第5話隣のクラスの淀み
二時限目の間の中休み、僕はトイレに行こうと教室を出る。江尻は他のクラスと屈託のない笑顔でだべっている。おどけて笑い、僕みたいなパンツ馬鹿な人にも垣根なく交友を持ち、僕以外にも話せる人がいる。江尻はきっと出世するだろう。
今朝のことで僕と彼とは少しの溝ができてしまった。でもちょうどいいかもしれない、僕も彼もトイレの時間と授業中にパンツのことを考える時間ぐらいは自由になりたいのだ。こういう時もきっと青春の一ページなんだろう。ああなんて素晴らしきかな僕等の友情というのは。
馬鹿か僕は。
ポケットに手を突っ込みながら心の中で自分で皮肉を言って、虚しくなる。トイレの通り際に彼女のクラスである教室に僕は視線が向いた。僕の教室から彼女の教室まで僅か壁一枚分、徒歩僅か五歩、お隣さんだった。今までどこのクラスかわからない彼女が、たったこの壁一枚分の向こう側にいるとは世間は狭いとはよく言ったものだ。
彼女の教室を覗いてみると、僕の教室と変わらない。机の数や後ろの掲示板に張られているものとかそういう差異はあるものの、教室の雰囲気事態が変わらない。
集まって、だべって、寝て、それぞれが自分の好きなように共同生活している。
その教室の真ん中に一つだけ、空席の机があった。他の机には次の時間に使う教科書やら筆箱などの生活感があるのに、一つだけ孤島のようにぽつんとしている。
ある程度予想は着いていたが、僕はすぐそばにいたこのクラスの人にあの席のことについて聞いてみた。
「さ、さあ? 知らないな」
嘘だ。なぜ口淀んだ? うちの学校は、教師の怠慢でクラス分けせずそのままのはず。一年近く一緒にいるのにどうしてその席の人が、なんで来ていないのか言えないんだ? 病気なりなんなり答えるはずだ。
僕はすぐに他の人にも聞いてみた。短いスカートの女子だ。片方は茶髪をより濃く染めている。なんのパンツを穿いているかのシュレーディンガーの猫的予想を立てず、あの席にいるはずの人を聞いた。
「あれー、そんな子いたかな?」
「私知らない。興味ないし」
二人は自分の爪のマニキュアを見ながら、完全に
学校という狭い共同生活を送る中で必然的に発生するものが、快活なるこの空間の真ん中にて溜まり沈んでいる。
再び僕があの席に目を向けると、いつの間にかクラスの生徒の一人が机の上に座っている。まるでどうせ休んでいるんだから勝手に使ってしまっていいよねということを言い表していた。けど僕は見当がついている。あの席にいる人は、今日も来ている。
「ねえパンツ君、何を見ているの?」
彼女の声がした。しかし、誰もいない。けど彼女は間違いなく日差しの下で僕のそばにいる。聞きたいことがいっぱいあった。けど僕はどうしても言うことができない。パンツが惜しいからというわけではない、遅かれ早かれあの約束は破棄されるのに僕は約束を破ることができないんだ。
――私の名前も顔も知らなくてもいいからという約束。
「言ったでしょ。私はそこら辺に落ちている石ころみたいに気にも留めていない」
冷たく消えるような――いや実際に消えているがあえてつっこまないが、そういう声が僕の耳元に聞こえた。
ずっとこのままでいいのか。半年より前からこういう状態だったのか。なにが原因だ。聞きたいことは山盛りあるのに、約束という見えない呪縛で口を封じられているのだ。
「私はね、みんなからいない存在にされているの。誰も干渉せず、誰からも気にも留めない。こんな変な力があるのは、そういう摂理に従ってなのかもしれない」
むずがゆい、けど彼女との約束を破ってしまったら彼女は僕と口を利かないかもしれない。僕と彼女をつなぐ生命線は、パンツを見てもよいという約束で封じられているのだ。僕は、僕は…………一体どうすべきだ。
僕は自分の教室にへと踵を返すと、後ろから彼女のクラスの馬鹿みたいに大笑いする音が聞こえた。なにが愉快なのか。多数に賛同して、一人を押しつぶす快楽に酔いしれているのか? 僕だったらパンツを見るね。もし見られたら、平手打ちも蔑みも覚悟している。パンチラには覚悟も痛みも詩吟だって必要なのだ。僕等の同士はそれをわかって賛同している。
あのクラスの人たちには、それをわかっているのか?
「ねえパンツ君。私のことを可哀想な人だと思う? でも出席はしているんだよ。いるはずなのにいない。おかしいよね」
「シュレーディンガーの猫とでも言いたいのか? 存在しているのと存在しているの二つが両在している。けど君は、実際にいる。でなければ僕は幽霊と話している異常者だ」
「難しいことを知っているんだね。けど君のパンツへの執着がすでに異常だよ。でもねこの能力がなくなったとしても、私は結局この教室では消えているんだよ。きっと私の姿が見えている状態でも、私の机の上には誰かのお尻が乗っていることだろうね」
彼女の能力が消えたとして、彼女の環境が変わるわけでもない。彼女は変わらず透明人間なんだ。たった一人の隣のクラスの男子に彼女は何を望んでいるのか。
ただ僕が望んでいるのは……
「僕は……君のパンツが見たい」
「君はどこまでもパンツ君だね。本当にパンツしか頭にない、君からパンツを取ったらどうなるんだろう」
ああそうだよ。僕は頭の先からつま先までパンツでいっぱいだ。しかしパンツは下に穿くものなのにおかしいといったらありゃしない。本当におかしいよ。
いくつもの黒い楕円の影が混じる中で、色の薄い彼女のプリッツスカートがその中で浮いている。
彼女の影が教室のドアの所に来たときだった。教室の中で、中の生徒がドアに叩きつけられる大きな振動音が噴き出すと、ドアにはめられた窓ガラスがパズルのピースのようにバラバラに割れて廊下に落ちていく。ドアの周りには人がいない――透明状態の彼女を除いて。
僕は突然のことに何を言えばいいかわからなかった。彼女の正面ちょうどに窓ガラスが降り注いでいる。僕が突き飛ばそうにも、彼女の体や顔にガラスが突き刺さるのは避けられない位置だった。
顔中の血が一気に下がり冷たくなる気配を感じて僕は祈った。だが窓ガラスは消失し、彼女に赤い色の体液は流れなかった。
そしてようやく遅れて、さっき僕が話していた女の子二人がマニキュアから目を離して金切り声を上げた。
「キャー!!」
「なに!? 窓割れた!?」
「みんな怪我ないか?」
みんなが喧々諤々と声を上げてドアの付近に集まった。あの群衆の中に、彼女の色の薄いプリッツスカートの影は見えない。たぶん教室に戻ったのだろう。あれは間違いなく彼女が窓ガラスを消失させたんだ。それも本当にすり抜けて消えてしまう、完全なる消失だ。彼女の消失が、あの窓ガラスのように他の物を消してしまいでもしたら――例えば無関係の人をとか……僕の血はまだ戻らなかった。
騒ぎを聞きつけたこのクラスの担当である女の先生が、ドアの前に散らばったガラスと自首してきた生徒を見て、ヒステリー気味に注意をしているのを見届けて僕は教室に戻りながら祈った。
どうかあの能力が他のことで起きないように終わってくださいと。
本来の用事を思い出したのは、休憩終わりのちょうど二分前だった。一分遅れで教室に戻ったときクラスの衆目に晒され、これが僕でなく彼女が代わってくれればどんなにハッピーエンドだっただろう。
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