悪魔と絹

 ディアナは悪魔に何をいわれたのか、すぐに理解することができなかった。


「えっ……」


『体を売らなきゃ、生きていけないような貧しい身分の女の子たちよ。彼女たちが教会で神にさずけられたと称して後生大事にされている絹を作ったら、神の威光いこうも、この世の馬鹿みたいな仕組みも、全部ひっくりかえせるわよ?』


 蠱惑こわく的に悪魔は笑む。血にまみれたかのように赤い口からのぞく白い歯が、月のようにあやしくランタンの光を反射する。ディアナは頭がくらくらしてきた。


 ――『そんな絹を、とびっきり身分の低い女の子たちを使って、もう一度作って見せたら、世界がひっくり返ると思わない?』


 悪魔の言葉がディアナの脳内で反響する。絹は神が不死の娘、そして教会に授けたものだ。神の威光を表す聖遺物だと言っても過言ではない。世界を作った尊いお方しか作れなかったものを、悪魔が、聖書によれば男よりも劣ったものである女、それも、


「絹って、神様が授けてくださった布じゃ……作れるの?」


『ええ。あなたはもう、絹を作るための方法を持っているのよ?』


「どういうこと?」


『ディアナの手の上で蘇った白いは、絹を吐く虫なのよ』


 悪魔は何のてらいもなく言い放った。ディアナは背筋の毛が逆立つのを感じた。レーンが生きていたあの頃。森の中。誰にも奪われたくなくて隠し場所を探していたのに、こけて潰してしまったペンダント。あの時は周りに誰もいなかった。とんでもないものと私は契約してしまったのではないか。ディアナはいまさら恐ろしくなった。


「え、なんであの蛾のことわかるの? ここにずっといたんでしょ?」


 ディアナの問いかけに対して、悪魔は先ほどまでの余裕はどこへやら、肩を震わせた。目も泳いでいる。


『え、えーと、悪魔だからわかったりすることもあるの!』


「都合良すぎない!?」


『悪魔は魔法で都合よく生きるもの! この秘密を教えるためには、きょうだいの魂を差し出して貰う必要があるわよ!』


 突然動揺した悪魔の態度をもっと追及したい気持ちはあったが、レーンには神の国で安らかに過ごしてほしい。ディアナは引き下がることにした。


「……なら、いいや。セリカ、蛾の名前を教えて」


 悪魔は深呼吸し、澄ました顔で解説を始めた。


『あの蛾は英語だと絹の虫、シルクワームと呼んだり、シルクモスと呼んだりする。でも、個人的にはカイコって呼んでほしいな』


「カイコ?」


『天からの虫と書いてかいこ。カイは動物とかを飼うっていう意味。コは大事な物や小さいものにつける愛称みたいなもの』


「へえ、そうなんだ。でも、あんなに真っ白な蛾は、今までに一匹しか見たことがないよ。絹を吐く虫だといっても、一匹だけだったら、世界が引っくり返るくらいの量は作れないと思うんだけど」


『ええ。蚕は今のところ、この不死の蚕一頭しかいないわ。まず、蚕とクワコを掛け合わせて、その子供のオスの蛾をまた不死の蚕と掛け合わせて、子供を作らせるの』


 近親相姦きんしんそうかんだ。ディアナは血の気が引いた。聖書では禁じられている。でも、やってやろうじゃないか。私はもう、悪魔と契約したんだ。悪徳も何もかも、私が私であると世界に認めさせるために。ディアナは平気なふりをして悪魔に訊ねる。


「クワコ?」


『灰茶色の蛾のことよ。それを繰り返すことで血を濃くして、よりカイコに近づけて、いずれはカイコという種を蘇らせるのよ』


「でも、そんなにうまくいくの? 虫は自然に生きるものだから、かごに入れないとすぐ逃げちゃうじゃない。そうじゃなくても、虫同士でけんかして死んじゃったりとかもするよ?」


 ディアナの懸念に対して、悪魔は得意げに鼻を鳴らした。


『蚕っていうのは家畜化された昆虫なの。だから、大人しくて虫同士でけんかもしないし、逃げ出しもしない。技術さえ覚えれば誰でも育てられるわ』


「体を売るような女の人でも?」


『もちろん。多少時間はかかるけど、私に任せてくれればいっぱしの養蚕家にしてあげる。でも、しばらくは……そうね、この不死の蚕とクワコの間で出来た蛾をもう一回不死の蚕と交尾させて、その卵が孵るまで、くらいはあなた一人で動くしかないかも。それくらいまで行けば絹糸の現物が作れるんだけど、現物がないと他の人に協力してもらうのは難しいでしょ?』


「そんなに早く作れるの?」


『絹織物まではちょっと無理だけどね。ディアナ、あなたにはキリキリ働いてもらうことになるわよ。そうと決まったらさっさと地上に戻りましょ』


「わかったわ、セリカ」


 名前を握られ、なれなれしく呼ばれてディアナはいらついた。仕返しに、相手のこともセリカとそのままの名前で呼ぶことにした。

 悪夢のように長い廊下と階段を引き返し、ディアナは地上に戻った。地の底よりは多少はましなよどんだ空気と、弱弱しい日光がディアナを出迎えた。

 召使いはいなかった。悪魔はディアナについてきていたが、物理的な力は持たない。したがって、異様な模様の扉をディアナは自分で閉めることになった。蝶番のきしみに混じって、誰かが走り去っていく音をディアナは耳にした。誰だろう。ディアナは足音がした方へと走った。何者かが廊下の角を曲がって逃げていった。


『知り合い?』


「わからない。でも、どこかで会った人のような気がする」


 ディアナは逃げていく後ろ姿に見覚えがあった。しかし、その人の顔や名前は思い出せなかった。

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