第5話

久しぶりに乗った市電の車内で、スマートフォンを操る人々を見かけ、ああ、なんだか懐かしいなと、京成電鉄の車内を思い出し、ふと、広島市内に生活しているが、違う土地に来たようでいて、普遍的な光景は、旅情というより、決して変わらない、ため息と、あきらめと、独りよがりが立っていた。


憂鬱、停滞、倦怠、何かをしても反応がなく、徒労としか思えない外界の反応によって、海の凪のような静まった心境ではなく、周囲と溶け合う孤独でもなく、ざわめきやゆらめきから切り離された、孤立を感じていたのに、一言、思わぬ称賛に遭い、俄に生気を吹き返し、頭から、枝だか角が生え出してくる。


寝て起きて、一日を過ごす中で、どれほどの模索をしているのだと、シャワーを浴びながら考え、家を出て、エレベーターに向かうまでの歩き方から始まり、自転車のこぎ方と、呼吸のリズムと続き、家に帰るまで、気ままなルールに沿って振る舞いを制御しているのは、すべてをその日の自分が望むからだ。


毎年いただく花束は、毎年決まった日に届けられるので、季節は変わらず、気候がいくぶん変化するだけだから、去年と同じ花で飾られているだろうと思っていたら、今年は違い、コルディリネの葉が加わり、白い花弁に紫の縁があり、そのかわり向日葵はなく、百合の芳香が苦手だから、来年はどうだろう。


期待されず、大きい成果をあげた経験が乏しいから、小さな心待ちは鋭いだけでなく、毒を持つようにじわりじわりと神経に広がり、自分は自分、外野の声は気にしない、そんなありがちな態度をたやすく実践できるという思い込みは、本物の思い込みで、こんなに気になるのは、真剣だからこそ臆病なのだ。


劇、映画、コンサート、どれでもいいが、いつも思うのは、この体験がいつまでも残ってくれと願う時ほど、残酷な速さで印象は薄れてしまい、それを自分の中で活かすことができると思った時のわずかも残らず、多くが消えていくことを嘆くが、髪の毛一本でも取り上げられるなら、それで十分なのだろう。


電信柱が揺れるほど大きい地震を経験したあと、地震のたびにざわつく。長靴も浸水するほど激しい大雨を経験したあと、大雨のたびにざわつく。映画の帰りは夜の暗さと電灯の明るさが際立ち、傘の雨音が染みて、細かい線も白く輝いて見える。川沿いの道は濡れて頭上の並木を映し、落ち葉がやけに浮かぶ。


胡麻油でかたまった数粒の黒ごまを見て、蟻の死骸と勘違いした人の言葉で、確かにそう見えると思い、不満と愚痴でかたまった数人の知り合いを見て、悪魔の残骸と見受けたことを思い出した。


日頃は考えずに体を動かすことが多く、休日になると頭が働いて体の動きは鈍くなり、休日が三日続くと、頭の働きにますます力は注がれ、考えは同じところを堂々巡りしてしまい、考えることから離れられず、無駄な事をいつまでも考え続けて、ついにはどうすべきかわからなくなり、運動が必要だと気づく。


平日、家に帰り、誰かに一日の出来事を語ろうにも、語るべきことがない、そんな日常と共に日々を歩む、それは一体どんなことなのだろうか、嬉しいこと、悲しいこと、そんなチンケな言葉で表すほどの事があるだろうか、ない、何もない、それはどんなことなのだろうか。


謝るべき時に謝らず、謝らなくてよい時に謝る。人の前の不幸に悲しそうな顔して黙り、人の裏の失敗に嬉しそうな顔して話す。


昼食をとりに家に戻ると、目の前の公園から、ツクツクボウシの鳴き声が聞こえて、たしかに今日は温かい、暑くはないが、心地よい気温だろう、もう十月なのに、さすがに蝉の鳴き声となると、その虫の勘違いよりも、たった一匹の存在感が引き立ち、蟋蟀や蟷螂では、こうも目立たないだろうと思った。


他人の、一つのミスに眉を顰め、三つのミスに頭の中の愚痴は生まれ、十のミスに荒っぽい仕草と冷たい言動が出た後に、自らのミスに慄いて混乱と反省がざわついているなか、一つの仕事に対して関わった四人全員がミスを犯し、そのミスが互いに作用してタイミングを合わせ、結果的に上手く運ばれ、笑う。


放置するつもりではなかったのに、関心が他へ移り、あれだけ熱を入れて繰り返し手に取っていた本も、手に取る気もせず、億劫で、見ては見ぬ振り、その分だけ無関心になるのではなく、その分だけ責任が募り、放ってはおけない、とはいえ触れない、そんな日々の後、ふと手の伸びる時がくるから面白い。


霧吹きを持って玄関を出て、太く長く垂れてきたチランジアに吹きかけようとすると、黒く、やけに光る銀蝿がついており、こちらの存在に気づいているも、逃げるのが面倒臭そうに自分を無視するので、水を吹きかければ、鈍くさく飛んですぐに近くの麻袋に着地するから、日曜日はアキアカネが飛んでいた。


ふと気づき、自分を殺した愛想笑いで頬に皺を寄せるよりも、自分を生かし、相手を殺す勢いで眉間に皺を寄せて、独り言にこぼれそうに満ちる独白の愚痴よりも、嫌われて結構、むしろそのほうがせいせいすると、面と向かってミスを指摘するほうが、健全な八つ当たりとして、原因そのものにぶつかれる。


オレンジの西陽が乳白色の壁に射し込み、そのそばのメープル色の本棚の上のジャンベ型の黒いスピーカーからドヴォルザークの交響曲第9番第2楽章は流れて、濃く染まった見えない数のトンボが壁にかかったカレンダーの万里の長城を飛び回り、混乱がうずまき、デンドロビウムの影はカマキリの鎌のよう。


明日は月曜日、幾度も狂おしく望んだ心も今は廃れて、習慣が時たま声をかけてくるが、もう終わった、昔の事だと、無神経というか律儀というか、言葉を覚えた鸚鵡のようにしつこくて、心が繰り返し作り上げた習慣に、今は心が繰り返しなだめて、もう無いのものだと、錯覚しないように冷たく語りかける。


祭りがあれば、一人寂しかろうと出向いて、夜店を歩き、花火大会があれば、一人つまらなかろうが、席取りで何時間も日にあたり、一日の移り変わりを味わったのに、祭囃子に見向きもせず、花火も鎮火して、嫌いなのか、怖いのか、防御反応だけは行き過ぎて、変わったのは自分で、変わっていないのに。


いまさらながら、つまらないと思うものがおもしろいらしく、おもしろいと思われるものがつまらないらしく、これは人も話も同じで、きれいなものがきたならしく、きたならしいものがきれいで、なにかの古典で似たようなことを言っていたと思いだし、中間地点で左右無理なく見れる人がいるのだろうか。

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