5 豊前小倉藩江戸次席家老
その日の暮六ツ……。
忙しい政務を早めに切り上げ、鍖衛は、浅草のはずれにある高級料理屋の『井ノ川』に出向いた。
井ノ川は、近年になって江戸に増えはじめた、
離れに通されると鍖衛は、女中に、
「もうすぐ連れが来る。やってきたら料理と酒を……
あとは勝手に
と、心付けをつつんだ。
こうした料理屋は、密談をする客が多いので、女中は、かしこまりましたと、あっさり引きさがる。
鍖衛は、大田蜀山人を通じて、江戸で一番の料理屋といわれている『八百善』の主人・栗山善四郎とは知人だし、深川の『平清』にも何度か行っている。
しかし、それらの店では、知り合いと顔をあわせることがあるので、すべての座敷が離れになっているこの店を選んだ。
というのも、この日の会見を、あまり余人に知られたくないからである。
佐吉が足を使って情報を集めるように、鍖衛は、自分なりの方法で情報を集めるつもりだった。
離れは、落ち着いた数寄屋造りで、部屋はひろびろとしていた。
待ち人が来ず、手持ちぶさたになった鍖衛は、煙草盆を引き寄せると、腰の煙草入れから、すらりとした、石州型の銀煙管を取りだした。
雁首には、蜻蛉が彫りこまれている。
蜻蛉は『勝ち虫』といわれ、“戦に勝つ”ということに掛けて、武家に好まれた柄である。
鍖衛は達磨刻みを煙管に詰めて、旨そうに一服つける。
そのとき、女中に案内されて、ようやく客がやってきた。
「いやあ、申し訳ない。話が長引いて……すっかり遅くなってしまいました。
あの家老め、ろくな死に方をせんぞ、まったく!
や、根岸殿、例の句会以来ですな。ご無沙汰いたしております」
たしかに二本差しの侍だが、ずいぶんとさばけた、そして如才のない男らしい。
「いやいや、さほど待ってはおりません。西田殿こそ息災でなによりでございます」
この侍の名は、
鍖衛とは、共通の友人である、大田蜀山人を通して知り合った。
直亨には、さして語るべき事跡はないが、この物語の後年、高橋家から養子に迎えた
直養は、儒学を石川彦岳に学び、平田篤胤や塙保己一などとも交流を結んだ。無骨な気性を備えており、幕末にいたって勤王派になり、元治元年、長州が、英、米、仏、蘭の連合艦隊の攻撃を受けたさい、自藩がなにひとつ手を出さず、長州を見殺しにしたことに憤慨して、自害して果てているが、それはまだ後の話である。
「やや、また一服つけておりますな。根岸殿は、本当に煙草がお好きですな。
――煙草といえば、新陰流の
一日じゅう煙を吐いて、沢庵和尚に説教を喰らったとか……」
この西田という男、鍖衛と同じように珍談、奇談を集めるのが趣味なので、鍖衛とはたいへん気の合う友人だった。
「それでは、ごゆるりと……」
女中が酒肴をととのえ、部屋を出ていった。
着席し盃を干すと、西田は鍖衛の煙管を指し、
「見事な煙管ですな。それは、上野の『住吉』ですかな?」
住吉は、上野にあった煙草・煙管屋である。高級な店で、銀煙管などは、十両を超える値段のものもざらにあった。
煙管といえば住吉というぐらい知られた店で、骨董的な価値が高く、偽物が造られたほどの名品を販売していた。
「いや、これは、佐渡奉行を勤めていたとき、新潟であつらえたものです」
「ほう、新潟にも腕のよい煙管師がいるのですね。そいつで国分(最高級とされた薩摩刻み)を吸ったら、たまらないでしょうな」
戦国期に日本に輸入された煙草は、爆発的な勢いで普及し、そのため、何度も禁令が出たが、禁煙が建前の江戸城のなかですら守られず、綱吉の時代には馬鹿らしくなったのか、そんな禁令も出されなくなった。
この当時の日本の喫煙率は、九割を超え、大人から子どもまで、ほとんどの人びとが煙草を嗜なんでいたのである。
だから、煙管や煙草入れ、根付などは、その人物の趣味や嗜好を推し量る目安にもなっていた。
「ところで根岸殿、わざわざお誘いとは……やはり、例の狐騒ぎの件でしょうな」
「お察しがいい……まさに、その狐のことが知りたいのです」
「拙者は、あのとき所用で大阪から江戸に向かっている最中でしてな……江戸についたころには、件の女は、もう里に帰されたあとでした」
「たしか……小笠原家の屋敷には、狐が祀られていると聞きおよびましたが……」
「ははあ、それは大久保の下屋敷の話ですな。抱え屋敷では、稲荷などは見たことはない。 ――と、いいたいところでござるが……」
西田は、やけにもったいつけ、にやりと笑う。
「西田殿、そう、焦らさんで教えてくだされ」
「はっはっは、それでは」
西田は、さも楽しそうに笑った。
「教えてつかわしましょう。実は拙者も気になってしかたがないので……屋敷の隅々まで探してみたら……」
鍖衛は、やはり、この男に聞いて正解だと思った。
自分と似たような趣味を持つ西田が、狐騒ぎに興味を持たぬはずがないのだ。
「それが……あったのですよ! 奥女中の住み暮らす長屋からもそう遠くない、雑木林のなかに、小さな祠が!
そのあたりは、気味が悪いと、近よるものがいない場所なので、いままで誰も気付かなかったのです」
大名屋敷というのは、おそろしく広大な敷地を持っていた。
わずか一、二万石の小大名ですら、二千五百坪。それが十万石ともなれば、その広さは、数万坪にもおよぶ。
加賀百万石の本郷の屋敷などは、十万坪というから、東京ドームの七倍以上の面積である。
したがって、屋敷の建物の周辺や庭園以外は、ほとんどひとが立ち入らないので、祠の存在が知られていなくてもふしぎではない。
「その祠は、お稲荷さんでございますか?」
鍖衛が身をのり出す。
「さて……そこです。その祠は、ずいぶん古いものらしく、半ば朽ちかけておりましたが、供え物などもあり、何者かが信心していた様子がうかがわれました……
ところが、中身はもぬけの殻。一部の木の色が変わっていたので、なにかしらが祀られていたことは、まちがいないのですが……」
「すると、何者かが本尊を持ちだしたのですね。 ――ふうむ、奇っ怪な話ですな」
そう言うと鍖衛は、再び煙管に煙草を詰めた。西田は、含み笑いをしながら、
「しかし、その祠に供え物をしていたのは、おそらく狐が憑いた女中でしょうな」
「ほほう。それはまた、なぜ?」
「ふふ、ふ……根岸殿、おわかりになりませんか?」
「さて……」
鍖衛は、煙を吐きながら黙然と考えていたが、手のひらに
「わかりました! ――供え物ですな」
「ご明察! そのとおりです……
供え物は、高名な菓子屋『桔梗屋河内』の落雁でござった。
奥向きに、その菓子が差し入れられたのは、件の女中が欠け落ちする前日……
つまり、そのあとは、誰も祠には参っていないのです」
「しかし、その祠は、いつ頃から屋敷にあったのでしょうね?」
「それは拙者もいろいろ調べてみましたが、さっぱりわかりませんでした」
「しかし……供え物が干菓子でよかった。饅頭だったら黴だらけですな」
「は、はは……それにしても、中身を持ち出したのは、その女なのか否か……
もう
と、残念そうに西田が言った。
鍖衛は、その実家に探りを入れているということは、ついに口に出さなかった。
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