11 浪人・強矢修平
――翌朝。
薫が根岸の里の家に帰ったころには、もう陽が高くなっていた。
話の途中から鍖衛が酒をもちだし、真夜中まで三人で酒盛りになったからだ。
三人で二升開けたにも関わらず、鍖衛は二日酔いもせず、いつもとかわらず出仕したのだが、佐吉は、薫が奉行所をあとにしたときにも、まだ客間で死んだように眠っていたのを思い出し、くすりと笑う。
根岸の家に帰りつくと、玄関は開け放たれ、周囲は、塵ひとつなく掃き清められていた。
下僕の太兵衛の毎朝の日課である。庭のほうから太兵衛が箒を使う音が聞こえてきた。
薫が、ひょいと庭を覗くと、それに気付いた太兵衛が、
「お帰りなさいませ。
強矢修平は、薫の剣術の道場仲間である。
「修平さんが?
「お召し上がりになりました。四回もおかわりなさいました」
薫は、ついに声にだして笑い、玄関をくぐった。
薫が居間に入ると、接ぎだらけの洗いざらしの服を着た男が、退屈そうに肘枕で寝そべりながら、鼻毛を抜いていた。
まるで自分の部屋で、くつろぐような尊大な態度である。
男は、薫に気付くと、
「よお、朝帰りとは隅におけないな。根津でお楽しみかい?」
ここからほど近い、根津権現の門前町は、岡場所として知られている。
「修平さんと、一緒にしないでください」
「莫迦いうな。そんな金があったら、おまえに飯などたかりにくるか」
「でも、朝っぱらからどうしたんですか。たしか明後日までは、蔵前の札差の用心棒の仕事があると……」
「うーん、それなんだがな……」
そう言いながら、バツの悪そうな顔で、
「あの札差の野郎……仮にも武士が頭を下げて、もう少し待ってくれとたのんでいるのを鼻で笑って、そんなに金がないなら、娘を売って作ればよい……
などとぬかしやがるから……」
「――で、どうしたんですか?」
「俺ぁ、腹が立って……ばーん、と……張り倒してやった」
「用心棒が、雇い主を張り倒してどうするんですか」
「いや、つい、な……その御家人に同情して、頭にかぁーっと、血がのぼって……まあ、そんな訳だから、ちょっと金貸してくれねえか」
薫は、ため息をついた。
「金は貸さないけど、そのかわり仕事があります。一日一分になりますよ」
「なに、
一日一分か……それなら店賃を払っても釣りがくる。久しぶりに美味いものも食えるな。いやぁ、持つべきものは良き友だ!」
修平は、勢いよく起きあがった。子どものように目が輝いている。
その姿を見て、薫が再びため息をつく。
「しかし……ちょうどよい機会でした。実は、仕事をたのもうと、修平さんを訪ねようと思っていたんですよ」
「どうした。深刻な面して……それは、ヤバい仕事なのか?」
ヤバいなどというと、現代の若者言葉のように思えるが、江戸末期から、堅気ではない連中に使われていた言葉である。
牢を厄場といったことからきている……など、語源には諸説あるが、かつてはシカト同様、香具師や犯罪者の間の隠語だった。
ちなみにシカトは、花札の鹿が、そっぽを向いていたことに由来している。
「ええ。かなり危険な仕事だと思います」
「それで一日一分は、ちょっと割安だな……まあ、このさい贅沢は言ってられねえか……」
そのとき、薫は、修平の着物の袂に、わずかな血痕があるのに気付いた。
「修平さん。札差しを張り倒したとき、鼻血でもつきましたか?」
「んっ? ああ、これか……まあ聞いてくれ。昨日仕事に出かける前に、高田馬場の穴八幡に、お参りにでも……」
そこまで言って、薫の驚いた顔を見た修平が、
「なんだよ、狐につままれたような面して」
「いや、驚きました。乱心者を斬ったのは、修平さんでしたか……」
「薫……おまえ、どうしてそれを知っているんだ?」
「今回の仕事……その件と関わりがあるかもしれません」
「なんだと! ――そりゃあ、やはり、一日一分じゃあ、割が合わない仕事のようだな……」
「ところで……修平さんが斬った、その乱心者……ひとでしたか?」
薫が、ぞっとするような冷たい声で聞いた。
「――いや。俺は、薫とちがって、いつもはっきり目に見えるわけじゃあないが……あれは絶対にひとじゃあない。おまえの真似して、気合いで斬ったが、寸前で逃げられた」
「斬ったって!? えっ、逃げられたのが、わかったんですか?」
「ああ。斬りおろした瞬間、なにやら獣のような影が、その男の中から飛び出る気配を感じた」
「見えたのですか?」
「はっきり目にしたわけじゃあない……だが、狐か
薫の表情が、いつになく引き締まった。
「それは……どうやら、とびきり厄介な仕事になったようですね」
「なんだよ……結局、一日一分では、割が合わない仕事か……」
「修平さんのような者にも見える……というのは、かなりちからを持ったやつが相手……いささかも油断できません」
先ほどまでの笑顔は、すっかり影をひそめ、薫は、憂鬱な表情で黙りこんだ。
――薫と修平が話していた、ちょうど同じころ……。
小倉藩作事方の与力・山科伊織は、深川万年町にある材木商・讃岐屋の店から出ると、相生橋をわたり、材木町と永代東町の間を抜けた。
富岡八幡宮に参拝してから上屋敷にもどるつもりだった。
山科は、ゆっくりと歩いていた。
屋敷の改修と茶室の新築にかかった千二百両のことを考えると、足取りも重くなろうというものだ。
ただでさえ、小倉藩は、讃岐屋に三万両近い借金があるのだ。
このたび讃岐屋を訪れたのは、借金の返済のあてがまったくないので、“そのかわり讃岐屋を士分に取り立てる”という話を押しつけるためだった。
つまり、名目上、小倉藩の家臣にしてしまえば、借金をうやむやにできる……という、子ども騙しのやりかただが、讃岐屋に断るすべはない。
もっとも、断ることができたとしても、借金は返ってこないのだから、讃岐屋が断る理由もないのではあるが……。
(しかし、これが名門・小笠原家のやることか……)
深川の町は、朝からたいへんなにぎわいである。
堀をはさんで右手には、どこまでも続くかのような富岡八幡宮の緑と、その向こうに朝日に輝く伽藍が見てとれた。
それにしても気になるのは、先ほど店を出てから、妙に寒気がすることだった。
風邪のひきっぱななのか、心なしか足元もふわふわして、どうにも心もとない。
昨日遅くまで西田直亨と飲んだ酒がよくなかったのか……。
西田は、いまだに犬甘派に与せず、中立の立場を取っている。
味方にできれば、反対派のやつらに大きく差をつけることができる。しかし西田は、のらりくらりと、かわしてばかりなのだ。
そんなことを、つらつらと考えているうちに、山科は、奇妙に気分が高揚するのを感じた。
風邪をひくと、いつもなら寒気とともに、微かな不安を感じるのに、それがまったくない。
いや、むしろ、これから何かよいことがはじまるような、気分の
よほどにやけているのか、通りすぎるひとが、訝しげな視線を山科に送る。
そのとき山科は、自分の鼻がいつもより、いろいろな匂いを嗅ぎわけていることに気付いた。
先ほどまでの気鬱は、すっかり消えている。
いましがた通りすぎた男からは、微かに白粉が匂う。おそらく朝まで女と寝ていたのだろう。
小間物屋に入っていった娘は、月のものが来ているにちがいない。血の匂いがするからだ……。
牝の匂いを嗅ぎ、山科の動悸が高まる。身体のうちから、衝きあげるような欲望が沸きだした。
あの首筋に歯を立てたら、溢れる血の味は、さぞや甘いにちがいない。
あの黄八丈を着た娘はきむすめだろう。若いまだ熟れきらない青臭い匂いを大きく吸いこむ。
こしのあたりのかたさをみるとそうにちがいない。
あのやわらかそうなみずがしのようなむねをかじったらどんなかおをするのか……。
山科にはっきりとした意識があったのは、そこまでだった。
あとは、ひどく酒に酔ったような、奇妙な高揚感に支配されていた。
山科の瞳が、尋常ではない輝きを帯びはじめた。すれ違うひとが、山科を避けて通る。
前から歩いてきた娘が、小さく悲鳴をあげ、山科をよけた。
――瞬間、山科がいきなり娘に飛びつき、首筋にむしゃぶりついた。
山科はそのまま、柔らかい肉を噛みちぎる。
娘が鋭い悲鳴をあげた。
隣にいた手代ふうの男が引き離そうとしたので、目玉に思い切り指を入れる。
山科は、ぐにゅっとした感触に、思わず笑みを浮かべた。
自分が甲高い獣のような叫びをあげていることには、まったく気付いていない。
後ろから職人ふうの男が組みついてきたので、耳にかじりつき喰いちぎった。
駆けつけてきた御家人が、なにか叫びながら、いきなり抜き打ち、肩先をざくりと刃が切り裂いたが、骨に当たって剣先が流れ、たたらを踏んだので、飛びかかり、喉笛に噛みつく。
しぶいた血が顔にかかるが、気にせず、さらに歯をたてると、御家人は、苦し紛れに脇差しを抜き、山科の脇腹に突き刺した。
刀は、山科の身体を串刺しにして、剣先が腹から斜めに突き出ていた。
しかし山科は、何事もなかったかのように、そのまま平然と喉笛を喰いちぎる。
山科の顔が赤く染まっていた。
御家人が仰向けに倒れ、その身体の下に血溜まりができた。
そのとき、大工が駆けより、山科のこめかみを、横合いから金槌で渾身のちからをこめて殴りつけた。
ぐわんと、頭蓋骨が陥没する音が聞こえ、一瞬、視界が白くなったが、山科は凄まじい跳躍力で、大工を飛び越え、その頭を踏みつけた。
枝が折れるような、小気味よい音がして、大工の首があらぬ方向に曲がった。
それには、見向きもせず、次の獲物に向かって走る。
獣のような身のこなしだ。
いや、実際に山科は、一匹の獣と化していた。
山科の口からは、空気を切り裂くような獣の声がほとばしる。
道行く人びとが、一斉に逃げだした。
人びとが悲鳴をあげて逃げまどうなかに、山科は飛びこんでいった。
根岸鍖衛は、南町奉行所・筆頭与力・樋口又十郎の報告を聞きながら、低い唸り声をあげた。
「なんということだ……して、被害はいかほどに?」
「はっ、即死者が三名、怪我が元でのちほど三名が死亡、怪我人は十余名におよびます」
「うーむ……二名も発狂者をだした小笠原家には、なんらかの叱責があるやもしれんな……」
鍖衛が報告を受けたとき、佐吉は、内与力の袴田と船橋宿へ向かっていた。
浅草坂元町の刺客を張り込んでいる、飴売り三吉の下っ引きからは、刺客たちには、まったく動きがないと、今朝がた報告を受けている。
こうなると、松兼に行った佐吉と、木更津で聞き込みをしている三吉の調べを待つ以外、鍖衛にできることは、なにもなかった。
せめて月番にあたっていれば、南の人間を動かせるのだが、北が月番なので、協力の要請がないかぎり、勝手に調べを進めるわけにもいかなかった。
「なんとも手詰まりだな……」
思わず鍖衛が口にだした。
樋口が部屋を退出すると、鍖衛は文机に地図をひろげた。
今吾堂や近江屋などが出している切絵図ではなく、奉行所が捜査で使っている精密な地図だ。
刺客が潜んでいるのは、浅草寺の東側の裏手の坂元町の角を曲がり、御切手町の先を左に曲がった、浄蓮寺と畑の間の、雑木林のなかの百姓家である。
刺客たちが江戸市中に出るためには、三つの経路があるが、わざわざ、遠回りの田んぼを抜ける道を選ぶ理由はないし、松平出雲守の下屋敷の辻番のある道は、避けるにちがいない。
となると、浄蓮寺と御切手町の間を抜ける道を通る公算が大きいと思われ、実際に彼らが隠れ家に帰ったときもその道筋を辿った。
だから三吉の手下も、それを前提に、直接隠れ家は見えない、御切手町の釣具屋の二階から彼らを見張っていた。
(彼奴らが動きだせば、手がかりがつかめるのだが……)
鍖衛は、地図を見つめたまま、煙管に達磨刻みを詰め、ゆっくりと火を移した。
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