世継ぎ

 ガチャン、と大きな音を立てて薬湯やくとうが入っていた茶碗ちゃわんが割れる。入れ物を失った薬湯が、泥色の染みを床に広げていく。

 レーンが薬湯を飲んでいる最中、突然レーンの腕から茶碗を持つ力が失われたのだ、と粉々に割れた茶碗がディアナに告げる。

 レーンは激しくせき込み、枕に倒れこんだ。ゼーゼー、ヒューヒューという木枯こがらしのような息。くちびるや指先が青紫あおむらさき色に変化している。枕にじっとりと染みが付くほど、レーンは冷や汗をだらだらと垂らしている。ディアナはとっさにレーンの手首をつかんだ。脈拍みゃくはくが弱い。とぎれとぎれの、今にも止まりそうな脈だ。皮膚はまるで風化ふうかした骨のように真っ白で、見る見るうちに赤い蕁麻疹じんましんがわきあがった。ディアナがとっさにレーンの顔を見ると、まぶたが大泣きした後のように赤くれていた。


「レーン! レーン!」


「う……う……」


 ディアナの呼びかけにも、レーンはうめくばかりだ。意識も消えかけているようだ。薬のせいだ。ディアナにはわかった。森遊びのとき、領民たちが毒草どくそうを採っていたのを見たことがある。なぜ毒草を採るのか尋ねたら、少量ならよく効く薬になるのだ、と教えてくれた。

 ナオミは、レーンを元気にさせるため、大量の薬を飲ませていた。その薬に入っている毒は少しずつ少しづつレーンに溜まっていって、長雨で水を抑え込むことができなくなった堤防が決壊するように、今この瞬間レーンに向かって一斉にきばをむいたのだろう。毒なら薬で解毒げどくできるかもしれない。でも、ナオミがレーンに飲ませていた薬の量を考えるに、薬で打ち消せる毒なら、こんなことにはなっていないような気もする。ディアナはレーンの手首を握っていることしかできなかった。


「嘘よ! こんなの嘘よ! レーンは死なない! こんなことにはならない! レーンは世継よつぎなの!」


 ナオミがわめきながら崩れ落ちる。毒々しいほど赤いドレスに薬湯がつき、真っ黒な染みが生まれる。それに構うことなく、うそ、うそ、こんなことはありえない、とナオミは泣き叫ぶ。


「レーン! 起きて! ねえってば……ねえ……」


 両手から伝わるレーンの鼓動こどうがどんどん弱くなる。ディアナが気付いた時、もう既にうつろに開かれたレーンの目は、もう何も映してはいなかった。


 その夜、屋敷に来たゼントラムの貴族たちは、ナオミからレーン死亡を知らされて大口論をはじめた。その場――レーンの部屋には、ブレナンとディアナも強制的に同席させられた。

 レーンの死にディアナは呆然としていた。レーンともう、話せない。虫取りにも行け ない。なのに、ママも貴族様たちも、レーンが死んじゃったのに、悲しくないみたいだ。むしろ、レーンに対してどうして死んでしまったのか、と怒っているみたいだ。そう気が付くと、ディアナは腹が立って仕方がなかった。なんで。なんでレーンが死んだのにママは涙の一つもこぼさないの?! ディアナはナオミに食って掛かりたかった。でも、ナオミは貴族たちと話し込んでいる。大切な話を邪魔じゃましちゃいけない。行き場のない感情は、気まずそうにナオミとディアナの間で立ち尽くしていたブレナンに向かった。


「どうしてママはレーンが死んじゃったことよりお客さんが大事なの?! 何なのこの人たち!」


「……ディアナ。よく聞きなさい。君のお父上は、今度王様になる、アルス様だ。レーンは王位継承権おういけいしょうけん第一位の王子になるはずだった。この人たちはレーンの後ろに付きたかったんだ」


「なんで、なんで、そんなの聞いたことない、私たちを援助してたのはノーデンだったよね? 私たちのお父さんは、ノーデンの貴族様のだれかじゃなかったの!?」


「ナオミ様が、ノーデンの亡くなった先代領主様の娘だ。君はノーデンの領主の血も王家の血も両方ひいていることになる」


「そんなのなんで今言うの、レーンが、レーンが死んじゃったのに!」


 ブレナンは沈痛ちんつうな表情をさらにゆがめる。


「……死んでしまったから、なんだ」


「なにそれ!」


 ディアナがなおもブレナンに突っかかろうとすると、突然、言い争っていた貴族の一人がディアナの腕をつかんだ。


「きゃっ! なにするのよ」


「……双子ふたごだ、入れ替えてもきっと誰にもわからない」


 彼らは様々な陰謀いんぼうを口にした。多少の差異さいはあったが、大筋おおすじはレーンの身代わりとしてディアナをゼントラムに行かせる、というものだ。ディアナはむかむかと腹が立った。


「そんなのってないわ! 先生、助けてよ!」


 私自身はいらない子みたいじゃないの。あなたたちが必要なのは、レーンの代用品だ。優しい先生なら、こんなひどい人たちから私を助けてくれるはず。ディアナはブレナンを見る。ブレナンは、本当に悲しくて申し訳ないと言わんばかりの表情だったが、彼女から目をそらした。


「ママ! 助けて! ひどいよこの人たち!」


 普段、ディアナはナオミに見て見ぬふりをされる。けど、それはレーンが心配だからで、しょうがないのだ。でも、レーンは死んでしまって、レーンが死んでしまったことに対して怒っている人たちに私はつかまっている。レーンが死んでしまったのはレーンのせいじゃないのに。この人たちはレーンに対してもひどい事を言っているのだ。だから、ママは私を助けてくれるんじゃないか。ディアナはナオミに訴えかけた。

 ナオミは部屋の隅からディアナの方へ歩み寄ってきた。よかった。ママは助けてくれるんだ。ナオミはディアナの前を素通りし、彼女の後ろで足を止めた。そして、レーンの看護のための道具箱から、大ぶりなナイフを取り出す。

 ナオミはディアナのポニーテールを鷲掴わしづかみする。


「ママ?」


 ナオミは無言でナイフをディアナに振り下ろす。あまりに突然のことに、ディアナは金縛かなしばりにあったかのように動けなかった。

 頭の後ろでじゃっ、という音がした。痛みはなかった。どさり、と何かが落ちる音。ディアナは頭が軽くなったのを感じた。

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