7  高田馬場 穴八幡



――佐吉が赤門寺を飛びだした、ちょうど同じころ。

 鍖衛は、屋敷に戻り、羽織を脱ぐと、長いため息を吐いた。

「まったくお城勤めは、疲れるわい。 ――肩が凝ってしかたない」

「非番なのに、ご苦労なことでございます」

 羽織を受け取りながら、内与力の袴田升之介がこたえる。

 奉行所には、南北があり、一月ごとに交代で職務にあたる。

 南町奉行は、今月は非番で、本来鍖衛は、登城の必要がないのだが、重要な案件があるときは、登城し、月番の老中らと討議せねばならない。

「しかし、おかげでよい話を聞くことができたわ」

「――と、いいますと例の狐憑きの件でしょうか? 殿、物好きにもほどがございますぞ」

 袴田が遠慮なく諫言した。

 奉行所の与力や同心は、建前は、一代限りの役なのだが、実際は世襲が行われており、代々変わることはない。

 したがって、しょっちゅう入れ替わる奉行とは、上手く噛み合わないことが多く、その点、鍖衛が自ら雇用している内与力は、身内同様。その言葉には、遠慮がなかった。


「そう申すな。控えの間で耳にしたが、どうやらこの一件、きな臭い匂いが漂ってきたぞ……

小笠原家には、なにやら内紛があるようなのだ」

「しかし、ことは大名家……奉行所は介入くちだしできかねますが……」

「わかっておる。だが、どうにも嫌な予感がしてならぬ……

もし、なにかが起こってもあわてぬよう、心配りをしておくに越したことはない」

「まさか、お家騒動のたぐいでは……」

「いや、 今のところ、それはないであろう……だが、噂によると、お庭番が小倉城下に入りこんでいるらしいのだ」

 鍖衛がそう言うと、袴田の貌に緊張が走った。

 お庭番とは、いうまでもなく公儀隠密……つまり、幕府が抱える間者(スパイ)ことだ。

 通常、お庭番は、外様大名の領内に間者として送りこまれるが、小笠原家は、譜代も譜代、西国の外様を抑える要である。

 もし、そこにお庭番が送りこまれたのだとしたら、それは只事ではなかった。


「それにしても西田のやつめ……そのような憂いがあるとは、おくびにも出さなんだわい」

 西田の任じた次席家老職は、留守居役と協力して、各藩と内々の交渉や情報交換を行う、今でいう外交官だ。それぐらいの腹芸は、してみせて当然であろう。

「しかし……お家騒動ではないとすると、一揆や打ち壊しのたぐいでしょうか?」

「ふ、ふふ……さすが我が与力。よいところを突く。なかなかの慧眼だ……実は、な……」

 鍖衛が語りだした。


――小倉藩の歴史は受難の歴史である。

 古くは幕府より、清国の密輸船の取り締まりを命じられた(皮肉なことに同時に命じられたのは、その密輸の主役のひとつ、長州藩だった)のを手始めに、河川改修や道路普請など、押しつけられた数々の大工事。相次ぐ冷夏や干魃による不作……。

 それにをさしたのが、享保十七年のいなごの大群の襲来である。

 農作物に被害を与える飛蝗は、正確には、トノサマバッタの仲間だが、このときの大群は、ウンカの群だと推測される。

 蝗害によって農作物は壊滅。四万二千人の餓死者を出す悲劇になった


 この悲劇以来、小倉藩の経済は、常に破綻状態だったといえよう。

 藩士の禄米の強制的な借り上げは恒常化し、農民には苛烈な年貢の要求……。

 逃散ちょうさんし、離農するものが後を絶たなかった。

 この破綻した藩政の立て直しに着手したのが、家老に就任した犬甘知寛いぬかいともひろである。

 犬甘は、手始めに、酒・醤油醸造販売、呉服、質、米穀、薪炭、宿、船など、あらゆるものに課税し、昨年(寛政六年)には、御建替仕法を成立させ、逃散した百姓を呼び戻し、税を農民だけに押しつけるのではなく、商人や職人にも一律運上金を課した。

 一方で、新田開発や干拓事業、ハゼの栽培によって蝋燭を作り産業を興すなどして、藩政は、奇跡的に立ち直りつつあった……。


「――というのが、大まかなところじゃ」

「なにやら田沼さまと白川候の、良いとこどりのようでございますね」

「うむ。この犬甘という男、よほどの切れ者であろう……だがな、こうした急進な改革は、必ず……」

「――敵を作る。ということでございますね」

 鍖衛は、うなずき、

「どうやら、小笠原の家中が、真っ二つに割れておるようなのだ」

 と、言った。

 袴田が、ごくりと唾を飲みこむ。

「それだけではない……百姓たちに、積もり積もった不満は、爆発寸前のところにまできているであろう。

――このまま、なにも起きねばよいのだが……」

 そう言いながら鍖衛は、再びため息を吐いた。

 しかし、このときすでに、その――なにか、は起きつつあった。

 そして、鍖衛の懸念は、後年現実のものとなるのである……。


――同日。

 小倉藩の三十俵取りの、馬廻り役同心・小野田伴蔵は、非番を利用して、昼七つ半に、大久保・下屋敷をあとにして、高田馬場の穴八幡宮に向かった。

 小倉藩小笠原家の、下屋敷には厩舎があるが、高田馬場に近いため、上屋敷よりも馬の世話をする者が多く、身分の軽い藩士、馬丁や下男など、十数名が常駐している。


 当時の大久保は、躑躅が名物であった。大名家の下屋敷や旗本屋敷があるほかは、わずかに町屋が点在するだけの、まったくの田舎である。

 小野田が、穴八幡の門前町にあらわれたときには、普段と変わったところは見られず、いつもと同じように参詣を済ませると、門前にある『いるまや』という茶店で一服していた。


 高田馬場にほど近い穴八幡は、徳川家の庇護も厚く、また、八代将軍吉宗が流鏑馬を奉納するなど、なにかと馬に縁がある。

 地元・牛込町には、氏子の幕臣が多く居住しており、穴八幡は、江戸っ子にも広く親しまれ、いつもにぎわいをみせていた。


 小野田のすぐ横に座っていた近郊の沼袋村から参詣にきた、百姓の女房くめは、小野田が湯飲みを手にしたまま、まったく動かないのを見たが、景色でも見ているのだろうと、最初は気にも止めていなかった。

 しかし、あまりに長い間微動だにしないことを訝しく思い、ふと小野田の眼をみると……。

「ひっ」

 と、小さな悲鳴をあげた。

 小野田の顔には、まったく表情がなく、見開かれた眼は、瞳孔が絞られ、まるで猫かなにかの獣の眼のように光って見えた。

 小野田は、すい、と立ち上がると、腰の刀をすらりと抜いた。

 茶店にいた周りの客たちが、一斉に身を硬くする。

 その瞬間、小野田は、ひとのものとは思えない、怪鳥のような声をあげながら、刀を振り回し、門前の人ごみに斬りこんでいった。

「うわっ」

「な、なんだ!」

「乱心者だーっ!」


 蜘蛛の子を散らしたように、人びとが逃げまどい、鋭い女の悲鳴が響きわたった。

 小野田は、驚いて固まる商人ふうの中年男に斬りつけると、左手にいた町女房ふうの女の背中に刀を走らせ、血が飛沫く。

 そのまま走りながら、逃げ遅れた老婆の肩を斬りつけ、腰を抜かして座りこんでいた百姓の首を薙いだ。

 あたりは阿鼻叫喚、さながら血の海である。

 近くには、刀を腰にした武士もいたが、金縛りにあったように、立ちすくんだまま呆然としている。

 刀を手に、なおも次の獲物を探すように、小野田が穴八幡の門に向かって進む。

「きゃーーっ」

 悲鳴をあげながら逃げる町娘に、小野田が斬りかかろうとしたとき、傍にいた竹刀を担いだ若者が、荷物を放りだすと、

「狼藉者めっ!」

 と、素早く刀を抜き、小野田を袈裟懸けに斬った。

 しかし、斬られた小野田は、痛みなど感じぬのか、おびただしい血を滴らせたまま、無表情に大根でも斬るように、若者の腕を斬り飛ばした。


そのとき……。

 垢じみてはいないが、つぎだらけの、洗いざらしの着物を身につけた浪人者が駆けつけ、娘を庇いつつ、

「狂人め!!」

 と、腰の黒鞘から目にもとまらぬ速さで刀を走らせ、小野田の腰を払い、返す刀で左肩から一刀両断に斬りおろした。

 よほどの使い手らしく、見ていたものたちの目にも止まらない、凄まじい斬撃である。

 普通なら何度も即死するような刀傷をあびているのに、それでも小野田は倒れず、斬りつけた浪人者にふらふらと向かう。

 眼は吊り上がり、猫のように瞳孔が狭まっていた。そして、まるで獣のように歯を剥きだしたその顔は、とてものものとは思えない。

 しかし浪人者は、あわてるでもなく、間合いを外すと、


「なるほど……あやかしのたぐいか。これは俺じゃあなく、の出番だな……」

 むしろ、落ち着いた声でつぶやいた。

 小野田、いや、小野田には、動きを止めることなく、浪人者に向かって刀を振りあげる。

「ちっ……しかたねぇ、見よう見真似だが……」

 浪人者はそう言うと、それまで正眼に構えていた剣を、ゆっくりと大上段に構え直し、

「エイッ!!」

 鋭い気合いとともに、真一文字に斬り下ろした。

 刃先は、小野田をかすることもなく、虚しく宙を斬ったが……。

 ふしぎなことに、小野田は、糸の切れた操り人形のように、パタリと地に崩れ落ちた。


「むっ、逃がしたか……だが、素人がここまでやれば上出来だろう」

 そうつぶやくと、腰を抜かしている町娘に向かい、にっこり笑いかけ、

「大丈夫かい。怪我はねえか?」

 優しい声で語りかけた。

 娘がうなずく。

「そうか。そいつはよかった」

 浪人者は、無邪気な笑顔を浮かべる。

 総髪を無造作に束ね、浅黒い肌の厳めしい顔つきだが、優しげな眼と真っ白な歯が、不釣り合いに爽やかだった。

 浪人者は、懐紙で血を拭い、刀を鞘に収めると、後ろも見ずに、悠然と歩いてゆく。

 役人が駆けつけたころには、その浪人は、すでに立ち去ったあとであった。


 惨劇の現場からやや離れた、草むした土塁に立ち、その浪人者を、鋭い眼差しで見つめる着流しの男がいた。

 男の傍らには、町女房ふうの風体をした、艶やかな女が寄り添っている。

「剣先が開いていたな。それにあの廻剣……新陰流か。いずれにしても恐るべき使い手……」

 そうつぶやいた男は、六尺近い身長に、巌のような身体つき。袖口からはみ出した腕は、松の根のように筋肉がうねっている。

「あの浪人、オサキを切り離しやがった」

 そう言った女を、松兼の清兵衛が見たら、どう思っただろうか。

 この女こそ、船橋から逐電した、おみつであった。


「それにしても、おまえの先祖……恐ろしいことを考えついたものだ。おすがには気の毒だったが、こいつさえあれば……」

蔵楠くらくす様……すべては、わたくしの家と貴方様を見捨てた、あの憎き奴を滅ぼすため……おすがにも、わかってもらえるでしょう」

 蔵楠と呼ばれた巌のような男は、口元に皮肉な笑みを浮かべ、

で、あと何人か息のかかった者を殺れば、奴も一旦江戸に来ざるを得まい……」

 と、話しているところに、いかにも商人らしい形の男がやってきた。実直そうな風体のわりには、油断のならない鋭い目つきをしている。

 この男、先日、佐吉に短刀で襲いかかった男だった。


「おお、伊佐次か。船橋宿の様子はどうだ?」

「へい。あの得体の知れねえ男が、今度はやけに見栄えのいい剣客ふうのやつと嗅ぎ回っています。それと、家老の配下がふたり……」

「ふむ、やはり犬甘いぬかいの手下であったか……だが、今度は腕利きの刺客を送りこんだ。よもや失敗しくじりはあるまい」

「それがどうも……あいつらは、家老の手先ではないような気がします。

剣客ふうですが、そいつは陰陽師でした……どうやら松兼の主人が、おみつ殿のために呼びよせた、例の篁某たかむらなにがしらしいです」

 伊佐次がそう言うと、

「ふん、先祖の怨みも忘れた亡八者が……松本屋兼次郎の屋号に恥ずかしいとは思わないのかい」

 おみつが、さも苦々しく吐きすてた。

 松本とは、信州・松本を指す。兼次郎は、武士を捨て、商人になった『松兼』の創業者の名前である。

 つまり、船橋宿の松兼は、信州松本の元・武士が創業した店だったのである。

 はたしてこのことが、どういう意味を持つのか……。

「いずれにせよ、そのふたり……今夜までの命だ」

 蔵楠が、ぞっとするような暗い声でこたえた。



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