17  張り込み


 根津権現の門前町は、上野・不忍池の北方にある。

 碁盤の目のような町割りがなされ、その周りには、小役人の長屋があり、さらにその周辺を、御三家の水戸家、小笠原家の広大な下屋敷や寺院に囲まれた、落ちついた佇まいの町だ。

 伊佐次が入っていった家は、水戸屋敷の崖下に近い場所にあり、黒板塀に、植え込みの柊の緑が栄える小粋な造りが、いかにも花街といった風情の、小さな一軒家だった。


 伊佐次を出迎えたのは、松兼の長女おみつである。

 おみつは、町屋に嫁いだわりには、眉を落としていない。それは、おそらく自分は武家の出なのだという、一種の見栄であろう。

 武家に嫁いだ女は、第一子を産むまでは、眉を落とさないからだ。

 伊佐次は、おみつとふたりきりになると、いつも気圧されたような、居心地の悪さとともに、微かな欲情を感じる。

 それは、女郎のような白粉の匂いとはちがった、なにか香でも焚きしめたかのような、甘く心地よい香りのせいかもしれない。

 そんな伊佐次の感情を知ってか知らずか、おみつは、色気をたたえた潤んだ瞳で伊佐次を見た。


「ご浪人たちに連絡つなぎはつけたのかえ?」

「今夜おふたりに、出向いてもらいやす」

「あのふたりには、たっぷり金を握らせてあるかのだから、そろそろ働いてもらわないとねえ」

 おみつは、艶然と微笑んだ。

「それにしても、おみつさん。なんで今度は、オサキを使わないんでやすか?」

「使わないんじゃあない。使えないのさ……」

 おみつが、普通の飯綱使いとちがうところは、呪をかける相手と直接対峙せねば、オサキを憑かせることができないことである。

 それは、おみつの術が、すべて自分の才能だけで成り立っていることに拠っている。

 通常、こういった呪術というのは、ある程度、一定の様式にのっとって行わねばならない。

 それは、たとえば修験者が、術を行うときに、九字を切るのと同じである。

 しかし、おみつの術は、完全に独学のため、そういった形式を身につけていないのだ。

 だからといって、おみつの術が弱いわけではない。

 むしろ、生来そなわった才能ゆえ、その術の威力には、はかりしれないものがあった。

 ところが今回は、すでに根岸鍖衛らに、おみつは目をつけられているので、迂闊に標的に近づくわけにはいかなかったのだ。


「なにしろ今度の獲物、片岡は、ちょいと大物だからね。あのご浪人たちなら腕も立つし、上手くやってくれるだろうよ」

「へえ。そのあたりは、あっしがお膳立ていたしやすが……」

 小倉藩の内部がふたつに分裂していることは、すでに書いた。

 本国の小倉では、家老・犬甘を首魁とし、七割がたは、改革派に属している。

 しかし、江戸においては、留守居役をはじめ、主だった藩士は、犬甘の改革に反対していた。

 ところが、取次役という藩主に直接謁見できる立場にいる、片岡主馬には犬甘の息がかかっていた。

 この取次役というのは、奥祐筆とならんで、直接藩主と口がきけるだけに、その勢力には侮りがたいものがある。

 その片岡を狙うというのは、反対派の意向を完全に無視した、蔵楠の独断である。

 反対派は、犬甘を家老の位置から引きずり下ろしたいが、これ以上、江戸で騒ぎを起こすことは、公儀の手前、避けたいところだったのだ。


 ところが蔵楠は、公儀に眼をつけられ、小笠原家に懲罰があれば、むしろ清々すると思っていた。


 伊佐次がおみつに会っていた同じ時刻。その蔵楠の姿を、深川の悪御家人・小見山辰三郎の屋敷に見いだすことができた。

 小見山の屋敷の長屋では、五がつく日に、昼間から賭場が開かれている。

客層は、近所の武家屋敷の中間から、木場の人足、海辺大工町の商人、職人、浪人者と、多岐にわたっている。

 通常、賭場は夜に開かれるものだが、昼間しか都合のつかないものは意外と多い。

 そういった客を狙った小見山の目論見は当たり、賭場は、いつもにぎわいをみせていた。

 蔵楠は、客ではなく用心棒として賭場に詰めている。

 そのかわり、道場の家賃は払っていない。小見山にとって、蔵楠が睨みを効かせていれば、揉め事もおこらず、家賃と引き換えなら安いものだった。

 小見山の賭場は、御家人が片手間でやっているとは思えないほど本格的である。


 上州から流れてきた一流の腕を持った壺振りが賽子さいを振り、丁半だけではなく、テホンビキも行われていた。

 それは、通称ホンビキといわれる花札を使った博打で、たとえば、お上に捕まった場合、丁半賭博は、手慰みということで、お目こぼしを受ける場合があるが、ホンビキは、問答無用でお縄を頂戴することになる。

 そういう本格的な博打が昼間から楽しめ、お上の手入れの心配がないとあって、ここの賭場は、いつもにぎわっているのだ。

 この日も、二十人を超す客が、脂汗を流しながら博打に興じており、賭場は熱気にあふれていた。

 客は、町人が多く、足軽や浪人など、武家の客は、五人だけである。


 蔵楠は、部屋の隅で絵草紙を読みながら、暇そうに煙草を吹かし、盆に一瞥をくれた。

 二両ほど負けていた浪人ふうの男が、舌打ちをすると、残った駒札を金にかえ、憮然と帰っていくところだった。

 蔵楠は、すぐに関心を失い絵草紙に目を戻した。

 玄関口で、その浪人が下足番から刀を受けとる。

「旦那、今日はツキが悪かったみたいですね」

「ああ、裏目裏目だ。 ――まあ、こんな日もあるだろうよ。金が出来たらまたくる」

「へえ。毎度ご贔屓に」


 浪人は、小見山の屋敷を出ると、ぶらぶら歩いてゆく。

一見のんびり歩いているようだが、よく見ると、少しも油断のない足取りである。

 小見山屋敷からたっぷり時間をかけ、いくつも角を曲がり、尾行がないことを確認すると、浪人は、深川・藪そばに入っていった。

「いらっしゃいまし」

「久保田だが、連れは、もう来ておるか?」

 久保田というのは、もちろん偽名である。

「へえ、久保田様。連れのかたは、お二階でお待ちしております。ご案内いたします」

 浪人者は、先日準之介と修平が蕎麦を食べた部屋に案内される。

 部屋のなかでは、中年の侍が山葵を肴に酒を飲んでいた。


「おお、遅かったな。どうだ。蔵楠にまちがいないか?」

「はい。まちがいなく彼奴きゃつめです」

「よし。気付かれてはおらぬだろうな」

「拙者の家は、代々江戸詰……彼奴と顔を合わせたのは、小倉に行ったとき一度かぎりです。覚えていようはずがありません」

 このふたり、佐吉と薫が船橋の赤門寺で出会った、小倉藩の藩士である。

 年配の男が下目付の小池伊八郎、気の短い若い男が、その下役の津山鉄太郎で、ふたりは犬甘派に属していた。

「ふむ……蔵楠め、まさか作事方の樋口に、姿を見られたとは思ってもいるまいて……」

「どういたしましょう。われらふたりで斬りこみましょうか?」

「莫迦を言うな。わしらの歯が立つ相手ではない」

「拙者には、さほど強そうには見えませなんだが……」

「おぬしは、江戸詰で知るまいが、彼奴めには、手の者をすでに六名も斬られている。ご家老は、金を惜しむなとおっしゃっておる……

おぬしは、江戸の剣術界に顔がきく。腕の立つやつを四、五人集めるのだ」

「――承知」


 佐吉が根津権現の門前町の茶店・ひよしやで草団子を食べていると、一刻もたたないうちに、留が飴売り三吉と手下二名を引き連れて戻ってきた。

「佐吉っつぁん、例の男は?」

 三吉が息をきらしながら聞いた。

「飴売りの親分、ずいぶん早かったですね。へえ……やつは、まだ出てきません。あの家の奥は、水戸様の下屋敷なんで、どん詰まり。裏口から逃げるようなこたあないでしょう」

「よかった。いなかったらどうしようかと、気がきじゃなかったぜ」

「あっしは、さっきチラッと野郎に姿を見られてます……出てきたら桶徳と下駄安、それに親分が、あとを尾けてもらえますか? あの家は、あっしと留で見張っておきますんで」


 桶屋の徳次と下駄屋の安は、普段は、あだ名のとおり、それぞれ自分の仕事をしているが、こういったときに、三吉を手伝っている、俗にいう下っ引きである。

 お上は、十手持ちには、雀の泪ほどの手当しか出さないので、こうした下っ引きの手間は、すべて親分持ちだ。

 しかし親分は、お上から貰う金が少ないわりには、何人もの子分の面倒を見なければならず、なにかと物いりだった。

 そこで、出入りの商家などに、金品を要求したり、引き合いを抜くかわりに金を要求したりと、表向きは、親分とたてまつられていても、金に汚く、たいてい評判が悪かった。


 そこへいくと三吉は、浅草花川戸で女房に小料理屋をやらせており、金には不自由していないので、楽に四人の下っ引きを養うことができるおかげで、町のひとからは、頼りになる親分として、慕われていた。

 そんな親分の手下だけに、桶徳も下駄安も優秀な下っ引きなので、安心して尾行をまかせることができる。

「御切手町のほうは、修平さんだけですかい?」

「そっちには、金太をつけたんで、まあ大丈夫だ」

「なら安心だ。武芸者とはいえ、見張りや尾行は、素人でしょうからね」

 などと話ているころ、家のなかでは、ちょうど伊佐次とおみつが、打ち合わせを終えていた。


 伊佐次が家から出て、不忍池のほうに歩いてゆく。

 佐吉がうなずくと、三人は、早速あとを尾けはじめた。

 ひとりで尾行すると、どうしても目についてしまうので、こうした場合、多人数で交代しながら尾けるのが確実なのだ。


 伊佐次は、浅草の町を抜け永代橋をわたり、本所の町を真っ直ぐ南へ向かう。

 ひと通りの多いにぎやかな道筋なので、楽な尾行であった。

 やがて、北斎や広重の絵で知られている、太鼓橋の万年橋をわたり、深川の町へと足を向け、海辺大工町を抜けて、伊佐次は、小見山の屋敷へと入っていった。

 それを見届けた飴売り三吉と桶徳が、目を見合せて思わず舌打ちした。


「まいったな。小見山の屋敷じゃねぇか……厄介なところへ、入っていきやがったな」

 三吉がつぶやく。

 微禄の御家人とはいえ、小見山の敷地には、支配違いで町方が足を踏みいれることはできないのだ。

「このあたりじゃあ、見張りどころも、あの材木屋ぐらいしかありませんね……」


 周りを見渡すと、小見山の屋敷の周辺は、材木置き場を除くと、御家人の小さな屋敷ばかりで、いずれも町方の支配からは外れている。

 そしてこのあたりは、木場に近いため、材木商が多く、それぞれが広大な敷地を持つ材木置き場や作業場を設けていた。

 なかでも須原屋の材木置き場などは、下手な大名屋敷よりも敷地が広いぐらいだ。

 小見山の屋敷を見張れる場所は、道をはさんだ材木屋の作業場だけしかないが、敷地が広いため、屋敷から離れていて、ひとの出入りを見落とす可能性があった。


「贅沢は言ってられねえ。ここはたしか播磨屋の作業場だったな……店には、おいらが話をつけるから、早速見張ってくれ」

「合点だ」

 そう言い残すと、桶徳と下駄安を残して三吉は、扇町に店を構える播磨屋へと向かった。





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