らすことはないだろうと、疲れのない日は根拠なく疑いもせずにいるのに、気づけば、いつから見ていないか、あれも、これも、一つに集中すると、どうしたって力は注がれてしまい、他を見ることに注意が向かなくなる。


仮初めではない、この陽気は、香りが違うから、退勤後、映画前に、橋を渡って河岸に自転車を停め、御影石に座り、夕焼けを背景に本川を眼前にすれば、海からの流れが、突き出た岸にあたり、振動するように波紋を広げ続けて、日が上り、気温が上がり、気分の沈む春の訪れが、惑乱でもって身に告げる。


身内の不幸に元気づく人がいる、若くして旦那を亡くし、成人しているとはいえ、娘と息子がいるのに、涙などない、悲しみも見えない、聞くのはぼやきにぼやきで、世間話のそれと程度が変わらず、変化なし、事務的な疲れはあるも、やはり変わらず、それから一年、今度は旦那の母親の悲報に、嬉しげだ。


週の六日目、月の初め、仕事を任され、忙しくなるだろうと構えていたら、一人が突然諸事情により休み、これは気を抜かず、注意して働こうと急いで体を動かすと、慌てて、失敗して、時間を、体力を無駄に削り、ふと、時計をみるとたったの三十分間で、二時間経ったようで、笑い、時間の増やし方を知る。


道を緑の飛行物が鳴いてよぎる日、雨に開かれ、空の青さに薄さが覗け、雲は重くも白く、灰色に光り、この人の、あの人の体臭が、衣類の臭いがと、息を吐くように考える常が、今日は、右の脇の下から、臭み、強烈な臭みが漂い、対象は自分だ、臭い、本当臭いなと、繰り返し、春の盛りは、わきからきた。


昔から臭いが気になってしかたない、あの人は絞りきった加齢臭が、あの人は軽い腋臭が、あの人は肥えた人の発散が、あの人は風呂に入っていない臭いが、あの人は部屋干しの臭いが、あの人は香水が、などと、ところがある日自分の腋から、春の盛りにつられてひどい臭いがして、自分に一日中文句を言う。


数日前に啓蟄だったが、その前から部屋には巨大なカメムシがのしのし歩き、台所付近ではコバエよりも大きい動きの早いハエが外灯を円盤のように飛び回り、就寝間際に本棚の近くからひっそりとチャバネゴキブリが息を潜ませてこちらを見ていて、啓蟄まえから、無視できない虫達に、虫の居所が悪くなる。


よほど気丈でないと、暇という空隙に吸い込まれていく先は、他人のあら捜し、先々への不安、追憶と美化に、過ぎ去ったいくつものへの後悔など、悪いとしか思えない物ばかりみてしまうから、腰をすえ、背筋を伸ばし、下顎をいくぶん下げ、深呼吸してから、一つだけを徹底して嫌い、あとは適当に任せる。


前日の夕方に、過去を巻き戻したような場面が用意され、何を探しているでしょうか、カレー、今度はしいたけ、エレベーターで降り、こちらは階段で降り、明かり消して、開いて目を見て、次の日、外は雨なのに、湿っぽい雨音が気分を満たし、ふと気づけば、口からナッツクラッカーのマーチが漏れていた。


文章を書くのに、まるで向かい風の中で自転車を走らせるように、重く、進まず、それでもなんとか進ませているのだろうか、仮眠して体は休まったはずなのに、意識も確かなのに、出ない、出ない、それなら昔の写真を見て、投稿しようとフォルダを開くも、決められない、文章も、写真も、判断力の欠如か。


久しぶりに乗った電車で、進行方向とは逆に座り、過ぎていく景色を窓から眺めていると、消失点に向かって、濡れた枯れすすき、清新な梅の梢、垂れる丘からの竹林、早くも遅く、速度を持って過ぎていき、視点が変わったことで旅情が膨れ上がり、ああ、旅行したいなと、顔だけ変えて景色が消えていく。


米を炊くときゃ、白米三合に、玄米二合、この配分で今日も、まずは白米を、スペインで買ったオレンジのコップで、一杯入れて、考え事をして、二杯入れて、別のことを考え、三杯入れて、明日の昼間は酒でも飲みたいなと、玄米入れて、玄米入れて、もう一杯入れるところで、ふと、白米は何杯だと、呆然。


近頃は、眠る時間が遅く、夜更けに布団に入ると、すっと寝に入る前に、やけに冴えた眼で、暗闇に死が見えて、いつか死ぬ、そんな極度に深刻な絶対の事実が毎夜毎夜襲い、もういられなくなるが、必死になるだろう、そう思って昼間、ラジオを聞いていて、ふと、今生きている、これこそが大切だと気づく。

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