6  もうひとりの消えた女


――翌日。

 まだ景色がうっすらと霞んでいる早朝、佐吉と篁薫は、船で行徳に向かっていた。

 しかし、佐吉は、戸惑っていた。

 この日、小網町三丁目の行徳河岸の船着き場は、早くからたいへんな混みようで、朝一番に出る船に、乗りそこねてしまったのだ。

「妙だな……この前は空いていたんですがね」

「ああ、佐吉殿は、ご存知なかったのですか。今日は、成田山・新勝寺の正五九詣りですよ」

「なんです? そのってのは」

「もともとは、正月、五月、九月には、在家の信者が八戒を守り精進したのがはじまりらしいですが、三斎月さんさいがつの、正月、五月、九月の頭を取ってしょうごく。その月に詣でるとご利益があるという……」

「てっ、まいったな。まさかそんな日に当たっちまうとは、ついてねぇ」


 佐吉が戸惑ったのは、それだけではない。

 なによりも、いちばん困るのが薫の美貌だった。とにかく目立つことはなはだしい。

 この日の薫は、きっちり袴を穿き、腰には大刀一本を落とし差しにしている。

陰陽師の装束である、狩衣かりぎぬ直衣のうしなどを着ることもなく、総髪のせいか、まるで武者絵の剣客のように見えた。

 それにひきかえ佐吉は、例によって、固そうな商人の身なりである。

 そのふたりの取り合わせが、さらに好奇の視線を集めた。

 なにしろ小網町で船を待つ間も、船に乗ってからも、ほとんどのひとが薫を見ては目を丸くする。

 若い娘などは、例外なく頬を赤らめては、ぽうっと、薫に見とれる始末なのだ。おかげで、船上では、ろくに話すこともできず閉口した。


 行徳に着くと、佐吉の顔がさらに曇った。

 賑やかな河岸だとは思っていたが、その混雑ぶりは、つい数日前とは雲泥の差で、うどんの『笹屋』などは、店の外にまで行列ができ、とても並ぶ気にもならない。

 しかたなく、茶店で握り飯を手早く腹におさめ、ふたりは、佐倉道を歩きだした。

 行徳の町を離れ、周りが畑になると、ようやく佐吉は、先日船橋に行ったときの顛末を、薫に語りだした。ここなら、誰にも聞かれる心配はないだろう。

 松兼を見張っていた男がいたこと、そして帰りに襲撃されたことを話すと、薫は、


「ふうむ……それはやはり盗賊のたぐいではないでしょうね」

「あっしもそう思います。盗人というのは、とにかく目立つことを嫌うもんです」

 佐吉は、元が盗人なので、その言葉には、妙に実感がこもっている。

「その男、また襲いかかってきますかね」

 楽しそうに薫が言った。

「からかっちゃいけません。その男は、もういねえと思いますが、そいつの仲間が見張っているはずです。危なくなったら篁殿は、さっさと逃げてください」

「手前が佐吉殿をおいてですか……それはできません。ふたりで捕まえましょう」

 朗らかに薫がこたえた。

 佐吉は、毒気を抜かれて、まじまじと薫を見つめる。

 そういえば、いままで気にもしていなかったが、薫の腰には刀があることに気付き、

「篁殿は、陰陽師というより、御浪人のような格好をしていますがどうしてなんですか?」

 と、聞いた。


「篁家の先祖は小野篁といわれていますので、元は公家です……

しかし、手前の家は、分家筋のさらに分家でして、三代前までは、さる大名家の家臣でした」

「なるほど、そういう理由ですか。それがなぜ陰陽師に?」

「手前の祖父が、たいへんな変わり者で、浪人したあげく陰陽師になったのです」

「ははあ、それでお武家様のなりをしているのですか」

「それもありますが、狩衣や直衣、それに水干では、刀は天神差しになります。それでは、ものの役にたちません」


「……?」

 佐吉が、狐につままれたような顔になった。

 そもそも刀の反り、つまり刃を上向きに差すようになったのは、武士が剣術を研鑽するようになってからで、それまでは皆、刃を下向きに差す、天神差しといわれる差し方をしていた。

 しかし、それでは迅速に抜き打つことなどはできず、実用的とはいいがたい。

 そこで武士が、迅速に刀を抜くことができる差し方を工夫したのだ。

 したがって、いまや、武士が天神差しで刀を差すのは、乗馬のさいに、馬に当たらないようにする場合だけである。

 それにしても、佐吉には、ほっそりとして華奢ですらある薫の姿から、武士というのが、どうにも腑に落ちなかった。


 船橋の町は、佐吉が心配したとおり、まるで祭りのような活気にあふれていた。

 ちなみに船橋という地名は、日本武尊が東征のさい、漁師たちが、宿を流れる川に、船で橋をかけた故事に由来している。

 西向き地蔵の周りだけではなく、あちこちに露店商が出ていて、成田山に詣でる人びとが次々に通りすぎてゆく。

 これでは、怪しいやつを見つけることはおろか、町のどこかに飴売り三吉がいるはずだが、行き交うひとに紛れてしまい、それすら、見つけることができない。

 ふたりは、海老川をわたる橋にさしかかる。


 そして……。

 佐吉が橋のなかばまできたとき、橋の向こう側に、ようやく飴売り三吉の姿を見つけた。

 その橋のたもとには、天ぷらや寿司など、いろいろな屋台店が出ていた。

飴売り三吉は、天秤棒を担ぎながら、


とっかえべえ~


とっかえべえ~


 と、節をつけ、飴を売り歩いていた。

 飴売りは、子ども相手の商いが主で、白狐に扮したり、派手な着物を着たりと、奇抜な格好で売り歩く場合が多い。

 鎌倉飴を売る者などは、機械からくり仕掛けの人形で客寄せするほどである。

 三吉が扮しているのは、取替平(とりかえべえ)といって、特別派手な形をするでもなく、鉄屑と飴を交換する商売だ。

 つまり、これなら鉄屑を求め、あちこち売り歩いても、あまり怪しまれずにすむわけだ。

 佐吉は、三吉に目で合図を送り、そのあとは、一度も目をあわさずすれ違う。

三吉は、その瞬間、余人に聞こえぬ小さな声で……。

「赤門寺(あかもんでら)」

 短く言った。

 佐吉は、了解のしるしに、わざとらしく咳ばらいをする。

 そして薫に、

「申し訳ないですが、そこの茶店で四半刻ほどお待ちください」

 と、言うと、素早く人ごみに紛れこんでいった。


 薫が佐吉に言われたとおり、茶店で待っていると、四半刻もたたず、赤門寺から佐吉があわてて戻ってきた。

「てえへんです。松兼で騒ぎがおこったようです」

「いったい何事ですか?」

「欠け落ちしたのか、神隠しにあったのか、今朝方姉が、いなくなっちまったみたいなんで」

「ふうむ、奇っ怪な……では、一刻も早くまいりましょう」

 約束していた刻限は、昼七つだが、ふたりは急いで松兼に向かった。


 店のなかには、そわそわした落ち着かない空気が流れていた。

 客間でしばらく待たされたあげく、ようやく主人の清兵衛がやってきたが、げっそりやつれ、疲れきったように、がっくりと肩が落ちている。

「篁殿には、せっかくいらしていただいたのに、まことに申し訳ない……

ゆうべまでは、たしかに臥せっていたのですが、今朝がた下女が様子を見に行くと、部屋はもぬけの殻……娘は……おみつは、消え失せてしまいました」

「何者かにかどわかされたわけではないのですね?」

「それは、まず考えられません。ゆうべ番頭と手代のふたりが、戸締まりをすべて確かめております」

 清兵衛の話しによると、朝まで誰ひとり怪しい気配も感じず、物音も聞いてはいなかった。

 そして、裏口の鍵だけが開いており、むろん、その鍵も外側からむりに開けられた様子はなく、おすがの姉おみつが、自ら出ていったとしか思えないようだ。


「おみつさんは、着のみ着のまま空手で出ていきなすったんですかい?」

 佐吉がそう聞くと、

「それが……大切にしていた手文庫と、おすががお屋敷から持ちかえった、小さな仏像のようなものがなくなっておりました」

「それは、どのような仏像でしたか?」

「はい……大きさは、八寸ぐらい、銅色で、なにやら雲の上に狐のようなものがおり、それに仁王のような仏様がまたがったものでした」

 佐吉と薫は、思わず息をのむ。

「荼吉尼天(だきにてん)……飯綱権現(いづなごんげん)か……」

 薫がつぶやいた。

 佐吉が思わず薫を見ると……

 薫の眼は細められ、殺気にも似た光が宿り、身体全体から、冷気のようなものがたちのぼっていた。

 佐吉の背中に冷たいものが走る。


 しかし、息が詰まるような緊張は、一瞬で消え失せ、いつもの薫に戻ると、

「清兵衛さん。詳しい話しを聞かせてください」

 と、優しい声で言った。

 その声に誘われたように、清兵衛が話しをはじめる……

 おすがは、家に戻ると衰弱して寝込んでしまった。

 しかし、その小さな仏像のようなものを胸に抱くようにして離さず、家族にも触れさせようとはしなかったそうだ。

 おみつは、妹想いの姉で、おすがが奥に勤めていたときにも文を絶やさず、おすがが奥勤めから実家に戻ると、木更津の嫁ぎ先から暇をもらい、必死で看病した。

 やがて、おすがが身まかると、一旦は、木更津に帰ったが、しばらくすると、まるで狐が憑いたかのような奇怪な振舞いをするようになり、離縁されて再び実家に戻ってきていた。


 おみつの実家である松兼は、船橋宿でも富裕な商家である。

 嫁いだ娘が、狐憑きとして離縁されて戻ってきたなどということは、当時としては、店の信用にもかかわる問題だった。

「どうやらおみつは、奉公人が話しているのを耳に入れて、篁殿にお祓いをたのんだことを知り、逃げ出したようなのです」

「すると、おみつさんには、お祓いすることを、つげてはいなかったのですね」

「ええ……木更津から戻ってからは、狐憑きといっても、昼間はごく普通で、夜になると、なにやら経文のようなものをぶつぶつ唱えるだけでしたが、なにしろ近所に悪い噂が広がったので……」

「話しはかわりますが、誰かおみつさんを訪ねる者などはありませんでしたか?」

「そういえば、木更津で世話になったとかいって、商人ふうの男が何度か見舞いに……昼間は特におかしな振舞いはしないので、居間に通しました」


 肝心の娘がいなくなってしまったため、薫への依頼は、今のところ保留ということで、ふたりは、肩透かしを喰らったかたちで松兼をあとにした。

「しかし、さすがに大店ですね。駕篭代だ――って、五両もポンとよこすんですから」

 船橋宿を歩きながら、佐吉があきれたように言うと、

「まあ、口止め料というところでしょうね……」

「ところで、篁殿……さっき飯綱権現と言いましたが、飯綱ってのは、狐使いのことなんですか?」

「飯綱権現というのは、鎌倉のころ宋から伝わった荼吉尼天と、稲荷信仰が結びついてできたものです……

これが術の礎なったのは、おそらく戸隠や秋葉などの修験道の影響でしょうね。

しかし、それがいつ狐と結びついたのかは、わかりません。

そして室町のころに、蠱術こじゅつと混ざりあい、呪術に変質して生まれたのが飯綱使いです」


「あっしは狐使いは、管狐くだぎつねというのを伏見稲荷から譲り受けて、そいつを呪う相手に取り憑かせるって聞いたんですが……」

「たしかに伏見稲荷の周りに、管狐を売る“管売り”がいますが、稲荷社とは、なんのかかわりもありません。

伏見稲荷の近くで売っている……というところに意味があるのです。まあ、一種のあやかり商売ですね」

「では、管狐の狐使いと飯綱使いは、別のものなんですか?」

「元は別々ですが、いまでは、混ざってしまい、なんともいえません……

どちらも狐を媒介なかだちにして、相手にしゅをかけるというのは同じですが。

ただ……まちがってはいけないのは、蠱術も管狐も、

――ではない。ということです。

それらは、いにしえから伝わる伝承や、神道、密教、修験道などの技法を、よこしまなかたちにねじ曲げたものなのです」

「――ってことはですよ。陰陽道ってのは暦を作り、吉凶を占うのが本筋なわけですね……ならば、憑物落としは、本筋から外れるんじゃないですか?」


「陰陽道が呪術と結びつけられて考えられるのは、安倍晴明の影響でしょうね。晴明が優れた術者だったため、好むと好まざるに関わらず、それ以来“陰陽道すなわち呪術”という図ができてしまったのです」

「では、陰陽道の呪術は安倍晴明が作ったんで?」

「そうではありません。陰陽道の憑物落としや、呪術というのも、神道、密教、修験道の影響で成り立ちました。

本来――

 しかし、呪をかけたり、または、それを落としたりするのは、経文だろうが、祝詞だろうが、実は、なんでもよいのです。 ――なぜならば、その形式は、に過ぎないからです」

「じゃあ、なんですかい、願人坊主(一種の物乞い)の“あほだら経”でも憑き物を落とせるんですか?」

「落とせます。ただし……術者に能力ちからがあれば、ですが」

「へえっ、そいつは驚いた」

 話しているうちに、ふたりは赤門寺の近くにさしかかった。


 すると……。

 飴売り三吉が、赤門寺の山門をくぐり、ふたりに軽くうなずくのが目に入った。

 赤門寺の正式名は、大覚院。天正時代の創建で、娑渇羅竜王(しゃからりゅうおう)が祀られており、文字通り、山門が赤く塗られていたので、宿の人びとから赤門寺と呼ばれ親しまれていた。

 ふたりは、参道の脇にある茶店に三吉をみつけると、一度も三吉に目をやらず、ちょうどその真後ろに腰をおろした。

「やはり娘は、今朝早く逐電したようで……どうやら鍵は、木更津にあるような気がしてならねえんだが……」

 茶をすすりながら、佐吉がつぶやく。

「佐吉っつぁん。おいらも木更津が気になりますね」

「じゃあ、ご苦労ですが木更津まで、ひとっ走りしてもらえますかい?」

「もとより、そのつもりでさ」

 そういうと三吉は、やはり一度も佐吉に目を向けることなく、山門を出ていった。


「さて……手前たちは、どうしましょうか」

「こうひとが多くては、怪しいやつを探すどころじゃあ、ありませんね……

いったん江戸に……」

 と、佐吉がこたえたとき、山門をふたり連れの武士がくぐり、まっすぐ佐吉と薫を目指してやってきた。

野暮ったいなりだが、怪しげなところのない、勤番侍のような風体である。

 ふたりは、薫の前に立ち、


「御免……そこもとらは、松兼から出てきたようなので、不躾ながらお尋ね申す。いったい松兼の娘というのは、まことに欠け落ちしたのでござろうか。ご存知なら御教示願いたい」

「さて、手前どもは、商用あって松兼を訪れはしましたが、娘のことなどは、なにも耳にしてはおりませぬが……」

「なにっ、宿場であれほど噂になっているものを、長居したあげく、店から出てきたそこもとらが、知らぬと申すか!」

 痘痕面の若い侍が激昂すると、もうひとりの穏やかそうな侍が、

「落ち着け」

 と、痘痕面を手で制し、

「いや、驚かせてすまん。我らは、怪しい者ではござらん。

――実は、松兼の娘が我らの探している男と連れだっているらしく、我らは、その男に用があるだけでござる」

 思わず佐吉と薫は顔を見合せる。

「まことに申し訳ないが、手前共は、商売のみの付き合いにて、家内の事情などには、通じておらず、なんともお答えのしようがないのです。

――その男とは何者でございましょうか?」

「いや、それは返答できぬ。 ――失礼いたした」

 武士たちは、一礼すると引き返してゆく。


 佐吉は、薫にうなずくと、荷物のなかから、利休鼠の羽織を取りだし身につけ、手拭いを頬っかむりすると、

「ちょっと尾けてみます」

 と、素早く飛びだしていった。


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