18  ふたりの刺客


――その夜。

 佐吉は、奉行所の奥向きにある鍖衛の私室を訪れた。部屋には、鍖衛のほかに、篁薫と内与力の袴田がすでに集まっていた。

「佐吉。手配りは、どうなっておる?」

「へえ。抜かりは、ございません」

 佐吉が説明をはじめた。


 佐吉が三吉と決めた見張りの布陣は……。

 浅草御切手町の釣り道具屋『竿喜』には、強矢修平と下っ引きの金太が、深川の材木屋『播磨屋』の作業場には、飴売り三吉、下駄安が、そして、根津権現の茶店『ひよしや』は、留、桶徳と佐吉ということになった。

「本当は、一ヶ所につき、三人ほしいところですが、今のところこれが精一杯で……」

「佐吉殿。申し訳ないですね。あと二、三日で、手前の仕事も片付きます。そうしたら、すぐ駆けつけますよ」

 薫が言った。

「なあに、先生には、事態が煮詰まったら、いやというほど手伝っていただきますよ」

 鍖衛が一服しながらこたえる。


「しかし、これでようやくおぼろげながらもが見えてきやしたね……」

「うむ……根津の妾宅におるのは、おみつであろうな」

「へえ。近所に探りを入れてみましたが、まず、まちがいありません」

 鍖衛は、ふむ。と、うなずき、

「これまでの経緯いきさつからして、おみつと、その“くらくす”とか申す浪人者の狙いは、おそらく家老の犬甘に、まちがいはなかろう」

 と、言った。

「でも、だったら、なぜ直接家老を狙わないんでしょうね?」

 佐吉が鍖衛に訊く。

「犬甘は、定府ではなく、国家老だ。よほどのことがなければ、江戸には出府しまいて」

「では、家老をおびきよせるために、今度の騒ぎを起こしているんでしょうか?」

「うむ。俺は、そうじゃないかと睨んでいるが……」

「その犬甘の勢力を、切り崩す意味もあるでしょうね」

 と、薫が言った。


「俺は、今度の事は、面白半分で調べてみる気になった……

ところがどうだ。単純な狐憑き騒ぎかと思ったら、とんだお家騒動だ」

「手前と佐吉殿が船橋で出会ったのは、おそらく家老の犬甘の手のもの……

と、いうことは、おみつとそのと申すものには、反対派がついているでしょうね」

「しかし、反対派のやつら、いくら家老憎しとはいえ、あのやり方は、あんまりですぜ」

 憤慨した佐吉がつぶやく。


「そう、そこだ!」

 鍖衛が煙管で膝を打ち、続ける。

「どこの家中にも、多かれ少なかれ争い事はあるだろうよ……だがな。俺が許せんのは、罪もない人びとを巻きぞえにしたことだ。

――これは、町奉行として、いや、ひととして許しては置けぬ!」

 いつもは穏やかで洒落っ気のある鍖衛が、思わず声を荒げた。

 付き合いの長い佐吉も、怒った鍖衛を目の当たりにして、目を丸くした。

「今度の事件は、奉行所の権限の及ばぬ事だ。かといって、評定所で裁くわけにもいかぬ……なにせ、呪いや狐は法では裁けんからな。

――と、すればだ。ここは、俺たちでなんとかするほかはあるまい」

「へえ。そのためには、なんとか、やつらの尻尾をつかまねえと……」

「――佐吉、それに先生」

 鍖衛が膝を進め、

「これ以上無駄な血を流さねえためにも、ひとつよろしくたのむぜ」

 と、頭を下げた。

 佐吉はその姿を見て、やっぱり俺の親分だ。と、熱い気持ちがこみあげた。


――それより半刻ほど前。


 浄蓮寺の隣の百姓家から、ふたりの刺客が抜けだしていた。

 修平と金太が、このことに気付かなかったのは無理もない。

石橋、田嶋のふたりは、御切手町には足を向けず、松平出雲守の下屋敷のほかは、入谷田んぼが広がるだけの、正反対の方角に向かったからだ。

 あたりには、すでに夕闇が忍びより、耳障りなほど蛙の声が響きわたり、北西の空を、吉原の灯りが赤く染めている。

 ふたりは、田畑に囲まれた、立花左近将監の下屋敷の横の道に入り、畦道をひたすら歩む。

 この先を左に曲がると、吉原の裏手に出るが、ふたりは、そのまままっすぐ進んだ。


 すると……やがて右手に、浅草の金龍山・浅草寺の裏門が見えてきた。

その左側は、一面の畑である。

 畑の一角には、神社でもありそうな木立が見えるが、その奥にあるのは、神社ではなく高級な料理屋だった。

 この料理屋こそ、以前、鍖衛が小倉藩の西田直養亨と会食した『井の川』である。


 ふたりは、下見を済ませていたのか、迷うことなく、井の川に続く小路に入ると、植え込みの陰に身を潜めた。

 小路の先には、こんもりとした木立があり、井の川の建物自体は、道からは見えないようになっている。

 というのも、このような店を訪れる客は、人目につくことを嫌うからだ。

 一見お断りの気取った店だけあって、頻繁に客が訪れることもなく、ふたりが身を潜めてから、小半刻のうちに店を訪れたのは、裕福な商人や医者などが乗るあんぽつ駕籠が一挺だけである。


 それからしばらくして、留守居駕籠が小路に乗りこんできた。

 当時は、身分によって、乗ることができる駕籠の種類が制限されていた。

留守居駕籠というのは、大名家の家臣が乗る駕籠で、乗り物と呼ばれている。

 これではお忍びといっても、自分の身分を言いふらしているのと同じであった。

 ふたりは、駕籠かきのほかに、中間二名を伴った留守居駕籠を見ると、無言で視線を交わし、うなずきあった。

 そこに、まるで闇から浮かびあがるように、藍染の布で頬被りした商人ふうの男が、音もなく忍びより、ふたりが気付くとニヤリと笑った。

 この男、伊佐次である。


 深川の小見山の屋敷に入っていったときとは、着ている着物や帯も変えて、歩みかたもまるで別人のようだ。

 小見山屋敷は、三吉らが見張っていたが、伊佐次が屋敷を抜けたことには、気がついていない。

 なにしろ、賭場が開かれている日は、三十人からのひとが出入りするので、無理もないことであった。

「今の乗り物が、片岡主馬でござんす」

 ふたりは、無言でうなずき、伊佐次もそれっきり沈黙した。


 そして、じりじりと一刻ほど時間が過ぎたとき……。

 不意に、井の川の入り口あたりから、ざわつく気配が届き、駕籠かきの「ほいっ」という掛け声が聞こえた。

 すでに、たすきを掛け回していたふたりは、立ちあがると鯉口を切った。

 やがて、小路の奥から駕籠が姿をあらわすと、白刃を煌めかせて駕籠に向かって一気に走り寄る。

「うわっ、ひ、ひと殺し!」

「た、助けてくれ!」

 駕籠かきが、留守居駕籠を放りだして、一目散に逃げだした。

 用心棒がわりの中間は、腰の木刀を抜いて構えるが、その剣先を、田嶋が切り飛ばすと、恐怖のあまり、腰を抜かして尻餅をつく。

 着物の股間が、漏らした小便で濡れていた。

 もうひとりの中間は、闇から踊り出た伊佐次が棍棒で殴りつけ、あっさり気絶する。


「片岡主馬だな」

「ま、待ってくれ、金ならこのとおり……」

 石橋の問いに、よろよろと駕籠から出た、贅沢な絹の着物を着た壮年の侍が、震えながらへっぴり腰で、分厚くふくらんだ財布を差し出した。

「ほう……くれるものなら、もらっておこう」


 石橋は、財布を取りあげると、いきなり袈裟懸けに太刀を浴びせ、血が飛沫いた。

 その間に、田嶋が腰を抜かした中間を、峰打ちで気絶させる。

 時代劇や小説などで、よく刀の峰を返して峰打ちする描写を見かけるが、それは間違いである。

 直刀でもないかぎり、日本刀には、反りがついている。それを逆にしてしまうと、いかな名人でも自在に刀を操ることができない。

 峰打ちは、刀が当たる寸前に手の内を弛め、瞬間的に刃を回転させて行うのである。

 したがって、相手が実力者の場合、峰打ちは不可能なのだ。


 石橋が片岡の頸動脈を跳ね切り、とどめを差すと、田嶋がうなずき、三人の襲撃者は、あっという間に闇の中に走り去った。

 すべてのを終えるのに、三十秒とかかっていない、見事な手際だった。


 刺客が去ると、聞こえるのは、蛙の鳴き声だけで、ひとの気配は、まったくない。

 あたりには、濃厚な血の匂いが漂っていた。










  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る