9 飯綱権現と式神
「は、ははっ、擂り粉木かい、そいつぁ傑作だ!」
時刻は四つ半。いつもの奉行所の奥の居間である。
佐吉と薫は、刺客の隠れ家を突き止めた、その顛末を語っていた。
なぜいつも、そんな時刻に鍖衛が奉行所にいるのか……。
実は、ここ数ヶ月鍖衛は、表猿楽町の私邸には一度も帰っていない。その暇がないのだ。
町奉行の職務は、激務である。
当番の月は、午前中は登城して老中らと政務の打ち合わせや、処刑の執行など、決裁を仰がなければならない事案の事務的な手続き……。
そして午後からは、いわゆる警察的な業務、裁判業務、さらには今でいう都知事の業務を片付けねばならない。
非番の月でも、前月から持ち越しの案件の処理に追われ、気がつくともう、あたりは夕刻……という毎日なのだ。
任期中に過労死した奉行の数は、五本の指では足りないほどなのである。
「料理屋で篁殿が、擂り粉木を借りたときは、頭がどうにかしちまったのかと思いましたよ」
佐吉が苦笑いした。すると、鍖衛は、
「佐吉、おまえ、わかってねえな。無手と見せかけて、手妻で得物を出す。しかもそれが擂り粉木だ……そいつが刺客の頭に血を昇らせたのさ」
「でも根岸様、本身の刀と、擂り粉木ですよ……短いし、打ち合ったら、木なんて、すっぱり切られちまうじゃあないですか」
「いいかい、刀と刀で“ちゃんちゃんばらばら”斬り合うのは、芝居か素人だけさ。古今東西、腕の立つ者同士の斬りあいは、一撃で勝負がついている。何合も打ち合うのは、素人同士じやなけりゃ、実力が伯仲してるような場合だけなんだ」
「あっしは、相当肝が縮みましたよ」
「それにしても、その六尺豊かな剣客ふうと、おみつの狙いがどこにあるのか、手前には、どうにもわかりかねます」
薫が言うと、鍖衛は、
「それなんだが……まあ、聞いてくれ」
――と鍖衛は、小笠原藩の家老、犬甘の改革にともない、藩内がふたつに割れている話をした。
「なるほど、少なくともこれで話はつながりましたね」
「その犬甘という男……調べてみると実におもしろい。犬甘の父親も、かつて藩政を建て直したということだ」
「へえ、まるで親子鷹ってところですかね」
佐吉が混ぜっかえす。
「そのうえ家柄は、なんと……かつては、信州深志の犬甘城主だったそうだ」
「へっ、じゃあなんですかい。一国一城の主、大名だったんですかい!」
「というより、豪族だな」
犬甘氏は、渡来人の子孫である。
かつて日本には、大陸から数多くの人間が渡来し住み着いている。
そして、その多くは、製鉄、
東京の世田谷に残る砧(きぬた)という地名などは、渡来人がそこに居住した名残である。
犬甘は犬飼、つまり犬を飼うという技術を持って日本に移住した一族である。
それも、ただの犬ではない。彼らが日本に移入したのは、狼の血を引く狩猟犬であった。
平安のころ犬甘一族は、当時、深志とよばれていた信州・松本に住み着いた。
当時の松本には、六郷と呼ばれる六つの氏族が割拠していた。
良田(よしだ)、山家(やまが)、辛犬(からいぬ)、錦服(にしきべ)、大井、嵩賀(すが)である。
辛犬が後の
犬甘家は、律令国家の元、地方役人として、狩猟犬を育てたり、税の徴収を行っていたが、次第に力をつけ、地侍になり、やがて地方豪族として、犬甘城を築くまでにいたる。
彼らと同族の犬飼氏には、戸隠神社の宮司になっている一族もいるが、戸隠の忍者にも関係しているといわれている。
「根岸さま、よくお調べになりましたね」
薫がなかば呆れるように、感心の声をあげると、
「お城には、いろいろな記録があってな……今聞いたことは、ここだけの話だぜ」
「それよりも驚いたのは、戸隠です。飯綱権現に狐を結びつけたのは、戸隠の修験道の影響が大きいのです」
「ほう、ここにも狐か……」
鍖衛の目がすうっと細くなり、鋭い光を帯びはじめた。
「ち、ちょっと待ってください。いま、聞き捨てならねえことを、耳にしましたぜ」
「佐吉、なにをそんなに驚いておるのだ」
鍖衛が問うと、
「その犬甘城ってお城は、信州松本にあったんですかい?」
「そうだ。そのころはまだ、深志城と呼ばれた松本城を見下ろす、小高い丘の上にあった。
その後、犬甘氏が小笠原の臣下になり、出城として使われていたが、幕府(おかみ)の一国一城の御触れに従い、廃城になったはずだ」
一国一城という言葉があるが、徳川が天下を統一すると、ひとつの国に城はひとつという決まりを作った。
そのことにより、多くの出城や、山城が廃城にされた。
この犬甘城も廃城になり、領民の憩いの場として解放されていた。
(当時、まだ公園という概念は輸入されていない)
「根岸さま、そりゃあ驚くなってえのが無理ですよ。船橋宿で耳にしたんですが、松兼の創業者は、信州松本の武士・兼次郎が、刀を捨てて開いた店なんです」
「なんだと……そいつはもう、偶然ではないな」
鍖衛の眼が鋭い光を帯びた。
「こうなると、松兼のことも突っ込んで調べねばなるまい……こりゃあ、ちょいと手が足りねえな」
「へえ、それなんですが、飴売りと下っ引きの留は木更津へ、それにあと三人を坂本町の刺客の見張りに……
あっしを含めて、あとふたりしか手がありません」
「ふうむ。この件は慎重を要する。奉行所を巻きこむわけにもゆかぬし、困ったな……」
飴売り三吉は、本来、南町奉行所同心の牧野竹蔵が、手札を与えている岡っ引きなので、鍖衛が勝手に動かしてよいものではない。
牧野のような奉行所の同心は、禄高わずか三十俵二人扶持の最下層の幕臣である。
普通なら、食うや食わずの貧乏生活のはずなのだが、牧野は、芝居に入れこんでいて、三日と明けずに木挽町の森田座に通いつめていた。
この時代、その森田座、市村座が経営危機に陥るほどの不況である。
ふつうに考えれば、同心風情の収入では、芝居にうつつをぬかすなどは、不可能なはずであった。
ところが、奉行所の同心には、出入りの商家や大名、旗本などからのつけ届けなどの副収入があり、その懐は、数百石の旗本などより、はるかに豊かなのだ。
したがって、湯水のように金を使うものが後を断たない……。
というより、真面目に職務に
牧野は、八丁堀の同心にありがちな、仕事よりも道楽に情熱を注ぎこんでいる口なので、三吉を鍖衛が使うのを黙認し、そのかわり、自分の道楽にも眼を瞑ってもらうという、暗黙の了解の上に成り立つ関係だったのである。
「――そのことなんですが、手前にも手伝わせてください」
薫がそう言うと、鍖衛が、
「そいつは助かる。実は俺も先生に、助っ人をたのもうと思っていたんだ。それでもまだ、ふたりぐらいは、手が欲しいところだが……」
「実は、腕の立つ友を紹介できますが、その男、腕は立ちますが貧乏浪人でして……」
「使えるやつならば、一日一分出そう。四日で一両なら悪い話じゃあるまい」
「その男は手前と同門……千駄木坂下町の新陰流・谷川道場で一、二の使い手です。さよう、見てくれはともかく、腕前は、保証できます」
「ほう、そいつは頼もしい。じゃあ、よろしくたのむぜ」
そう言うと鍖衛は、煙草盆を引き寄せ、いつもの煙管で一服つけ、旨そうに煙を吐きつつ、
「ところで陰陽師といえば、安倍晴明が、ひとを呪い殺せるかと聞かれて、葉っぱで蛙を殺した話があるが……」
「ああ、宇治拾遺物語ですね。そう、ほかにも、
「俺は、そういう話が大好きなんだが……実際に、この目で見たためしがねえんだ。本当にそんなことができたのかね?」
「晴明ほどの術者なら、その程度のことは、児戯に類するでしょうね」
「俺がいちばん知りたいのは、人形(ひとかた)の紙に術をかけて使役するという……」
「式神ですか……」
「そう、そいつよ。あれは幻術の一種なのかい?」
「根岸さま……以前、そう、二年ほど前まで、猫を可愛がっていませんでしたか?」
薫が鍖衛にきいた。
「たしかに飼っておったが、それがどうかしたのかい?」
「その猫は、白い身体で、右目の周りに黒い
「なぜそれがわかる。こいつも一種の占いかい?」
薫は、にっこりと笑うと、袂から和紙でできた人形を取りだし、背中の真ん中から縦に二つ折りにして、ちょうど紙相撲の力士が倒れたような形で床に置いた。
「……?」
鍖衛と佐吉が、怪訝な表情を浮かべたが、薫は、気にした様子もなく、人差し指と中指を口元につけ、
「――しゅっ」
と、鋭い息を吐いた。
すると、二つ折りの人形は、目の周りに斑がある猫にかわり、にゃあ、と声をあげた。
「おおっ、ちび……ちびではないか!」
手のひらに乗るような大きさの猫は、甘えたように、鍖衛の膝に顔をすりつけ、みゃあみゃあと鳴いている。
ちびは、二年前に死んだ鍖衛の飼い猫だった。
「よほど根岸さまが好きだったのでしょう。成仏せずに根岸様の周りをうろうろしていました」
鍖衛は、猫を懐に抱いて優しく撫で、猫は舌をだして、その手を舐めている。
「先生……ありがとよ。まさか、もう一度ちびに会えるとは、思ってもみなかった……でも、このまま成仏しないのは、良くないような気がしてならねえ……」
黙って薫がうなずいた。
「では……」
薫は、印を組むと、短く経文を唱える。
すると、鍖衛の懐から、蒸発したように猫の姿が消え失せ、人形が、はらりと床に落ちた。
「こいつぁ……驚いた。 ――今のは、いったい……」
鍖衛が、あっけにとられていると。
「多くの妖は、ひとの想いや念が凝り固まったものか、時を経た獣や植物が変化したものです。それらは、めったに己れだけでは、この世に干渉するようなちからはありません。
そこで、依り代――この場合は形紙ですね――。を、与えることで、こうして姿を現すのです」
「じゃあ、式神というのは……」
「先ほどのは、たまたまそこにいたものを、お見せしただけですが、式神は、もっとちからの強いものを見つけ、それを使役するのです」
「じゃあ、ちからの強いものを見つけ、使役できれば、ひとを呪ったり、殺したりもできるってわけですか」
佐吉が言うと、
「ええ。術者にその
「話は戻るが、ならば管狐というのは……」
「管狐、もしくは術に使う狐は、生きながらにして、妖のちからを持っているので、実体があるぶん、使いやすいといえるでしょう」
「だが……今回の狐騒動のきっかけになったのは、古い祠にあった、飯綱権現の像のように俺には思えるのだが……」
鍖衛が言うと、
「手前が気になっているのも、そこです。管狐は、たしかに使いやすいのですが、実体があるぶん、逆にいえば、狐を殺してしまえば、術は
――しかし、もし、それが実体のない、狐の念のようなものだとすれば……」
「どうなるんですかい?」
佐吉の声が上ずっている。
「相手が、それを使いこなせる術者ならば……厄介なことになるでしょうね」
「ははあ、俺にはなんとなく読めてきたぜ」
鍖衛は、再び煙管から烟を吐きながら続ける。
「妹のおすがが、小笠原家の女中奉公に入りこみ、飯綱権現を持ち出したが、何らかの理由で狐憑きみたいになっちまった……
それで、今度は姉のおみつが、その飯綱権現で、なにかやらかそうと企んでいる……」
「ええ。手前もそうではないかと考えています」
「――て、ことはだ。その飯綱権現の像に、なにか剣呑なものが封じ込められている……と、考えられるわけだ」
三人の間に、沈黙が流れた。鍖衛は、黙然と煙管を燻らせている。
そこへ、部屋の外から声がかかった。
「殿、入ってもよろしいでしょうか?」
「おお、袴田か……かまわぬ……入れ。このような夜更けに、何用だ」
心なしか袴田の顔が蒼ざめて見える。
「はっ、聞きおよびかと存じますが、昼に高田馬場・穴八幡で乱心者が暴れた件ですが……北から届いた調書がこれに」
内与力の袴田が調書を差しだすと、鍖衛は、パラパラとめくり、ぎょっ、としたように手を止めた。
鍖衛は、調書を睨みつけるように凝視したまま、
そして、煙管の火が消えたのにも気付かぬふうで、しばらく沈黙していたが、
「ふうむ……こいつは……袴田。北(月番の北町奉行所のこと)は、なんと言っている?」
今月、南町奉行所は非番である。当然、この事件の捜査は、北町奉行所の担当だ。
「はっ、捜査を指揮した与力の古賀殿は、下手人も死んでいることだし、単に乱心者が暴れただけであろうと判断したようです」
「根岸さま、いったい何事でございましょうか?」
「佐吉、それに先生も聞いてくれ……」
鍖衛は、高田馬場・穴八幡で起きた、
みるみるふたりの
「なんと、小笠原家の家臣が……
薫がつぶやく。
「俺もそう思う。なにやら恐ろしいことが、はじまっちまったようだ」
部屋のなかには、緊張した空気が流れた。
内与力の袴田が、それに耐えかねたように、
「これは、もはや道楽で片付く話ではありません。ことは、小笠原家の内情に深く関わります。
いっそのこと、評定所に委ねてしまったほうが……」
「ふ、ふふ……袴田、そりゃ無理ってもんだ。お偉いさんに、どうやって狐のことを納得させるというのだ」
「それに、ここまで関わっちまったら、あっしらで
佐吉の台詞に、陰陽師までがうなずいている。
袴田は、三人に目をやり、あきれたように苦笑した。
――しかし、もしこの事件を解決できる者がいるとするならば、鍖衛を置いて他にないと思うと、ため息をつかざるをえなかった。
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