12  深川 蔵楠道場


――その翌日。

 深川にある蔵楠の道場を、ひとりの武士が訪れた。

 きっちりとした身なりのその武士は、道場に乗り物(駕籠のこと)でやってきた。

 武士は、供の中間と駕籠かきを外で待たせたまま、頭巾も取らず道場に入る。

 居間には、蔵楠ひとりが待っていた。

「――このたびは、苦労をかけたな」

 と、武士が声をかけた。

 蔵楠は、不敵な笑みを浮かべながら、こたえる。

「やつらを狂わせるのに、南蛮渡来の高値こうじきな毒を使った……高くついたが効き目は、知ってのとおりだ」

「山科は、犬甘の腹心のひとり……これで、やつの足場も少しは危うくなるであろう……いや、助かった」

「なに、礼はいらん。それよりも……」

「うむ……では、これを……」


 武士は、苦々しげに包みをわたす。

 受けとると、蔵楠は、素早く中身をたしかめ、黙ってうなずいた。

「おぬしに下った上意討ちの沙汰は、まだ生きておるぞ」

 頭巾の武士が言った。

「ふふ、ふ……俺を斬れる腕を持ったやつが、はたして家中にいるのか、楽しみだな……」

 蔵楠は、かつて犬甘の腹心として小倉藩の勘定方に仕えていた。しかし、なぜそれがいまは、このような生活をしているのか……。


 蔵楠甚之介の父、甚太郎は、温厚でいたって実直、真面目を絵に描いたような役人として、勘定方の仕事に勤しんでいた。

 いっぽう息子の甚之介は、いわゆる悪餓鬼で、近所の子どもに喧嘩を売っては泣かせる暴れ者で、近所に喧嘩の相手がいなくなると、隣町まで遠征する始末であった。

 困りはてた甚太郎は、息子を小倉城下でも評判の高かった、心貫流しんかんりゅう・宇喜多勘兵衛の剣術道場に通わせることに決めた。

 剣を学ばせることで、鍛え直そうという単純な発想である。


 すると……狙いどおり、甚之介の暴力は、ぴたりと収まり、甚太郎は、ようやく胸を撫で下ろすことができた。

 しかし、それは大きな勘違いであった。

 甚之介は改心したわけではなく、単純に自分より強い敵に向かっていくのが、楽しくてしかたなかったのだ。

 天賦の才と、飽くなき強さへの執念が、その腕前をめきめきと上達させた。

なにしろ甚之介の剣への執着は、常軌を逸していた。


 甚之介が十七歳のころ……。

 ある日の夕刻、宇喜多が彼に素振りを命じた。

 そこに、友人が訪れ、酒をのみにいく話がまとまり、帰ってくるまで続けるように言い残し、友人宅に出かけた。

 ところが、久しぶりの酒に酔った宇喜多は、酔いつぶれてしまい、うっかり朝まで寝過ごしてしまった。

 甚之介に素振りを命じたことなどは、すっかり忘れたまま道場に戻ると……。


 驚いたことに、甚之介は、まだ素振りを続けていた。

 着物をはだけた身体は、水をかぶったかのように汗で濡れつくし、その周りには、汗が大きな水溜まりを作っていた。

 あわてた宇喜多が、

「やめい!」

 と、声をかけると、甚之介は、にやりと笑い、そのまま気を失った。

 入門して十二年。宇喜多は、甚之介に免許皆伝を与えた。

 師の宇喜多はおろか、小倉城下で彼に敵う剣士は、ひとりもいなかった。


 そして、父・甚太郎が家督を譲ると、剣術の腕前と戦国武将を思わせる貫禄が、家老の犬甘に気に入られ、腹心の部下として重く用いられるようになった。

 しかし……さすがの犬甘も、この男の本質を見誤っていた。

 政治を動かすには、なにかと金が必要だ。

 犬甘は、城下の商人たちから活動資金を巻き上げていたが、その折衝を、見栄えがよく押し出しの強い蔵楠に一任していた。

 ところが……蔵楠は、よく働いているかのように見えたが、しかしその実、かなりの金を掠め取っていたのである。

 ようやくそのことに気付いた犬甘は、蔵楠に切腹を命じたが、この男、おとなしく畏れ入るタマではなかった。

 蔵楠には、藩主や上司を敬う気持ちなど欠片かけらもなかったのだ。


 切腹が正式にきまり、蔵楠は、自宅での謹慎を申しわたされた。

 そして、畏れいったふりをして、小倉城下の自宅で謹慎していた蔵楠のもとに、目付が切腹を申し渡しに訪れると……。

 いきなり目付をはじめとした三人を斬殺し、そのまま逐電してしまった。

 その場には、あと二名の藩士がいたが、蔵楠のあまりに見事な早技に腰を抜かし、呆然と見送ることしかできなかった。

 彼らは後に叱責を受けたが、死ぬよりはましであろう。


 その後、蔵楠の追跡にあたった藩士が、さらに四名斬殺され、現在蔵楠を追跡する任を負った藩士は、到底、蔵楠には勝てぬと、行方をくらましたままである。


「――もっとも、討手が何人来ようが、返り討ちにしてくれるがな」

 そう言って、蔵楠は高笑いした。

 蔵楠が余裕綽々なのには、根拠があった。

 藩内が二つに割れている以上、どちらの派閥も、ひとりでも多くの味方がほしいところだ。

 しかし、蔵楠を討つためには、何名もの犠牲が出ることはまちがいない。黙殺するのがいちばん得策なのだ。

 そして、幕府(おかみ)から睨まれているいま、これ以上江戸で騒ぎを起こすことは、藩にとっては、避けたいところである。

 さらに、犬甘派にダメージを与えるため弄した今回の事件により、小笠原家に対する目は、より厳しくなったといえるだろう。

 もちろん蔵楠は、それを見越してこの武士に話を持ちかけたのだ。


「しかし、俺には切腹の沙汰が下ったのに、あんたは出世か……まったく運の強いことだ」

「だからこうして埋めあわせをしておる。それに、犬甘が失脚したら、おぬしの名誉を回復するなど、造作もないことだ」

「ふ、ふふ。いかさま、な……あんたが実権を握れば、あの頃より、さらに美味い汁が吸えるというものだ」

「そういうことだ……それだけあれば、しばらくは、遊んで暮らせるだろう。情勢が動くまでおとなしくしていてくれ」

「わかった、わかった。また消えてほしいやつがいたら、いつでも声をかけてくれ」

 武士が帰ると、蔵楠は、包みを床にほうり投げた。中身は切り餅が四つ。つまり、百両の金である。


「ふん、莫迦め。いまさら堅苦しい宮仕えなどしていられるか。もっと騒ぎを大きくしてやる」

 そうつぶやくと、床に置いた徳利をつかみ、そのまま酒をのみほした。













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