8  上野 池之端


 薫がゆっくりお茶を飲んでいると、半刻も待たせず佐吉は、赤門寺に戻ってきた。

「篁殿、どうやらあのふたり連れは、小笠原の家中のようでございます。西国訛りがありました」

「やはり……それで、探している男というのは?」

「身の丈六尺あまりの、いかつい剣客ふうの男を見なかったかと、しきりに嗅ぎ回っていました」

「その男が、おみつと連れだっていた……ということですね。こうなると、おみつの狐憑きは、狂言に違いないでしょうね」

「あっしもそう思います。篁殿が来たら、それが露見するから逐電したんでしょうかね?」

「それだけではないでしょう。 ――おそらく、見舞いに来た商人は仲間で、佐吉殿を尾けたやつは、松兼を見張っていたのではなく、“松兼を探る者”を見張っていたのです」

「となると、やつらの狙いは、なんでしょう?」

「それは、まずまちがいなく、小笠原家に関わることでしょうが……手前は、どうにも中屋敷から持ちだした飯綱権現の像が気になります……」

「なぜそこまで飯綱権現に、こだわるんですか?」


「先ほど佐吉殿に、祝詞でも経文でも呪術は成り立つといいました。そして、それはにすぎないと……

しかし、どのようなを使うにしても、必ず(よりどころ)がなければなりません」

「と、いうのは?」

「たとえば……ここに、憎んでも憎みきれない相手がいたとします。しかし、ただ憎んだからといって、相手がどうなるものでもありません」

「まあ、それでどうにかなったら、敵討ちをする者は、いなくなりますね」

「そこで、道具を使うのです。藁人形に五寸釘が、いちばんわかりやすいでしょう。藁人形に釘を打つという行為に、己の怨念をこめるわけです。

――その藁人形のかわりに、管狐という獣を使うのが飯綱使いです。これは信州地方ではなどともいいます」

「でも、飯綱権現の像なんか使いますかね」

「いや、像そのものではなく、その像に、なんらかの念をこめた……ということは考えられます」


「もっとも、藁人形に釘のような、具体的な根拠に欠ける呪法は、素人がやっても効果はありませんが……」

「へえ、じゃあ、どうやったらいちばん呪いが効くんですか?」

「自らの身体を苛め、傷つけ、己の命を削るのです。これなら、たとえ呪いが効かずとも、少なくとも相手に嫌な思いぐらいは与えられるでしょう」

 薫がひとの悪そうな笑みを浮かべた。

「それじゃあ、ただの負け犬じゃないですか」

 佐吉が呆れると、

「――そこで管狐です。これなら、己の命を削ることなく、“獣のちから”で相手の命を削ることができます」

「なるほど、獣の命を使うのですね」

「そう、それが厭魅えんみという呪術の基本です。これはずい代から続く蠱毒こどくという呪法の一種です」

「こどく……ですか」


「もともとは、虫や獣を共食いさせ、生き残った、いちばん強いやつを殺して、その恨みを己の怨念とともに相手に背負わせる方法です。唐国では粉にして、こっそり相手に食わせたとか……」

「そりゃあ、なんとも陰険ですね」

 思わず佐吉が眉をしかめた。

「陰険……まさにそのとおり。世の中は、陰と陽の釣り合いが取れてこそ、はじめて成り立つのです。このような陰に偏った外法を行えば、必ずその報いを受けます」


「篁殿は、どうやってそれを祓うのですか?」

「手前の根拠(よりどころ)は、この一剣あるのみ」

 薫は、腰にした刀をすらりと抜いた。

 陽光を浴びて刀身が煌めく。

「大和の国、当麻国行たいま くにゆきです」

 当麻国行は、大和の国北葛飾郡、当麻寺の僧兵のために鍛えられた、まさに戦うための道具だ。

 二尺三寸二分、大摺り上げ、やや先反りで板目肌流れ、地沸え細かい、鎌倉後期の名刀だ。

 国行は、その当麻の初代の名工である。


 佐吉が呆けたように刀身に魅いる。刀剣には素人でも、その刀のただ事ではない佇まいには、息を呑ませるに充分な迫力があった。

「さて、参りますか」

 納刀すると薫が立ち上がる。

 ふたりは、連れだって赤門寺をあとにすると、行徳に向かって歩きだした。

 佐吉と薫が、日本橋小網町の河岸に着いたのは、まだ夕刻である。ふたりは、そのまま神田の町を抜け、上野に向かって歩きだした。


「篁殿……やつら、やっぱり張ってましたね。尾けられてますぜ」

「手前たちが小網町に戻るのは、わかってますからね……誰かが知らせ、河岸で待っていたのでしょう。ご苦労なことです」

「どうします。撒きますか?」

「佐吉殿、それよりも……」

 と、薫が佐吉に耳打ちすると、佐吉が驚いて目を丸くする。

「しかし……さっき、ちらっと、強そうな剣客ふうが、ふたり見えましたよ。大丈夫なんですかい?」

「まあ、手前を信じてください」


 ふたりは、上野広小路を通りすぎ、池之端仲町の料理屋に入った。夕刻なので、あたりはまだひと通りが多い。

 その料理屋でゆっくり食事をとり、店を出ると、陽は西に沈み、夜がせまっていた。

 黒門前の三枚橋を渡り、そのまま不忍池の湖畔に細長くへばりつく、仁王門新町の町並みを横切る。

 この仁王門新町にある、松源や雁鍋という料理屋は、上野の戦争のさい、鳥取藩の鉄砲部隊が、彰義隊を銃撃した場所だが、それはまだ後の話である。


 池のほとりに続く道には、そぞろ歩きのひとが、ちらほらいたが、弁天島に渡る橋を通りすぎ、木立が頭上に覆いかぶさるあたりまで進むと、さすがにひと気も絶え闇が迫る。

 すると……。

 それまで遠慮がちに尾行していた男たちも、気配を消すこともなく、一気に佐吉と薫に向かって、距離を詰めた。

 闇が濃密な殺気で膨らむ。


 闇に浮かんだ刺客の影はふたり。すでに刀を抜いており、弁天島の橋の渡り口の常夜灯が、きらりと反射した。

 薫が佐吉に合図を送ると、佐吉は、ものも言わず、いきなり走りだした。

 薫は振り向きざま、迫る刺客のひとりに、つぶてを投げた。

 先ほど入った料理屋の陶器製の箸置きだ。

 箸置きは、狙い違わず、刺客のこめかみを直撃する、刺客は気絶し、その場に転倒した。


 薫は、倒れた刺客には構わず、もうひとりの刺客と向かい合う。

 刺客の正眼に構えた剣先は、ぴたりと薫を指し微動だにしない。

 薫は、まだ刀を抜いていない。いや、どうやら抜く気もないらしく、両手をだらりと下げたまま、刺客を見つめる。

 凡庸な使い手なら、闇雲に斬りかかるだろう。しかし刺客は、刀を構えたまま動きを止めた。

 薫のただならぬ実力を見抜いたのだ。

「一刀流……かなり使いますね」

 言いながら、薫の右手がゆっくり上がる。その右手を見た刺客が、ぎょっ、となった。

 薫の手には、いつの間にか一尺ほどの棒が現れていた。

 どうやら袂に隠していたようだ。


「さて、ちょっと遊びますか」

「うぬ……貴様、愚弄する気か!」

 刺客が激昂するのも無理はない。

 なぜならば、その短い棒は、これも料理屋から拝借した、“擂り粉木”だったからだ。

 薫が腰を落とし、右半身になり、擂り粉木を構えつつ、間合いを詰める。擂り粉木を小太刀に見立て、刃を上に向け左手を添えて掲げ持つ形だ。


 無造作に間合いを詰められ、反射的に刺客が斬り下ろした。

 薫は、その刀を棟をすりあげるかたちでいなし、そのままくるりと擂り粉木を回して刺客の肩を打ち、半回転させて、首筋を叩いた。

 言葉にすると長いが、一瞬の動作である。

 刺客が気絶して倒れると、いつの間にか佐吉が現れ、気絶した刺客の身体を道ばたに寄せる。

 そしてふたりは、池のほとりの躑躅ツツジの植え込みに身を潜めた。


 小半刻ほど時が流れた。

 最初に気絶から覚めたのは、箸置きを喰らった男である。

 男は、よろよろ立ち上がると、仲間に活を入れて目覚めさせ、肩を貸すように歩きだした。

 それを見て、躑躅の陰の佐吉と薫が眼を交わす。

 刺客の後を尾けて、隠れ家を突き止めるつもりだ。

 刺客はふたりともまだ足がふらついているので、まるで酔っぱらいのようだった。

 刺客たちは、上野の山と寛永寺をぐるりと回りこむかたちで、浅草方面に向かって歩いてゆく。

 千鳥足だが、町には酔客が行き交っているので、怪しむものはいない。


 まだ完全には回復していないのか、一里ほどの距離を、一刻近くもかけてゆっくり歩き、浅草の外れの坂本町までやってきた。

 表通りこそ、千住から奥州・日光両街道に連なる繁華な町だが、浅草もこのあたりまでくると、町の裏手は、寺や田圃が目立ち、田舎じみた場末感が漂う。

 ふたりの刺客は、坂本二丁目で細い路地を右手に曲がり、越中富山十万石・松平出雲守の下屋敷に近い、寺と畑の間の雑木林の中に建つ、古びた百姓家に入っていった。

 家の向こうには、入谷田圃がひろがり、遠く吉原の灯りが空を照らしている。

「ここなら目立たないし、江戸市中にも近い……いい隠れ家をみつけたものですね」

 薫がつぶやいた。

「ちょうど近所に飴売り三吉の手下が住んでいるので、見張りは、そいつに任せて、あっしらは根岸様のところへいきましょう」

 ふたりは、その場をあとにした。






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